差別からの自衛権一考
今年も差別克服のうえで特に目立った動きはありませんでしたが、6月に東京高等裁判所で注目すべき判決が出されました。高裁は、いわゆる被差別部落の地名を書籍やインターネット上で無断公開することについて、関係者がその差し止めを求めた訴訟で、「差別されない人格的利益」に基づく差し止めを認めたのです。*現在、被差別部落は地域改善事業の進展などにより、部落というより一つの地区となっていることを考慮して、本稿では「旧被差別地区」と表記します。
一審判決も差し止めは認めつつ、「差別されない人格的利益」については「権利の内実が不明確」として権利性を認めなかったのに対して、高裁はこの権利を明確に認めた点で画期的と評されています(外部記事)。
この訴訟の大きな特徴は、公開した人が興味本位ではなく、自身も旧被差別地区出自と明かしたうえで、部落差別の解消を目指すとされた同和行政に関する検証と議論の一助として公開したという趣旨の主張を展開していることです。言わば、自分自身のカミングアウトを超えた拡大カミングアウトとも言えます。*当事者以外の第三者が興味本位や差別的な動機から地名を無断公開することの違法性は明らかなので、ここでは論外とします。また、学術研究や差別克服その他真摯な目的のもとに行論上地名を表示することに正当性がある場合も、ここでの議論の外に置きます。
カミングアウトは通常、自分自身の被差別属性をあえて公開する行為であり、まさに自身が旧被差別地区出自であることや、性的少数者であることなどを公開することがそれに当たります。これは自己決定の自由ですから、公開した場合のリスクも考慮しつつ、あえて公開することは本人の自由です。
本件で問題になった地名は個人の被差別属性ではなく、そこに居住する住民の集団的な被差別属性ですから、個人の自己決定権の及ぶ対象ではありませんが、旧被差別地区住民の総意に基づいてあえて地名を公開して世に問うというのであれば、それは住民の集団的な自己決定として認められるでしょう(ただし、後述のように次なる問題あり)。
他方で、公開した場合のリスクを考慮したうえで、被差別属性を秘匿することも自己決定権の内容として保障される必要があります。ですから、他人の非差別属性を無断で公開することは許されないことになります。東京高裁はそうした権利を「差別されない人格的利益」と規定しましたが、もっと積極的に「差別からの自衛権」としたほうがより強力な権利となるでしょう。
現状では、被差別属性を公開すれば、周囲や匿名第三者からの差別的な態度や言動にさらされ、時として生命身体にも危険が及ぶ憎悪犯罪の標的とされるおそれが増します。それに長期間耐えられるだけの精神力を備えた人は多くはないでしょう。従って、「差別からの自衛権」が保障されなければ困るのです。
ただ、一部の当事者運動家などの間では、秘匿せずあえて公開することが差別解消に資すると主張して、同輩の非差別属性を強制的に公開することをある種の反差別運動として実行する例があります。これはカミングアウトに対してアウティングと呼ばれます。本件で問題となった地名の公開はそうしたアウティングの一例と見ることもできます。
しかし、アウティングはまさに他人の自己決定権を侵害し、「差別からの自衛権」を奪う不法行為であり、いかに反差別の大義を掲げてもこれを正当化することはできません。本件では特定個人の自己決定権を個別に侵害してはいないとしても、地名を無断公開したことにより、旧被差別地区住民の集団的な自己決定権を侵害し、ひいては「差別からの自衛権」を奪う結果となったのです。
では、住民の総意で、あえて旧被差別地区の地名を公開することは差別解消に資するのでしょうか。このことは本件訴訟を超えた次なる問題です。この問題は当事者によっても意見が分かれるところかもしれません。
部落差別問題は前近代日本の身分制度に淵源を持つ根深い問題ですが、旧被差別地区の存在を前提としたうえでその地名を公開したところで、地元ではすでに知られていることが多い一方、遠方や海外の人にとっては興味本位の豆知識に過ぎず、差別解消としての意味があるとは考えにくく、また同和行政の検証や議論に際しても地名の公開が必須とは考えられません。
そもそも前近代における最下層身分の人々が集住を強いられた部落が近現代まで存続してきたことに根本問題があると言えます。いわゆる同和対策事業も、そうした部落の存続を前提に、「平等」ではなく、「同和」なる新語を作り出して、地域間の融和と生活向上策を施すという近現代日本政府の弥縫政策の現れと考えられます。
