差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳(連載補遺3)

レッスン番外編:動物差別(続き)

 

例題4:
[a]次のような目的で動物を殺すことについて、あなたはどう考えますか。

食用、毛皮/皮革採取用、害獣駆除、娯楽の狩猟


(1)すべてやめるべき
(2)すべてやめなくてよい
(3)やめるべきものもある


[b]([a]で「(3)やめるべきものもある」を選択した人への質問)やめるべきと考えるものはどれですか(複数回答可)。

 

 人間が人間を殺すことは、正当防衛などの例外的な場合を除き、犯罪行為となりますが、人間が動物を殺すことは、ペットや保護されている野生動物をみだりに殺す場合を除き、広く合法的に行われています。このような対照的な取り扱いにも、人間が動物を人間より一段以上低い生物とみなしている人間優越主義が見て取れます。

 

 本例題に掲げたのはそうした合法的な動物殺の代表例ですから、合法的であってもやめるべきかどうかという問題になります。その点、一部の趣味人にしか関係のない娯楽の狩猟を除けば、残りの三つについては必要性が論証できるので、多くの人が「やめなくてよい」という回答になりそうです。

 

 中でも害獣駆除をやめるべきという人はほとんどいないでしょう。ただし、何をもって「害獣」とみなすかという「害獣」の定義は少し問題となります。その代表例として、田畑を荒らす動物やしばしば人間を襲撃してくるような動物が考えられます。
 ただ、これらの「害獣」に対しても、柵を設けるなど、何らかの方法で遠ざけることができれば殺すほどの必要性はないため、殺さない害獣対策の可能性を探っていくことが、動物差別を克服する一歩となるでしょう。

 

 毛皮/皮革採取目的の動物殺は、微妙な境界線上の問題となります。毛皮/皮革製品は驕奢品市場で相当に流通していますが、生物の皮を剝ぐという行為は相手が人間であればかなり異様な残虐行為とみなされるはずですから、それを動物に対して行うことは全く問題ないとは言い切れないでしょう。実際、近年は毛皮/皮革採取目的の動物殺を禁止ないし規制する国も出てきているということで、新たな潮流として注目に値します。

 

 おそらく最も多くの人が「やめなくてよい」と考えるのは、食用の動物殺でしょう。これにも、狩猟による場合と食肉産業による屠殺の場合とがありますが、いずれにせよ、人間は肉食習慣を持つので、食用の動物殺を全くやめることは困難です。
 しかし、近年は肉食習慣の強い欧米でも、菜食主義者が少なくないようです。その多くは健康志向の菜食主義でしょうが、動物愛護の観点からの菜食主義もあり得ます。その場合は動物差別克服の一助となります。
 実際、近年は人口増に伴う食肉不足や環境保護の観点からも、植物由来の肉など代替肉の製品化が試みられています。これはタンパク質を動物肉以外から摂取する新たな食習慣として注目されますが、動物愛護の観点からの代替策ともなります。
 

 とはいえ、畜産業は各国で重要産業でもあるため、その全廃は経済的な損失が大きく、進展しないでしょう。それを進展させるには、現在とは全く異なる経済システムを必要とするかもしれませんが、これは本連載の論題を超えます。

 

例題5:
[a]あなたは娯楽の競技や見世物で動物を利用すること(闘牛や競馬、動物サーカスなど)は禁止すべきだと思いますか。


(1)禁止すべき
(2)禁止しなくてよい
(3)禁止すべきものもある


[b]([b]で「(3)禁止すべきものもある」と回答した人への質問)禁止すべきと考えるものは何ですか(上例に限らず自由回答)。

 

[c]あなたは動物園という展示施設を廃止すべきだと思いますか。


(1)思う
(2)思わない
(3)わからない

 

 本例題は動物を殺さないまでも、様々な娯楽目的で利用することの是非を問います。実際、人間は様々な娯楽で当然のように動物を利用してきましたが、この場合は動物を大切な資産として飼育しているのだから、問題ないと言い切れるでしょうか。

