差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

反作用的差別について[下]

最近の反作用的差別に対して、どのように対処すればよいかということが、3回シリーズ最後のテーマとなります。反作用的差別はオリジナル差別とはやや異なり、差別克服の進展に対する反発から起きている反動現象であるということを最初に再確認しておきます。

 

差別克服の進展という前提事実は、21世紀に入ってから、かなり顕著になっていますが、その原動力となってきた思想及び運動は、簡単にまとめれば、少数者のアイデンティティ承認です。これは少数民族や性的少数者、障碍者その他あらゆる社会的少数者の少数者としてのアイデンティティを尊重しようとする思想及びそれに基づいた社会運動です。

 

これは社会的少数者が言わば「総カミングアウト」して、社会の一員として承認されるうえで有効ではありました。その政策的な成果として、多様性政策(DEI)の全社会的な導入や同性婚の解禁などがあります。こうした政策の導入の有無やその内容は依然、国ごとの相違が大きいですが、世界全体としては過去20年ほどの潮流となっています。

 

しかし、こうした潮流に対して、社会的多数派をもって自認する人たちの反発が強まって反作用的差別が起きているわけです。社会的多数者もまた、多数者としてのアイデンティティが脅かされていると感じ、自らのアイデンティティを強調するようになってきたわけです。

 

言わば、少数者のアイデンティティと多数者のアイデンティティの衝突現象が、反作用的差別です。これに対処するには、前提となっているアイデンティティ承認を見直す必要があります。少数者としてのアイデンティティを捨てよう、と言えば波紋を呼ぶかもしれませんが、いったん少数者としてのアイデンティティから離れてみることです。

 

すなわち、少数者もアイデンティティの承認を求めるのではなく、多数者も少数者も、わずかな差異を除けば、共通点も多い人間であるという当たり前の事実に立ち戻ることです。実際、人は人類として生物学的に同一の生物です。差異にばかりとらわれず、共通点を探そうということです。そうすれば、アイデンティティの衝突は回避できます。

 

一方で、多数者を自認している人たちも、丸裸にすれば、最低一つは少数者としての属性が見つかります。ここで「丸裸」とは文字どおりの意味と、比喩的に用いられる社会的な意味と二重の意味があります。

 

文字どおりに丸裸にすれば、多数派を自認する人が普段ひた隠しにしている少数者としての身体的特徴が露呈することも十分にありますし、また出自・経歴等を精査してみれば、やはり多数派自認者が秘匿している少数者としての属性が判明することも十分にあります。結局のところ、多数者も特定の属性では少数者であり、少数者も別の属性においては多数者なのです。

 

脱アイデンティティは、伝統的なフェミニズムにも及びます。フェミニズムも元来は男性至上の社会体制に対して女性のアイデンティティを高調する思想と運動でしたが、女性差別の克服において大いに成果を上げた反面、現在では、「生物学的女性」のアイデンティティ運動という側面が強まり、「生物学的男性」から性別転換したトランスジェンダー女性を排斥するある種の差別思想と運動に変質してしまいました。フェミニズムも、見直しの曲がり角に来ています。

 

こうした脱アイデンティティは、政策にも投影されます。特に、反作用的差別の中で最もやり玉に上がる多様性政策(DEI)です。多様性の確保に詳細な基準を設けて、採用や昇進に少数者割り当てを設定する政策は、積極的差別解消措置(アファーマティブ・アクション)の拡大版ですが、現在では、明らかな少数者―特に人種的少数者―が目立つ地位―映画の主役のような娯楽分野も含む―に就いていると、「DEI基準で優遇されている」と批判することが、新手の差別言説となっています。

 

実際のところ、そうした有力な少数者がDEI基準で優遇されているかどうか不明ですが、そのような批判にさらされることも、新たな差別です。これに対処するには、DEI基準のような人為的な差別克服策をいったん停止することも検討すべきです。

 

そうなると、まさに反作用的差別に屈することになるのではないかという疑問もあるでしょう。しかし、DEI基準は少数者としての属性を理由に優遇することで差別するという利益差別の性質も帯びていることに注意が必要です。差別は通常は不利益な処遇ですが、反対に有利な処遇をすることも差別となり得ることは、これまでにも指摘してきました(拙稿1・拙稿2)