しかし、究極の差別解消は、そもそも旧被差別地区そのものが存在しなくなり、新世代の住民が全国あるいは海を越えて世界に散らばり、先祖の出自も歴史のかなたに霧消することではないか━。これは管見にとどまりますが、拙『〈反差別〉練習帳』でも例題として取り上げたところですので、改めて宿題としてお考えいただければと思います。
重症ホモフォビアと擬態法案
18日、連立与党から「LGBT理解増進法案」なる法案が国会に提出されました。これは同性指向者やトランスジェンダーなどのいわゆる性的少数者に対する理解を増進させることを目的とする日本初の法案だとされています。
2021年には与野党超党派による同種法案が合意されていたものの、与党内の強硬な反対論から提出に至っていなかったところ、自民党内での内容改定を経て、今般、連立与党のみでの提出に至ったとのことです。しかし、その内容は、当初の超党派案より大きく後退的な骨抜き法案となっています(比較対照表は朝日新聞記事参照)。
中でも、「全ての国民が、その性的指向又は性自認にかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのっとり、性的指向及び性自認を理由とする差別は許されないものであるとの認識の下に」としていた立法目的の規定が削除された点が、すべてを物語っています。
この文言の削除により、今般法案は差別禁止法としての性格を失い、「性的指向及び性同一性を理由とする不当な差別はあってはならない」とする実質的な差別存置法案へと改変されてしまったと言えます。
すなわち、上記文言「不当な差別はあってはならない」を裏返せば、「不当でない差別」はあってよいばかりか、「不当な差別」ですら「許されない」(禁止)ではなく、「あってはならない」という限りでの道義的な否定にとどまることになります。
ここで、「不当でない差別」として最も想定されるのが、同性婚の排除でしょう。同性婚を認めない現行民法に関しては下級裁判所で違憲判決も下され始めているところ、今般法案はそうした傾向に歯止めをかけ、現行民法を護持することに隠された狙いがあると考えられます。
また、超党派案にあった「学校設置者の努力」という先進的な条項は削除されています。このことは、学校教育の中で性的指向や性自認について啓発的に教育する反差別教育の否定を意味しているので、結局、性的指向や性自認について学校で教わることなく成人する人が大半を占める現状が今後とも継続するでしょう。
結局のところ、今般法案は「理解増進」なる体裁を用いて、差別禁止法を装う擬態法と言えます。擬態とは、動物が攻撃や自衛などのため、体色・体形などを周囲の物や別種の動植物に似せる習性のことですが、人間が作る法律にも真の狙いを隠すために別の法律に似せた擬態法があるのです。
ここまでの経緯を見ると、去る2月には、首相秘書官(官僚)による同性指向差別発言の発覚がありました。発言は「(同性婚者を?)見るのも嫌だ。隣に住んでいたら嫌だ。(同性婚を)認めたら、国を捨てる人が出る」などという内容で、これは単なる差別を超えた同性指向嫌悪(ホモフォビア)の、それも相当に重症の症候的言説です。
本来はオフレコだったとはいえ、このような発言が通常は自論を発することのない裏方の秘書官からなされた背景、またこの発言と今般法案の関連性の有無など、政治事情に疎い筆者には判断しかねますが、結果として、今般法案はこうしたホモフォビアに対しても十二分に「配慮」された擬態法案となっていることは注目されます。
ちなみに、今般法案が広島サミットの開幕前日に国会提出されたのは、サミットを意識した外交的配慮の一環との観測もありますが、G7参加国中、最上級審の判例上を含め、同性指向者の婚姻または婚姻に準じたパートナーシップ制度を一切認めていないのは日本だけという中、擬態的な理解増進法案などを提出したところで、何ら外交的得点にはなりません。
件の秘書官発言では、同性婚が認められたら国を捨てる人が出るなどとしていますが、むしろ、今般の法案で同性婚の道が閉ざされれば、同性婚を認めている国へ出ていく当事者が増加するかもしれません。それは「同性指向者が隣に住んでいたら嫌だ」というホモフォビアにとってはまさに都合のよいことなのでしょう。