 

 ただし、上例の中でも、闘牛などは最終的に牛が殺されるので、動物殺としての一面があり、闘牛習慣のある諸国では廃止論も近年盛んで、実際に廃止となった地域もあるようです。しかし、ゲームの規則上「殺さない闘牛」もあり得るので、それなら許されるのでしょうか。
 その点、競馬などは馬を殺すのでなく、競走させるだけですから、負傷引退馬の殺処分の是非はともかくとして、競馬廃止論はまだ極めて少数意見のようです。しかし、動物サーカスを含め、動物を特定の娯楽のために厳しく調教するということ自体をやめるべきという見方もありますが、これも現状では多数意見と言えないでしょう。

 

 まして、設例[c]で取り出した動物園に至っては、廃止論は極論として一笑に付されるかもしれません。ただ、かつての欧州ではアフリカで捕らえた黒人部族などを動物のように「展示」するということが公然行われましたが、こうした「人間動物園」は今日では当然に明白な人種差別となり、許されていません。
 しかし、動物を展示する「動物の動物園」は世界中で合法的であり、子供向け娯楽施設の代表例として、多くの人が一度は訪れた経験があるでしょう。「人間動物園」は悪だが、「動物の動物園」は問題ないという見方には、やはり人間優越主義が感じられます。
 

 ところで、現代の動物園は希少種の保存や繁殖という役割を担うようになっており、単なる展示施設ではなくなっています。これは生物種の多様性確保が国際的な環境課題となった現代における動物園の新たな存続理由と言えます。

 もっとも、動物園がそうした「希少動物保護繁殖センター」に転換するのであれば、あえて動物を展示する必要はあるのかが問われます。教育研究用ならともかく、大衆向けに有料で展示する必要性はあるのでしょうか。
 
 動物を展示するということは、人間の好奇心を刺激する動物を見世物として人間の娯楽に供していることになりますし、動物たちも多くの人間に「見られる」ことのストレスにさらされる可能性があります。
 そう考えれば、動物園廃止論も荒唐無稽の極論とは言い切れないかもしれませんが、もとよりこれはまだ方向性が定まっていない議論ですから、動物差別問題の中でも最先端と言えます。まずは結論を急ぐより、こうした問題を意識しておくことが最初の一歩となるでしょう。

〈反差別〉練習帳(連載補遺2)

レッスン番外編:動物差別(続き)

 

例題2:
あなたは動物に嫌悪感を持っていますか。


(1)持っている
(2)一部の動物には持っている
(3)持っていない

 

 動物への嫌悪感は前回見た人間至上主義と完全に同じではなく、より感覚的なものではありますが、これも動物差別の要因となり得ます。その点では、人間の同性指向者への嫌悪感と似た面もあります。

 

 ただ、動物嫌悪の中には、医学的なアレルギー反応(例えば猫アレルギー)から来る動物嫌悪や、心理的パニック障害としての動物恐怖症といった本人に責任のない病的な反応もあり、これらの動物嫌悪は差別とは無関係です。これらはある種の病気ですから、医学的な治療の対象となります。

 

 それに対して、病的ではない単なる嫌悪感は、何に由来するのでしょうか。これにも定説はまだありませんが、一つには人間至上主義の感覚的な表れということが想定できます。人間を生物界の至高の存在として優越的に認識していると、動物に対する劣等視が嫌悪感として表出されるということが考えられるのです。
 これは人種差別や性差別における種々の優越主義的思考の中でも、劣等視する対象の人種なり性的少数者なりを嫌悪するという形で表出されることと似ています。

 

 ところで、この例題では、選択肢(2)を選ぶ人も少なくないと思われます。例えば、動物全般を嫌悪するわけでないが、ヘビやトカゲあるいはゴキブリなどなど一部の動物は嫌悪するという具合です。
 これは動物の中にある種の優劣関係を認めて、その一部を嫌悪するというもので、次の例題3につながる選択的嫌悪感の問題となります。