 

そのため、DEI基準をいったん停止してみても、少数者が排除されて多様性が損なわれることがないと確認されれば、問題ないわけです。反対に、停止したとたん少数者が一掃されてしまえば、やはりDEI基準は必要だったと理解されるでしょう。そのためにも、DEI基準を恒久的に「廃止」するのではなく、試行的に「停止」することは有効なのです。

 

さらに、反作用差的差別の中で最も政治問題化している移民受け入れ問題に関しても、元来、無制限の移民受け入れは急激な人口増という社会的不安定要因を作り出すことから無理があるわけで、計画的な移民分類と受け入れ基準に基づく制御された移民政策、期間限定での一時的避難民保護政策などを導入すること、文化の多様性のみならず、多文化の交流と包摂に重点を置く政策などに転換することが有益です。

 

また、同性婚のような婚姻制度の拡大に関しても、同性婚を推進することは間違いではありませんが、保守的な社会でどうしても前に進まない場合、無理押しはせず、同性婚に代えて、性的指向不問の―従って、異性間でも成立可能な―婚姻に準じた法的効力を持つ準婚制度(パートナシップ制)を導入するといった妥協策も、脱アイデンティティの施策として検討すべきでしょう。

 

最後に、反作用的差別の言わば政治的司令塔となっている差別主義政党の扱いという機微な問題があります。これらの政党の大半は濃淡はあれ、人種差別主義を核心として成立し、各種の差別助長を扇動することで近年、各国で急速台頭し、政権獲得を窺うレベルにまで到達しています。ここでは、こうした傾向の政党を人種差別を意味するレイシズムに代表させて、「レイシスト政党」と呼びます。

 

こうしたレイシスト政党が増長する傾向は、2020年発のコロナ・パンデミックを契機としていることも注目に値します。レイシスト政党の多くはパンデミック前に保守系政党からの分離などを契機に創設されているものの、マイナー政党にとどまっていました。

 

ところが、パンデミックの発生源が中国とされたことから東アジア系移民/外国人への差別が欧米諸国でも拡大したことや、反発も強かった政府によるロックダウンやワクチン強制接種への政治的反対運動と結び付く形で台頭し、支持者を急速に殖やしたのです。コロナ・パンデミックは反ユダヤ主義を助長した中世のペスト禍と同様、差別を助長し、レイシスト政党の台頭の土壌を提供しました。

 

これらレイシスト政党の扱いは微妙ですが、法律をもって禁止することが最も端的な政策です。これらの政党もそれなりに民意を代表しているなどと悠長に構えていたら、レイシスト政党が次々とドミノ倒しのように政権政党に座り、ナチ党に変貌する可能性もあります。ナチ党あるいは同類のファシスト政党もその核心には必ずレイシズムがあります。レイシスト政党はナチ党やファシスト政党とほぼ垣根のない境界で接しており、いつでも変換可能ですから、傍観し、放置してはならないのです。

 

以上、反作用的差別への思想的・運動的、さらに政策的、政治的な対処のあり方について、概括的ながら、述べました。反作用的差別は2020年代を象徴する差別現象となっていますので、本講座でも、今後の動向を個別的な問題に即して注視していきます。

反作用的差別について[中]

今回は、反作用的差別に加わる人々の心理状況に関する問題です。これは近年の差別の特徴である反作用的差別はどのような人々によって行われているのかということと関連します。反作用的差別への関与の形態にも、扇動者と実行者、追随者の区別があります。

 

まず大元になっている言わば元締めが扇動者です。この差別扇動者は、多くの場合、政治家もしくは政治運動家・組織者です。政治運動家・組織者は、チャンスがあれば政治家に転身する可能性がある層ですから、潜在的には政治家と同視できるでしょう。

 