残念ながら、日本はホモフォビアにとっての安住地となりそうです。筆者は拙『〈反差別〉練習帳』の中で、同性指向嫌悪の理由を正面から問う例題を設けましたが(拙稿)、件の秘書官を含め、日本人はいまだここから練習を重ねる必要があることを改めて痛切に感じています。
[追記]
上記法案は、2023年6月16日、可決成立した。
〈反差別〉練習帳(連載補遺4)
レッスン番外編:動物差別
〔まとめと補足〕
レッスン番外編では、動物差別と題して、動物に対する人間の様々な扱い方を反差別の観点から考える練習をしましたが、例題で扱った問題の多くは、差別というより動物愛護の問題ではないかと思われる向きがあるかもしれません。たしかに、動物の虐待や無用な殺傷などは動物愛護の観点からも問題とされます。
動物愛護は近年、国際的にも高まりを見せており、各国で法令の整備も進んでいますが、これは人間の領域でいう人道主義と似ています。人間の場合も、ホロコーストのような人種差別的な大量殺戮はもちろん、例題でも触れた人間動物園のような娯楽も反人道的とみなされます。そうした人道主義の動物版が動物愛護だとも言えるでしょう。
ただ、人道主義はまさに反人道犯罪に相当するような罪悪を排除するうえでは有効ですが、日常に構造化された差別慣習、例えば差別の一丁目一番地である容姿差別のような事象になると、容姿差別が即反人道的とは言えないので、人道主義では対処し切れません。
同様に、動物愛護では例題の最後に見た動物園という施設の是非といった問題には対処し切れないでしょう。まともな動物園であれば飼育下の動物は大切に愛護している以上、動物園という施設自体が動物愛護に反するとは言えないからです。
人間至上主義とそれに基づく動物に対する人間の扱い方全般を問題とするには、動物愛護を超えて、反動物差別という視座からとらえ直す必要があります。これは、人間に対する差別問題について人道主義を超えて反差別という視座からとらえなければならないのと同様です。
そのことによって、未開とみなされる人間の部族や一部の犯歴者に対してしばしばなされてきた人間の動物視という形での差別の問題にも切り込むことができるようになります。そうしたカテゴリーに属する人間は動物視されることにより、人間としての扱いを否定されがちだからです。
いずれにしましても、動物差別という問題はまだ差別問題としては熟していないので、本連載では番外の扱いとしましたが、将来、本編に昇格した際には、国籍差別と犯歴差別が含まれる「余所者への差別」の三番目―全体ではレッスン12―に組み込まれることになるでしょう。
動物は人間にとってはそもそも生物としての種が異なる「余所者」ですから、外来の余所者として扱われる外国籍者や、その罪悪のゆえに共同体内の異分子として排除される犯歴者と同様に、共同体の外部の存在者とみなされます。そのため、動物差別とは広い意味での「余所者」への差別と位置づけられことになります。
とはいえ、将来、レッスン12が増設されることは望まれません。それは人間への差別も未だ克服されていないことを示しているからです。レッスン12が増設される前に人間に対する差別が全般的に克服されれば、当連載自体の存在意義が失効します。その日が来ることを願って、稿を閉じます。
〈反差別〉練習帳(連載補遺3)
レッスン番外編:動物差別(続き)
例題4:
[a]次のような目的で動物を殺すことについて、あなたはどう考えますか。食用、毛皮/皮革採取用、害獣駆除、娯楽の狩猟
(1)すべてやめるべき
(2)すべてやめなくてよい
(3)やめるべきものもある
[b]([a]で「(3)やめるべきものもある」を選択した人への質問)やめるべきと考えるものはどれですか(複数回答可)。
人間が人間を殺すことは、正当防衛などの例外的な場合を除き、犯罪行為となりますが、人間が動物を殺すことは、ペットや保護されている野生動物をみだりに殺す場合を除き、広く合法的に行われています。このような対照的な取り扱いにも、人間が動物を人間より一段以上低い生物とみなしている人間優越主義が見て取れます。
本例題に掲げたのはそうした合法的な動物殺の代表例ですから、合法的であってもやめるべきかどうかという問題になります。その点、一部の趣味人にしか関係のない娯楽の狩猟を除けば、残りの三つについては必要性が論証できるので、多くの人が「やめなくてよい」という回答になりそうです。
中でも害獣駆除をやめるべきという人はほとんどいないでしょう。ただし、何をもって「害獣」とみなすかという「害獣」の定義は少し問題となります。その代表例として、田畑を荒らす動物やしばしば人間を襲撃してくるような動物が考えられます。