 

例題3:
(例題2で「(1)持っている」以外を選択した人への質問)次の動物のグループを好感を持てる順に並べてください。同程度の好感度の場合は、五十音順で結構です。


鳥類・爬虫類・哺乳類・昆虫類

 

 これは動物全般に嫌悪感を持っていないことを前提に、動物のグループごとに好感度に優劣を認めるかどうかを問う例題です。
 ちなみに、各グループに含まれる具体的な動物についておおよそのイメージはお持ちかと思いますが、爬虫類にはヘビやトカゲの類の他、カメも含まれます。また育児を母乳で行う哺乳類には人間(ヒト)も含まれますが、本例題では当然ながら人間は除外されます。

 
 本例題は完全な自由回答ゆえ、どんな順番でも構いませんが、すべてのグループについて好感度に差はないという完全な「動物平等主義者」はほぼいないのではないかと予想します。
 さらに、哺乳類を一番に上げる回答が多く、爬虫類が最後になるのではないでしょうか。犬や猫に代表される哺乳類の好感度が一番なのは、同じ哺乳類としての親近感ばかりでなく、「可愛い」といった感覚的な好意もあるでしょう。
 一方で、爬虫類が嫌悪されるのは、その外見の不気味さが大いに影響しているはずです。ですから、同じ爬虫類にあっても、ヘビは最も嫌悪されますが、カメを嫌悪する人は少ないのです。

 
 また、昆虫類はその種類が極めて多いので(およそ100万種といいます)、蝶やカブトムシのように愛でられる種から、ハエのように追い払われる種、さらにはゴキブリのように発見次第殺害される種まで、人間の好感度もまさに千差万別です。

 
 このように、動物のグループの中で、さらには各グループの内部で優劣関係をつけるのも、動物差別の一形態です。これは厳密には動物の種に基づく差別なので、「動物種差別」と呼ぶのが正確でしょう。
 このような動物種差別においても、人間の容姿差別や人種差別と同様に、「見た目」が決定的な優劣基準となっています。そのため、動物種差別とは容姿差別・人種差別の動物版だと言えます。ここでも、全盲の人はヘビのような動物の特徴的な外見を視覚でとらえられないので、有視覚者ほどヘビを嫌悪しないかもしれません。

 
 ここで告白しますと、筆者もヘビは苦手です。しかし、近年は、ヘビを愛し、飼育する女性たちもいるそうです。ヘビと言えば特に女性から最も嫌悪される動物の代表格と考えられてきましたが、これにも変化が見られるようです。
 この変化は、動物を見た目で判断しない潮流の表れとして、ポジティブにとらえることができます。それが、人間の差別克服の一助となることが期待されます。

〈反差別〉練習帳(連載補遺1)

レッスン番外編:動物差別

 ここからは、差別の番外地として、動物に対する差別(動物差別)を取り上げます。動物差別とは、人間による(人間以外の)動物に対する差別のことを意味します。典型的には、人間が動物を人間より劣った生物種とみなし、不利益な扱いをすることですが、動物の中の特定の種(例えば哺乳類)のみを偏愛し、優遇することも動物差別の一環に含まれます。


 従来、差別と言えば、人間が他の人間を差別することが想定されており、動物に対する「差別」という問題意識はありませんでした。しかし、環境問題の一環である生物多様性に対する認識が深まるにつれ、動物を狩猟、食用、使役、愛玩する対象物としてしかみなしてこなかった人間の動物に対する劣遇的な扱いが反省される中で、動物差別という問題意識が浮上してきます。

 

 ただし、本連載は環境問題を主題としていないので、ここではむしろ動物差別を人間に対する差別の延長で考えていきたいと思います。その点、レッスン11で犯歴差別を取り上げましたが、犯歴者は「犯罪者」としてしばしば「鬼畜」などと動物視され、拷問や死刑にかけることが正当化されてきたカテゴリーです。

 