現在、こうした差別扇動政治家としての最大級の人物がアメリカのトランプ大統領で、とりわけ人種差別とも結びつく移民追放政策や、少数者排除を企図した反DEI政策のまさに国際的元締めとして、トランプ政権の政策は世界中に影響を及ぼしています。遺憾なことに、世界各国でこうした反作用的差別を扇動する政治家や潜在的政治家が横行しているのが現状です。

 

これらの差別扇動政治家は、自身の支持を高めるために、ネットもフル活用し、メディアでも一斉報道されるような意図的に差別的な「失言」を重ね、人々の差別感情を刺激し、煽り、選挙運動に利用することで、当選を果たし、権力を維持しようと画策しています。

 

こうした扇動者の下に、扇動を受けて差別を実行する人々がいます。言わば、差別の実務者です。差別の実務者は差別が政治家によって政策化される場合には、立法に当たる議員を含め、政策化に協力した政権内部者がその代表例ですが、民間で協力し、あるいは呼応し、各種の排斥運動・反少数者運動を展開する人々もこの実行者層に含まれます。

 

反作用的差別は、反DEI政策に象徴されるように、従来、差別克服のために積み重ねられてきた政策に反対し、これをひっくり返すことをその中核に据えていますから、扇動者だけでは足りず、こうした官民双方の実務者の存在があって初めて実現するわけです。

 

ただ、考えてみると、扇動者が先にいたのではなく、むしろ民間での各種の排斥運動・反少数者運動が先行し、こうした運動が大衆扇動型のポピュリスト政治家と結び付く形でパトロン政治家を作り出し、そうした政治家が扇動者の役割を果たしていると見たほうがよいかもしれません。トランプなどは、そのようにして差別扇動政治家の元締めに担ぎ上げられたのだとも言えます。

 

民間での各種の排斥運動・反少数者運動がどのようにして生成されてきたのかということについては、詳細な社会学的分析を要するでしょうが、ここでは、宗教運動との係わりが注目されるということだけを指摘しておきます。中でも性的少数者差別では、宗派を超えた宗教保守主義との結び付きが非常に強く見られます。

 

宗教は信者をつなぎとめ、結束を強めるために、多くの場合、戒律や教理を制定し、信者に強制し、また、勧誘・情宣などの対外活動でも戒律や教理を宣伝しますが、宗教上の戒律や教理は、時として神や道徳の名を借りつつ、差別を助長する働きをしています。

 

最後に、追随者の存在です。これは、扇動者に先導される形で、付和雷同的に差別に加担していく人々のことです。このような大衆レベルの追随者はあらゆる差別事象に共通して見られ、反作用的差別に特有のものではないのですが、反作用的差別は高度インターネット時代の事象でもあるため、これら追随者の多くはネット上のコメント者として出現するということが特徴と言えます。

 

現在、ネット上で悪意あるコメントを発する人々が世界中、あらゆる言語圏で横行し、それがSNSという(とりわけ青少年にとって)有害な側面を持つツールを通じて瞬時に拡散していく現象に歯止めがかからないのは嘆かわしいことですが、差別言説もその例外ではありません。

 

ありとあらゆる種類の差別言説が飛び交うのがネット空間ですが、こうした言説の発信元の多くは匿名の一般人です。まさに差別の追随者です。それにしても、こうした付和雷同的な追随者とはどんな人たちなのでしょうか。

 

推測するに、普段はさほど「悪人」ではないでしょう。もしオフラインで会う機会があれば、拍子抜けするほどごく普通の人かもしれません。それが差別の付和雷同者となるのは、自身のコンプレクスに根があります。何らかの劣等感にとらわれていると、自身の優位性を保てそうな時には差別加担者となるのです。例えば、自身の容姿に劣等感を持つ人でも、多数派の異性指向者なら、少数派の同性指向者に対して優位性を感じることができるわけです。

 

それに加えて、こうした差別追随者には権威に追随しやすい性格傾向が認められます。これはアドルノらがファシズムに加担する人々を対象とした社会心理学的調査で明らかにした「権威主義的パーソナリティー」にも重なります。反作用的差別はその大元である扇動政治家の権威、例えばトランプ大統領の権威に追随・服従し、彼の言うことなら何でも受容するという態度です。

 