ただ、これらの「害獣」に対しても、柵を設けるなど、何らかの方法で遠ざけることができれば殺すほどの必要性はないため、殺さない害獣対策の可能性を探っていくことが、動物差別を克服する一歩となるでしょう。
毛皮/皮革採取目的の動物殺は、微妙な境界線上の問題となります。毛皮/皮革製品は驕奢品市場で相当に流通していますが、生物の皮を剝ぐという行為は相手が人間であればかなり異様な残虐行為とみなされるはずですから、それを動物に対して行うことは全く問題ないとは言い切れないでしょう。実際、近年は毛皮/皮革採取目的の動物殺を禁止ないし規制する国も出てきているということで、新たな潮流として注目に値します。
おそらく最も多くの人が「やめなくてよい」と考えるのは、食用の動物殺でしょう。これにも、狩猟による場合と食肉産業による屠殺の場合とがありますが、いずれにせよ、人間は肉食習慣を持つので、食用の動物殺を全くやめることは困難です。
しかし、近年は肉食習慣の強い欧米でも、菜食主義者が少なくないようです。その多くは健康志向の菜食主義でしょうが、動物愛護の観点からの菜食主義もあり得ます。その場合は動物差別克服の一助となります。
実際、近年は人口増に伴う食肉不足や環境保護の観点からも、植物由来の肉など代替肉の製品化が試みられています。これはタンパク質を動物肉以外から摂取する新たな食習慣として注目されますが、動物愛護の観点からの代替策ともなります。
とはいえ、畜産業は各国で重要産業でもあるため、その全廃は経済的な損失が大きく、進展しないでしょう。それを進展させるには、現在とは全く異なる経済システムを必要とするかもしれませんが、これは本連載の論題を超えます。
例題5:
[a]あなたは娯楽の競技や見世物で動物を利用すること(闘牛や競馬、動物サーカスなど)は禁止すべきだと思いますか。
(1)禁止すべき
(2)禁止しなくてよい
(3)禁止すべきものもある
[b]([b]で「(3)禁止すべきものもある」と回答した人への質問)禁止すべきと考えるものは何ですか(上例に限らず自由回答)。
[c]あなたは動物園という展示施設を廃止すべきだと思いますか。
(1)思う
(2)思わない
(3)わからない
本例題は動物を殺さないまでも、様々な娯楽目的で利用することの是非を問います。実際、人間は様々な娯楽で当然のように動物を利用してきましたが、この場合は動物を大切な資産として飼育しているのだから、問題ないと言い切れるでしょうか。
ただし、上例の中でも、闘牛などは最終的に牛が殺されるので、動物殺としての一面があり、闘牛習慣のある諸国では廃止論も近年盛んで、実際に廃止となった地域もあるようです。しかし、ゲームの規則上「殺さない闘牛」もあり得るので、それなら許されるのでしょうか。
その点、競馬などは馬を殺すのでなく、競走させるだけですから、負傷引退馬の殺処分の是非はともかくとして、競馬廃止論はまだ極めて少数意見のようです。しかし、動物サーカスを含め、動物を特定の娯楽のために厳しく調教するということ自体をやめるべきという見方もありますが、これも現状では多数意見と言えないでしょう。
まして、設例[c]で取り出した動物園に至っては、廃止論は極論として一笑に付されるかもしれません。ただ、かつての欧州ではアフリカで捕らえた黒人部族などを動物のように「展示」するということが公然行われましたが、こうした「人間動物園」は今日では当然に明白な人種差別となり、許されていません。
しかし、動物を展示する「動物の動物園」は世界中で合法的であり、子供向け娯楽施設の代表例として、多くの人が一度は訪れた経験があるでしょう。「人間動物園」は悪だが、「動物の動物園」は問題ないという見方には、やはり人間優越主義が感じられます。
ところで、現代の動物園は希少種の保存や繁殖という役割を担うようになっており、単なる展示施設ではなくなっています。これは生物種の多様性確保が国際的な環境課題となった現代における動物園の新たな存続理由と言えます。
もっとも、動物園がそうした「希少動物保護繁殖センター」に転換するのであれば、あえて動物を展示する必要はあるのかが問われます。教育研究用ならともかく、大衆向けに有料で展示する必要性はあるのでしょうか。
動物を展示するということは、人間の好奇心を刺激する動物を見世物として人間の娯楽に供していることになりますし、動物たちも多くの人間に「見られる」ことのストレスにさらされる可能性があります。