 こうした人間の動物視は、近代啓蒙思想の祖として名高いジョン・ロックでさえ、「人間はライオンやトラなど野生の獣とともに社会を形成することもできないし、安全を確保することもできないのであり、こうした獣を殺してもよいように、犯罪者を殺すこともできるのである」と書いているほど、犯罪者に対する非人間的な扱いを正当化するロジックとして働きます。その根底には、まさにロックが明言しているように「野獣は殺してもよい」という動物差別の視点があります。

 

 また、かつて奴隷取引の対象とされたアフリカ黒人についても、奴隷商人や奴隷所有者らは黒人を動物とみなしており、まさに家畜と同様に売買の対象として取引し、動物と同様に懲罰として鞭打つことを正当化していたのでした。

 

 こうしたことからも、動物差別は人間差別と思想的につながっていることがわかります。逆に見れば、動物差別を克服することによって、各種の人間差別を克服する道も拓かれるでしょう。

 ただ、動物差別に関してはまだ定見と言えるものが形成されていないので、ここでは本連載の本編からは切り離して練習することにしました。練習の方法は同様で、選択式の例題を通じて具体的に考えていく方法によります。

 

例題1:
あなたは、人間は人間以外のあらゆる生物より優れていると思いますか。


(1)思う
(2)思わない

 

 単純な問いですが、これこそが動物差別問題の原点となる問いです。この問いで「(1)思う」と回答する人は、人間が生物界の頂点に君臨すると考える「人間至上主義」という思想を抱いていることを意味します。
 人間差別において、「至上主義」は自身がそこに属すると認識する特定の人種や民族を優越視する思想として差別思想の典型例ですが、人間を優越的な生物と認識することも、生物学的な至上主義思想となります。

 

 では、なぜこのような思想が生まれるか言えば、それはホモ・サピエンス(=賢いヒト)という現生人類の正式学名にも見られるとおり、人間は高等知能を有する最も賢い生物種であるという自己認識に由来しています。

 

 人間が高い知能を持つ生物学的要因として脳の特徴的な進化、特に大脳の発達があることは確かですが、2020年から3年に及んでいる新型コロナウイルスパンデミックでは、脳どころか細胞すら持たないウイルスのような原始的生命体がまさに大脳を駆使して人間が開発したワクチンをすり抜けて短期間で進化していくという現実を人間は目の当たりにしました。

 

 これは、人間が誇る頭脳が完璧なものでないことを示す苦い反省材料です。およそ生物種の能力評価は、脳にばかり着目する「脳中心主義」ではなく、感覚機能や運動機能などを含めて、より総合的にとらえるべきでしょう。そうすれば、人間が文句なしに至上の種であるとは言えなくなります。

 

 「脳中心主義」は、人間差別においても、レッスン7で取り上げた知能差別の根底にあって、それ自体も優生思想の一環を成します。そのため、人間の知的障碍者や学習障碍者などは犯歴者のように動物視こそされないまでも、脳の発達が遅れた劣等者とまなざされ、差別される要因となるのです。
 こうしてみると、「人間至上主義」の克服は、動物差別のみならず、人間差別の克服にとっても、一役買うことになるでしょう。