さて、以上は生身の人間の話でしたが、近年はこれにAIの差別学習という恐ろしい事象も加わってきています(拙稿)。左の拙稿はもう10年前のものでしたから、現在ではAIの学習能力はさらに「進化」しているでしょう。AIは人ではないので、AIを「反作用的差別に加わる人々」に含めることには問題がありますが、AIが人の頭脳に近いものに進化すれば、AIも「人」に準じて扱う必要が出てくるかもしれません。

 

その場合、AIが人から自立化して、それ自身が差別扇動者に代替する役割を果たすまでになるか、それとも、あくまでも人がプログラムした学習を通じて、実行者型や追随者型の働きをするのか、予測はできません。差別扇動者型の働きをする自立AIが登場した場合、最も危険です。

 

さて、こうした人々、あるいはAIまで「参加」しての反差別的差別という事象に対して、私どもはどのような差別克服策で応じればよいのか。これが、次回の課題となります。

反作用的差別について[上]

21世紀に入って、各国で遅速の差はあれ、差別克服が進行していく中、揺り戻しのような差別の動きも強まっています。アメリカで連邦政府職員の採用におけるDiversity(多様性)、Equity(公平性)、Inclusion(包摂性)―総称してDEI―を義務付けた大統領令の廃止やトランスジェンダー女性の女性競技参加禁止を看板政策とするトランプ政権はそうした揺り戻しの流れを象徴しており、世界に及ぼす影響も甚大です。

 

また、同じトランプ政権による無許可滞在移民の大量追放政策や特定の国からの入国禁止措置などの移民排斥政策も、移民包摂政策に対する揺り戻しの一つで、これは日本のように、アメリカほど移民が多くはない国にまで影響し、外国人の滞在許可や永住権取得の厳格化などの排斥政策の実現に現れています。

 

こうした揺り戻しの差別を、言わばオリジナルの差別に対して、反作用的差別と呼ぶことができますが、反作用的差別は、差別克服政策の進展を前提として、それに対して反発する反作用として発現するものです。それだけに、オリジナルの差別と比較して、よりイデオロギー色を強めていることが特徴で、多くの場合、政党や政治家が主導しています。

 

オリジナルの差別にもナチスのアーリア人種優越理論のようにイデオロギーを伴うものも見られましたが、オリジナルの差別の多くには、歴史的な慣習や無知による偏見が関わっていました。それに対して、反作用的差別では、DEIのような差別克服政策に対するイデオロギー的な否定がその核心にあります。そこには論理的・科学的な根拠は何もありません。

 

Diversity(多様性)、Equity(公平性)、Inclusion(包摂性)が確保されることで、誰にどのような害が及ぶのか、説明は何もなく、ただ、こうした政策をイデオロギー的に否定したいだけなのです。否定したい人は、おそらく自身を絶対的な社会的多数派として認識しているのでしょうが、どんな人にも必ず最低一つは少数派と言える要素があります。

 

しかも、そのイデオロギーなるものも、ほぼ無内容です。反DEIを主張する勢力は、DEIを「左翼」の政策であるとして非難することが多いですが、このような政治的な左右の座標軸自体、恣意的なもので、全く内容がありません。単に、自身を保守とか右派と自認する勢力による政敵叩きの武器として、反DEIや反トランスジェンダー、あるいは反同性愛などを持ち出しているだけです。

 

こうして反作用的差別は所詮無内容であるから脆弱なのかというと、決してそうではないことに注意する必要があります。無内容であるからこそ、むしろ盲目的追随者を獲得しやすい面があります。アメリカの反DEIも連邦政府職員の採用を超えて、民間企業の採用におけるDEI基準の撤廃を要求したり、また企業が自主的に撤廃する動きも相次いで、DEI基準は危機に瀕しています。

 

トランスジェンダーに関しては、一度はトランス女性の女性競技参加を認めた国際五輪委員会が会長の交代を機に方針転換し、参加禁止に動き、他の競技団体もこれに追随する動きが瞬く間に広がったことも、そうした盲目的追随の動きを示しています。

 