そう考えれば、動物園廃止論も荒唐無稽の極論とは言い切れないかもしれませんが、もとよりこれはまだ方向性が定まっていない議論ですから、動物差別問題の中でも最先端と言えます。まずは結論を急ぐより、こうした問題を意識しておくことが最初の一歩となるでしょう。
〈反差別〉練習帳(連載補遺2)
レッスン番外編:動物差別(続き)
例題2:
あなたは動物に嫌悪感を持っていますか。
(1)持っている
(2)一部の動物には持っている
(3)持っていない
動物への嫌悪感は前回見た人間至上主義と完全に同じではなく、より感覚的なものではありますが、これも動物差別の要因となり得ます。その点では、人間の同性指向者への嫌悪感と似た面もあります。
ただ、動物嫌悪の中には、医学的なアレルギー反応(例えば猫アレルギー)から来る動物嫌悪や、心理的なパニック障害としての動物恐怖症といった本人に責任のない病的な反応もあり、これらの動物嫌悪は差別とは無関係です。これらはある種の病気ですから、医学的な治療の対象となります。
それに対して、病的ではない単なる嫌悪感は、何に由来するのでしょうか。これにも定説はまだありませんが、一つには人間至上主義の感覚的な表れということが想定できます。人間を生物界の至高の存在として優越的に認識していると、動物に対する劣等視が嫌悪感として表出されるということが考えられるのです。
これは人種差別や性差別における種々の優越主義的思考の中でも、劣等視する対象の人種なり性的少数者なりを嫌悪するという形で表出されることと似ています。
ところで、この例題では、選択肢(2)を選ぶ人も少なくないと思われます。例えば、動物全般を嫌悪するわけでないが、ヘビやトカゲあるいはゴキブリなどなど一部の動物は嫌悪するという具合です。
これは動物の中にある種の優劣関係を認めて、その一部を嫌悪するというもので、次の例題3につながる選択的嫌悪感の問題となります。
例題3:
(例題2で「(1)持っている」以外を選択した人への質問)次の動物のグループを好感を持てる順に並べてください。同程度の好感度の場合は、五十音順で結構です。
鳥類・爬虫類・哺乳類・昆虫類
これは動物全般に嫌悪感を持っていないことを前提に、動物のグループごとに好感度に優劣を認めるかどうかを問う例題です。
ちなみに、各グループに含まれる具体的な動物についておおよそのイメージはお持ちかと思いますが、爬虫類にはヘビやトカゲの類の他、カメも含まれます。また育児を母乳で行う哺乳類には人間(ヒト)も含まれますが、本例題では当然ながら人間は除外されます。
本例題は完全な自由回答ゆえ、どんな順番でも構いませんが、すべてのグループについて好感度に差はないという完全な「動物平等主義者」はほぼいないのではないかと予想します。
さらに、哺乳類を一番に上げる回答が多く、爬虫類が最後になるのではないでしょうか。犬や猫に代表される哺乳類の好感度が一番なのは、同じ哺乳類としての親近感ばかりでなく、「可愛い」といった感覚的な好意もあるでしょう。
一方で、爬虫類が嫌悪されるのは、その外見の不気味さが大いに影響しているはずです。ですから、同じ爬虫類にあっても、ヘビは最も嫌悪されますが、カメを嫌悪する人は少ないのです。
また、昆虫類はその種類が極めて多いので(およそ100万種といいます)、蝶やカブトムシのように愛でられる種から、ハエのように追い払われる種、さらにはゴキブリのように発見次第殺害される種まで、人間の好感度もまさに千差万別です。
このように、動物のグループの中で、さらには各グループの内部で優劣関係をつけるのも、動物差別の一形態です。これは厳密には動物の種に基づく差別なので、「動物種差別」と呼ぶのが正確でしょう。
このような動物種差別においても、人間の容姿差別や人種差別と同様に、「見た目」が決定的な優劣基準となっています。そのため、動物種差別とは容姿差別・人種差別の動物版だと言えます。ここでも、全盲の人はヘビのような動物の特徴的な外見を視覚でとらえられないので、有視覚者ほどヘビを嫌悪しないかもしれません。
ここで告白しますと、筆者もヘビは苦手です。しかし、近年は、ヘビを愛し、飼育する女性たちもいるそうです。ヘビと言えば特に女性から最も嫌悪される動物の代表格と考えられてきましたが、これにも変化が見られるようです。
この変化は、動物を見た目で判断しない潮流の表れとして、ポジティブにとらえることができます。それが、人間の差別克服の一助となることが期待されます。