〈反差別〉練習帳[全訂版]・総目次

下記目次各「ページ」(リンク)より、現在連載中の既存記事をご覧いただけます。

全訂版まえがき&はじめに
 

 ページ1

理論編
一 差別とは何か 

二 差別の要因

 ページ4
 ページ5

三 差別と言葉

四 差別に関する行為類型

 ページ8
 
五 差別と国民国家

六 差別救済のあり方
 
七 差別克服の視座
 ページ11
 
八 差別克服の実践練習
 ページ12
 ページ13
 
実践編
はじめに
 
Ⅰ 外見による差別

 レッスン1 容姿差別
 ページ15
 ページ16
 ページ17
 ページ18
 
 レッスン2 障碍者/病者差別
 ページ19
 ページ20
 ページ21
 ページ22
 
 レッスン3 人種/民族差別
 
Ⅱ 性による差別
 
 レッスン4 性別差別
 
 レッスン5 性自認差別
 
 
Ⅲ 能力による差別
 
 レッスン7 知能差別
 ページ37
 ページ38
 ページ39
 
 レッスン8 職業差別
 ページ40
 
 レッスン9 年齢差別
 
Ⅳ 余所者への差別

 レッスン10 国籍差別

 ページ47
 ページ48
 ページ49
 ページ50
 
 レッスン11 犯歴差別
 ページ51
 ページ52
 ページ53

民間優生学の危険性

北海道内の知的障碍者施設で、結婚や同居を希望する利用者に不妊手術を受けさせていたという報道がありました。これは単なる疑惑のレベルではなく、理事長自ら事実関係を認めているので、確信的に、しかも1996年頃から長期にわたり行われてきたことのようです。

 

施設によると、知的障害のある利用者の男女が結婚や同居を希望した場合、施設側から、障害者が子育てをすることの困難さなどを家族同席のもとで説明したうえで、「子どもは欲しくない」との意向であれば、男性にはパイプカット手術、女性には避妊リングを装着するなどの不妊処置法を紹介してきたとのことです(外部記事)。

 

施設側としては、強制不妊ではなく、あくまでも当事者の同意に基づく任意の対応だと言いたいようです。しかし、この施設は知的障碍者施設であり、当事者男女は知的障碍を持っていること、さらに施設側が当事者を後見する立場にある家族も同席させたうえで、「障害者が子育てをすることの困難さ」を前提に「説明」するといったプロセスから見て、真の意味での理解と同意があったかに疑問が残ります。

 

理事長がこうした措置の趣旨として、「障害があるために養育不全になった場合、誰が子どもの面倒をみるのか、私たちにはできない」と説明し、結婚を希望する当事者に対しては「子どもを望む場合は、うちのケアから外れてもらう」といった制裁的対応を認めていることから見ても(外部記事)、これは施設側の厳格な方針に沿った半強制的対応であることが窺えます。

 

障碍者に対する不妊措置と言えば、かつては不良遺伝子を排除し、健全な国民を育成すると標榜する優生学に基づく国の政策として実施され、日本のみならず世界の諸国で風靡した国策でしたが、現在では廃止されてきています。

 

その点、日本でも障碍者への強制不妊を定めた優生保護法が1948年から1996年まで存在し、強制と同意を合わせて2万5千人近くに不妊手術が実施されてきたところ、2018年以降、旧優生保護法に基づく強制不妊を受けさせられた人たちが全国で国家賠償請求訴訟を起こしてきました。

 

そして、今年2月には、大阪高等裁判所が、旧優生保護法に基づく人権侵害は強度なものであり、国の違法な立法行為によって障害者に対する偏見・差別が正当化・固定化、助長されてきたとして、国家賠償を認める画期的な判決を下しました。

 

ちなみに、施設側が1996年頃から問題の対応を行ってきたというのは、ちょうど優生保護法が廃止され、国策としての優生学が終了した時期に当たっています。これは推測となりますが、施設としては国策としての優生学が終了した後も、施設独自に言わば「民間優生学」を実行していたものとも解釈できます。

 

このような民間優生学が広く普及してしまえば、国策としての優生学が終了しても、優生学的措置が民間で継続されることとなり、優生学は生き残ることになります。しかも、法令に基づかないだけに、この施設のように、曖昧な要件の下、施設の利用拒否という制裁を背景に、形式的な「同意」を取って半強制的な措置として実施されてしまいます。

 

もちろん、法令に基づく優生学のほうがよいということでは決してありませんが、民間優生学は法令に基づかず闇で行われるという点で、法的統制の及ばない「野生化された(野放しの)優生学」に陥る恐れがあるのです。

 

こうした民間優生学が果たして今回発覚した施設だけの特異な方針なのか、それとも全国的に普及しているのか、政府は緊急の実態調査を実施すべきでしょう。 

 