次に標的にされるとすれば、同性婚かもしれません。同性婚を認めてきた諸国で、反同性婚を掲げる政党や政治家が権力を握り、再び同性婚が廃止される揺り戻しがあり得ます。反同性婚の文脈では、自然の摂理とか健全なる道徳などが持ち出されることが多いですが、これも無内容で、イデオロギーと呼べるほどの内実はありません。

 

反作用的差別はそうした無内容性・盲目的追随性を特徴とするだけに、時に攻撃的な力を帯びることがあり、暴力を助長しやすいことも懸念されます。ただし、ナチスの「劣等人種」や障碍者に対する大量殺戮のような非人道的・狂信的な政策にまでは至らず、主にレトリックによる悪意に満ちた攻撃―口撃?―と個別的で技術的な排斥政策の実行が中心ですが、だからといって、安心しているわけにもいきません。

 

各種の揺り戻し政策が実行されれば、被差別状況は元に戻り、いわゆる少数派は再び排斥されていくことになるからです。多様性・包摂性・公平性に代わり、均質性・排除性・偏頗性が横行します。アメリカで言えば、再び官民ともに職員は皆白人の異性愛者かつ非トランスジェンダーの人たちばかりということになるでしょう。

 

ただし、近年の反作用的差別には、生物学的女性(biological female:以下、BF)も加わっており、とりわけトランス女性の排除ではBFが牽引役となってきたので、反作用的差別に基づく揺り戻し政策ではBFは排除されない可能性もあります。その点、BFも排除されてきた伝統的な差別との違いもあり、ある意味、反作用的差別は「(生物学的)男女共同参画」の下に行われていると言えるかもしれません。

 

以上、本稿では反作用的差別の特徴を明らかにしましたが、次は、このような反作用的差別に加わる人々の心理状況や人格像について、分析を試みてみたいと思います。

「男系男子限定」天皇制は差別か

日本の天皇の皇位継承権は法律(皇室典範)により「男系男子」に限定されており、女子や女系男子(母方のみが皇族である男子)も継承権を持たないとされています。これをめぐって、近年、皇室でも少子化が進み、皇位継承権を持つ男性皇族の減少という現状に絡めて、議論があります。

 

「男系男子限定」という厳格な性別条件は今どき珍しいほど露骨に女性排斥的な規定ですから、議論になるのも頷けます。このような条件は憲法上では何も課せられていないため、果たして憲法が保障する法の下の平等や両性の平等に反しないか、という憲法問題さえ生じてきます。

 

仮にですが、女性皇族が皇室典範の違憲性を争って訴訟を起こしたら、裁判所はどう判断するのか、興味のあるところです。端的に違憲判決を出すか、自衛隊訴訟と同様に、「統治行為の法理」とやらを持ち出して憲法判断を回避するのか。

 

当ブログは憲法問題をテーマとするものではありませんので、この問題には触れませんが、果たして女性/女系天皇の排除は「差別」なのかどうかということを考えてみる価値はあります。ただ、当ブログではこの問題は閑話に等しいものです。というのも、―まさに結論と関わることですが―、この問題は皇族の権利という元来限られた人にだけ関わることで、一般人には何ら関係ないことだからです。

 

ここで当ブログにおける「差別」の意味を思い返しますと、それは単なる区別ではなく、特定の人や集団を蔑視し、劣位の扱いをする(例外的に「優遇」する場合もあり)ことでした。こうした定義からすると、皇位継承において女性や女系男子を排除することは、女性を蔑視し、劣位に扱っているように見えなくもありません。

 

しかし、違います。ここで皇位継承から排除されているのはあくまでも女性の皇族や女系のみの半皇族男性であって、女性一般ではありません。一般女性は皇室典範の規定がどうあろうと、絶対に天皇になれないのですから、これは権利というより、皇族という特権を持つ地位にある限られた人たちの間での問題にすぎないのです。

 

そもそも天皇・皇族という特権的な貴種の存在自体が、人の上に人を作るものであり、平等原則に反していますが、このような思考は「歴史と伝統」というマジックワードによって、まさに手品のように消されてしまいます。憲法も、法の下の平等を掲げ、貴族制度の廃止を定める一方で、天皇制は存置し、天皇と皇族という特殊な貴種身分は容認するという形で意図的に自己矛盾しているのです。