〈反差別〉練習帳(連載補遺1)
レッスン番外編:動物差別
ここからは、差別の番外地として、動物に対する差別(動物差別)を取り上げます。動物差別とは、人間による(人間以外の)動物に対する差別のことを意味します。典型的には、人間が動物を人間より劣った生物種とみなし、不利益な扱いをすることですが、動物の中の特定の種(例えば哺乳類)のみを偏愛し、優遇することも動物差別の一環に含まれます。
従来、差別と言えば、人間が他の人間を差別することが想定されており、動物に対する「差別」という問題意識はありませんでした。しかし、環境問題の一環である生物多様性に対する認識が深まるにつれ、動物を狩猟、食用、使役、愛玩する対象物としてしかみなしてこなかった人間の動物に対する劣遇的な扱いが反省される中で、動物差別という問題意識が浮上してきます。
ただし、本連載は環境問題を主題としていないので、ここではむしろ動物差別を人間に対する差別の延長で考えていきたいと思います。その点、レッスン11で犯歴差別を取り上げましたが、犯歴者は「犯罪者」としてしばしば「鬼畜」などと動物視され、拷問や死刑にかけることが正当化されてきたカテゴリーです。
こうした人間の動物視は、近代啓蒙思想の祖として名高いジョン・ロックでさえ、「人間はライオンやトラなど野生の獣とともに社会を形成することもできないし、安全を確保することもできないのであり、こうした獣を殺してもよいように、犯罪者を殺すこともできるのである」と書いているほど、犯罪者に対する非人間的な扱いを正当化するロジックとして働きます。その根底には、まさにロックが明言しているように「野獣は殺してもよい」という動物差別の視点があります。
また、かつて奴隷取引の対象とされたアフリカ黒人についても、奴隷商人や奴隷所有者らは黒人を動物とみなしており、まさに家畜と同様に売買の対象として取引し、動物と同様に懲罰として鞭打つことを正当化していたのでした。
こうしたことからも、動物差別は人間差別と思想的につながっていることがわかります。逆に見れば、動物差別を克服することによって、各種の人間差別を克服する道も拓かれるでしょう。
ただ、動物差別に関してはまだ定見と言えるものが形成されていないので、ここでは本連載の本編からは切り離して練習することにしました。練習の方法は同様で、選択式の例題を通じて具体的に考えていく方法によります。
例題1:
あなたは、人間は人間以外のあらゆる生物より優れていると思いますか。
(1)思う
(2)思わない
単純な問いですが、これこそが動物差別問題の原点となる問いです。この問いで「(1)思う」と回答する人は、人間が生物界の頂点に君臨すると考える「人間至上主義」という思想を抱いていることを意味します。
人間差別において、「至上主義」は自身がそこに属すると認識する特定の人種や民族を優越視する思想として差別思想の典型例ですが、人間を優越的な生物と認識することも、生物学的な至上主義思想となります。
では、なぜこのような思想が生まれるか言えば、それはホモ・サピエンス(=賢いヒト)という現生人類の正式学名にも見られるとおり、人間は高等知能を有する最も賢い生物種であるという自己認識に由来しています。
人間が高い知能を持つ生物学的要因として脳の特徴的な進化、特に大脳の発達があることは確かですが、2020年から3年に及んでいる新型コロナウイルスのパンデミックでは、脳どころか細胞すら持たないウイルスのような原始的生命体がまさに大脳を駆使して人間が開発したワクチンをすり抜けて短期間で進化していくという現実を人間は目の当たりにしました。
これは、人間が誇る頭脳が完璧なものでないことを示す苦い反省材料です。およそ生物種の能力評価は、脳にばかり着目する「脳中心主義」ではなく、感覚機能や運動機能などを含めて、より総合的にとらえるべきでしょう。そうすれば、人間が文句なしに至上の種であるとは言えなくなります。
「脳中心主義」は、人間差別においても、レッスン7で取り上げた知能差別の根底にあって、それ自体も優生思想の一環を成します。そのため、人間の知的障碍者や学習障碍者などは犯歴者のように動物視こそされないまでも、脳の発達が遅れた劣等者とまなざされ、差別される要因となるのです。
こうしてみると、「人間至上主義」の克服は、動物差別のみならず、人間差別の克服にとっても、一役買うことになるでしょう。