いずれにせよ、優生論者に共通する一つの言い分として、まさに当該理事長が吐露しているように、「誰が子どもの面倒をみるのか」というケア限界論があります。その点、強制断種に飽き足らないナチスが重度障碍者の大量「安楽死」という殺戮作戦(T4作戦)にまで進んだ契機が知的障碍と身体障碍の重複障碍を持つある少年の両親からの安楽死の嘆願にあったという事実は象徴的です。

 

そして、多くの医療・福祉関係者も、ケアの限界を名分に、断種どころか、そもそもケアの対象者が存在しなくなることが究極の解決策だとの考えから、T4作戦を支持し、同作戦が公式に終了した後も、民間主導で安楽死を継続しました(野生化された安楽死)。ナチスのT4作戦は優生学の極限的暴走ですが、問題の根源は障碍者断種策と同じなのです。

 

ケア限界論は、障碍者をあからさまに劣等視することを回避しつつ、一定の真実は突いている社会的な問題に転嫁することによって、障碍者差別を正当化しようとする転嫁的差別の典型例と言えます。

 

こうした転嫁的差別の正当化理由となりがちなケア限界論を克服するには、社会が障碍者のケアを支えることが不可欠ですが、日本社会では障碍者ばかりか、非障碍者にとっても育児への社会的支援が不足しているのが実情ですから、問題の施設の方針に共鳴してしまう人も少なくないのではないかが懸念されます。

 

さらに、民間優生学の問題性を逆用する形で、再び国策としての優生学を復活させたり、あるいはそもそも障碍者が誕生しないように障碍胎児の妊娠中絶を促進する政策などが提起されないかということも懸念されます。

 

とはいえ、今回25年以上も続けられてきた施設による民間優生学の実態が明るみ出たことは、事情を知るどなたかが問題視し、内部または外部告発を敢行した結果かもしれず、その点では、日本社会の小さな進歩を示す出来事としてポジティブに受け止めることもできるでしょう。

官憲による差別的権力犯罪

日本では従来から、留置場や刑務所、入管施設等の収容施設で収容者が変死する事件がしばしば発覚してきました。つい最近も、愛知県警岡崎署に留置されていた被疑者が140時間以上も戒具で拘束されたうえに暴行を受け、持病の薬も与えられず、死亡するという事件があり、警察が警察を捜査する事態となっています。

 

少し前には、名古屋の入管施設に収容されていたスリランカ人の収容者ウィシュマ・サンダマリさんが体調を崩した際、救急治療が必要な状態であったにもかかわらず、適切な医療が与えられずに死亡した事件が大きく報じられました。

 

刑務所関連でも、死者は出ていないようですが、名古屋刑務所の刑務官22人が複数の受刑者に暴行を繰り返していたことが今月、所管する法務省自身によって公表されています。(名古屋刑務所では、2001年に、刑務官が受刑者の肛門に高圧放水し、死亡させる事件が発覚し、受刑者処遇法改正の契機となっています。)

 

ちなみに、如上の諸事件がいずれも愛知県内の収容施設で起きているのは奇妙な偶然ですが、警察署の留置場を除けば(警察も究極的には国の警察庁が管理)、いずれも国が所管する施設ですので、全国どこで同種事案が発生してもおかしくありません。

 

こうした法執行の権限を持つ公務員による作為/不作為の権力犯罪は、通常は人権問題としてとらえられますが、問題の現場となった収容施設は犯罪の被疑者や受刑者、入管法違反の外国籍者を収容するものであり、いずれも最近まで当講座で扱った犯歴差別や国籍差別とも関連してくる場所です。

 

問題の当事者となる警察官や刑務官、入国警備官といった公務員は、いずれも試験選抜され、特別な訓練を受けた官憲でありながら、なぜ収容者に対する不当な仕打ちに走るのだろうか、ということを考えると、そこには収容者に対する差別意識の介在を想定せざるを得ないのです。

 