 

このように大元[おおもと]の天皇制自体が天皇・皇族と一般国民(旧平民)という身分差別そのものなのですから、そうした差別的な制度内で皇位継承権に関してどのような条件を課そうとそれは重要な問題ではありませんし、「男系男子限定」という条件付けも決して女性皇族を蔑視しているわけではないのです。

 

歴史上、女性天皇は前近代の江戸時代まで例外的ながら存在していました。ところが、近代化を目指す明治維新後に制定された旧皇室典範でなぜか「男系男子限定」という条件が付けられ、それが戦後の新皇室典範でも維持され、現在まで続いているわけですが、それにはどのような理由があるのかよくわかりませんし、そうした理由の追求は当ブログのテーマでもありません。

 

仮に「内閣総理大臣は男性限定」という法律の規定があれば、これは女性に政府の長を務める能力や適格性はないということを前提とした女性蔑視の女性差別であり、当ブログでも大きなテーマとなるでしょうが、幸い、日本にそのような規定はなく、現に遅ればせながら史上初の女性総理大臣が誕生したところです。

 

さて、結論です。皇位継承における「男系男子限定」を維持するかどうかは政策的な問題であって、差別問題の範疇には含まれない。これでおしまいです。

 

ちなみに、いささか不可解なのは、天皇制の千代八千代にわたる恒久的な存続を願うはずの保守派の人たちほど「男系男子限定」の維持を強く支持し、とりわけ女性天皇には反対する傾向があることです。日本初の女性総理大臣となった高市氏もその一人のようです。

 

しかし、「男系男子限定」に固執する限り、少子化の中、皇位継承権を持つ男性皇族は減少し、たとえ検討されていると側聞する旧宮家子孫による養子継承を認めたとしても、いつか皇位継承権者が絶え、皇室が無嗣断絶することは避けられないでしょう。

 

天皇制の恒久的な存続を確実に保障したければ、性別不問で天皇の第一子に第一順位の皇位継承権を認めることが最も簡明なはずです。従って、女性天皇も、その女性天皇が一般人男性である配偶者との間に産んだ男子の皇位継承も認めることになります。

 

一方、何よりも社会的平等を追求し、天皇制にも批判的であるはずの共産党が「男系男子限定」固守にこだわる政権与党を繰り返し批判しているのも、不可解と言えば不可解です。上述のように、性別不問で天皇の第一子に第一順位の皇位継承権を認めるなら、天皇制が恒久化される可能性は飛躍的に広がるのですから、それこそ千代に八千代に続いていくでしょう。それは共産党の理念に合うのでしょうか。

 

当ブログで政治問題に立ち入ることはなるべく避けたいのですが、どうもこの問題をめぐっては、保守派と革新派の間で奇妙な思考のねじれが起きているように思えてなりません。いずれにせよ、当ブログにおきまして、皇位継承権問題は閑話休題の扱いで、真剣に究明すべき本質的な問題とは言えないことを繰り返して稿を閉じます。

 

 

[追記]
 ここで、補足をしておきますと、立法政策として女性天皇・女系天皇を認めることが差別克服のうえで資することになるかどうかということは別途考察すべき問題となります。
 単純に考えれば、女性天皇・女系天皇を認めることは女性差別の克服に資するように見えます。しかし、本文でも指摘したとおり、これは女性一般の権利に関わる問題ではなく、皇族女性という日本に何人もいないごく一握りの女性の権利、というより特権に関わる問題です。
 これも本文で指摘したように、女性天皇・女系天皇を認めれば、天皇制は男系男子限定を護持するよりも拡大することになり、それ自体生まれによる身分差別を内包する制度である天皇制の恒久的存続を保証することになります。
 そのことは長く広い目で見て、かえって差別の克服どころか、差別の存続に手を貸すことになりはしないか―。そう考えれば、女性天皇・女系天皇を認めることは差別克服のうえでプラスではなく、マイナスになるかもしれないとさえ言えましょう。
 そのため、当講座では、女性天皇・女系天皇を認めるべきであるという一部「リベラル」な政治的立場から主張されている議論には与することなく、結論を保留します。