こうした施設に収容される犯罪の被疑者や受刑者、あるいは入管法違反の外国籍者らは、犯歴差別や国籍差別を受ける「余所者」たちです。かれらの身柄を管理する公務員の内にもそうした「余所者」への差別意識があり、また一般社会にも「余所者」への官憲の不当な仕打ちを容認してしまう空気があります。

 

このような事象は日本に限らず、アメリカでも、ミネソタ州ミネアポリスの白人警察官が自動車からの降車命令に抵抗したとされる(警察発表)黒人被疑者を膝で地面に長時間押さえつけ、窒息死させた事件(ジョージ・フロイドさん事件)を機に、「ブラック・ライヴズ・マター」運動が隆起したことは記憶に新しいですが、こうした事案でも、クローズアップされた人種差別に加え、犯歴差別の意識も警察官の意識内にあることが窺えます。

 

もっと視野を広げれば、犯歴者や外国籍者の収容施設は、世界中の国で官憲による差別的権力犯罪の温床であると断言できます。もちろん、世界中で行われていることだから大した問題ではないと言いたいのではなく、世界規模の広がりを持つからこそ、真剣に取り組むべき問題なのです。

 

ただ、官憲による差別的権力犯罪の現場となる場所は外部には閉ざされた密室であることが多く、ジョージ・フロイドさん事件のように、衆人環視のもとに公然行われ、一部始終が市民によって撮影までされていたというのは特異なケースです。ほとんどの場合は、闇に葬られるか、発覚しても死亡との因果関係不明などとして不問に付されてしまいます。

 

闇から外に出すには、まずは当事者やその家族らが声を上げ、告発することから始めなくてはなりません。そして、そうした告発を社会の側が真剣に受け止め、犯歴差別や国籍差別を克服する努力をすることです。問題の事案を一般的な人権問題としてとらえ、関係者を立件し、あるいは懲戒処分にかけて幕引きとするのでは、本質的な解決とは言えません。

 

 

[付記]
冒頭の岡崎署の事件で変死した被疑者には統合失調症の持病もあったと報じられており、そうだとすると、精神障碍者に対する差別も絡む事案となり、まさに精神障碍者を収容する精神科病院でもしばしば発覚してきた患者の変死事件と共通する要素を持ってきますが、差別的権力犯罪を主題とする本稿ではこの問題に立ち入りません。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第53回)

レッスン11:犯歴差別

〔まとめと補足〕

 はじめに、犯歴差別がなぜ前レッスンの国籍差別と並び、「余所者への差別」の一環に組み込まれているかと言えば、犯歴者(犯罪者)は外国籍者(外国人)と並び、共同体のメンバーとはみなされない属性だからです。「塀の向こう」といった刑務所の隠語がそれを示しています。言わば、外国人が外なる余所者だとすれば、犯罪者は内なる余所者なのです。

  
 ところで、本レッスンは旧版では「犯罪者差別」というタイトルを付けていました。しかし、後述するように、犯罪者という用語自体、生涯消えない烙印のようなニュアンスを醸し出すため、犯歴を理由とする差別=「犯歴差別」というあまりこなれていない表現に置き換えた次第です。

 
 ただ、「犯歴差別」と言い換えたところで、他の「○○差別」と比べて、なかなかこれを差別として認識することは難しいかもしれません。その理由は、「犯罪者=劣等人間」という社会的意識が根強く存在するため、犯歴差別は、ともすれば「正義」とか「贖罪」といったビッグワードで正当化されやすい傾向を持つからでしょう。
 
 その点、日本古来の観念によると、罪も宗教的なケガレとみなされていたのですが、現代の犯罪者劣等視は専ら道徳的な観点からなされ、「卑劣な犯行」といった表現にも見られるように、犯罪者は道徳的に劣った人間と見られがちです。
 ただ、犯歴差別にあっても、視覚的表象との関わりがないわけではありません。例えば「目付きが悪い」とか「ヤクザっぽい顔」、日本では濫用気味に多用される「不審者」のように、犯罪者に特有の外見があることを前提とする表現が見られます。
 
 また、今日ではすでに過去のものではありますが、19世紀後半から20世紀初頭頃には、犯罪者は人類学的にも識別可能な肉体的特徴を持つと主張する犯罪人類学が風靡したこともありました。
 こうした犯罪人類学の泰斗でもあったイタリアの法医学者ロンブローゾは、矯正不能のゆえに死刑をもって淘汰するほかないとされる「生来性犯罪者」の理論を提唱しました。
 この理論は同時期に台頭していた社会進化論や優生思想とも結び合っていたことは明らかでした。こうした科学的根拠を欠く生来性犯罪者の理論もすでに否定されて久しいですが、今日でも死刑判決の中ではしばしば被告人の「矯正不能」が指摘され、死刑の正当化理由となっているように、死刑制度の中ではなお「生来性犯罪者」の理論が部分的に生き延びているとも言えます。

 
 一方、近年は犯罪映画やドラマの影響からか、「サイコパス」といった心理学・精神医学的な術語―実は疑似科学用語―を使用しての犯罪者差別も出現しています。これは精神医学で言うところの「パーソナリティ障害」が通俗化して、あたかもかつての生来性犯罪者理論のように、サイコパスという矯正不能な猟奇的犯罪者が存在するかのような前提に立つ用語です。
 しかし、これも生来性犯罪者理論と同様、科学的根拠に基づいておらず、多分にして映画やドラマ等のフィクションの世界の産物であることに注意する必要があります。

 
 一般に犯罪が社会を不安に陥れる有害な行為であることは否めず、犯歴者が一定以上危険視されることは不可避的でしょう。従って、その罪状によっては犯罪を犯した人の身柄を拘束し、一定期間社会的に隔離することは差別と断定できません。しかし、それを超えて犯罪を犯した人を劣等視し、その教育や更生の可能性をも否定して、抹殺や永久隔離、社会的排斥を推進することは差別となります。
 
 とはいえ、犯歴差別の克服は他の差別の克服にもまして容易なことではありません。何度か示してきた「内面性の美学」にしても、犯歴者はまさにその内面が汚れているとみなされるので、「内面性の美学」によれば、かえって差別を助長しかねない面すらあります。
 また、互いの差異より共通点を発見しようという「包摂の哲学」も、大量殺人犯人のような人物と自分との間には何らの共通点も見出し難く、我が身に引き寄せて考えてみる「引き寄せの倫理」も、自分が大量殺人犯人だったら・・・などと想像できる人は少ないでしょう(想像できるという人がいてもちろん大いに結構ですが)。
 
 お手上げのようにも思えますが、内面性の美学の派生型として、内面の浄化可能性というものを想定することができます。すなわち、内面の汚れた罪人といえども、矯正され更生することによって、内面の汚れが除去されると考えるのです。この考えは、あたかも日本古来のケガレが、一方では清めや祓いによって洗い流されて浄化されると観念されていたことと似ているかもしれません。
 このような「内面の浄化理論」によれば、「包摂の哲学」との関係でも、更生した犯歴者を私どもと「同じ人間」として認め直す可能性も開かれてくるのではないでしょうか。
 
 そう考えるならば、特定の人間に犯罪性が生来的ないし恒久的に付着しているかのようなニュアンスを帯びた「犯罪者」という用語は前差別語とみなして、その使用を極力回避し、「犯行者」とか「犯歴者」などの烙印とならない用語に置き換えることも真剣に検討すべきことになるでしょう(命題14参照)。
 さらには、そもそも「犯罪」という道徳との結びつきを払拭し得ていない用語も再考し、単に刑罰法規に違反したという意味での「犯則」と言い換えるなどの用語的工夫も有益でしょう。
 
 さらに進んで、そもそも罪を犯した人を前科者という社会的に最も差別されやすい地位に立たせてしまう刑罰制度自体を廃して、矯正と更生を促進する別のより合理的な制度を創案すべきでしょうか━。これは、もはや本連載の課題を超えた問いとなりますから、宿題とします。