トランス女性排除のIOC新方針をめぐって(下)

トランス女性の女性種目での五輪参加を禁止するIOCの新方針をめぐっては、国際連合人権理事会のほか、160を超える人権団体やスポーツ団体などから国際的な批判や撤回要求がなされているとのことですが、実際にIOCが撤回に応じる可能性については、筆者は悲観的です。

 

元来、トランス女性はいわゆる性的少数者の中でも極少数派ということもあり、まして女性スポーツの世界で選手として活躍したい人となるとさらに限られるくるわけでして、そもそも社会的に広い関心が持たれにくいテーマです。当事者の数は差別克服においてかなり重要な要素であり、被差別当事者が多い方が運動の成功率は高く、少ないほど低くなります。

 

また、主連載『〈反差別〉練習帳』の中で、差別克服の実践練習の方法として、「差別を他人事として自分自身から遠ざけて考えるのではなく、自分自身を差別される他人に置き換え、自分自身が差別される立場であったらどうか、と我が身に引き寄せて自問してみることを心がける」という引き寄せの倫理をご紹介しましたが(拙稿)、トランス女性差別の問題はこの引き寄せの倫理が働きにくいことも、社会的な関心を遠ざけます。自分自身がトランス女性だったら・・・という想像がなかなか困難だからです。

 

では、トランス女性の当事者の皆さんはもはや諦めるしかないのでしょうか。決してそうではありません。ただ、反転攻勢に出るには、これまでの運動の見直しもいくつか必要でしょう。特に重要なのは、アイデンティティー運動から脱却することです。前回、近年のバックラッシュ差別は「アイデンティティーの戦争」に由来すると述べたように、トランスジェンダーを自己のアイデンティティーとしてその承認を要求し、その延長上に女性競技会への出場の権利を主張するといった運動をしていては、バックラッシュ差別に対抗できないでしょう。

 

これも『〈反差別〉練習帳』に記しましたように(拙稿)、アイデンティティーは自分自身を劣等視する自己差別を克服し、自信をつけるための療法的な対処の理念としては時に有効ですが、これを運動の核心に置くべきではありません。アイデンティティー=自己同一性は自分自身を特定の自己像に閉じ込め、自己愛を助長しやすい観念です。反面として、自分と異なるアイデンティティーに対しては無関心、時として嫌悪的にさえなりがちなのです。それが「アイデンティティー戦争」のもととなり、ひいてはヘイトスピーチやヘイトクライム、さらにはジェノサイドのような非人道犯罪にまで発展します。

 

どんな人も、単一の自己像では語りつくせない多面性を持っています。トランスジェンダーの人も、性自認にまつわるトランスジェンダーという自己像だけで語りつくせるのではなく、例えばアスリートやアーティスト、あるいはごく平凡な労働者であることだって、立派な自己像の一つです。人は一つの自己像に自身を閉じ込めるべきではありません。むしろアイデンティティーを解き放って、「人間」としての他者との共通性にこそ目を向けるべきです。

 

となると、差別克服の運動方法としても、トランス女性を排除する五輪その他の主流派競技会に対抗して、トランス女性を排除しない包摂的な女性競技会を開催するというのも効果的です。このような包摂的競技会に「生物学的女性」が参加するかどうかはもちろん各自の自由ですが、トランス女性排除競技会とは、「強すぎる」とみなされる特定の特徴を持つ選手を系統的に排除したある意味でのハンディー付き競技会ですから、そこでの優勝者にさして価値はないとさえ言えます。

 

トランス女性選手も参加する包摂的競技会では必ずトランス女性選手が優勝するという保証は何らないのですから―トランス女性排除論者が誤認しているのはその点です―、誰も排除しない包摂的な競技会の優勝者こそが、その競技種目における真のナンバーワン選手と言えるという見方もできるのではないでしょうか。

 

ちなみに、トランス女性が主流の女性競技会から排除されるなら、トランス女性限定の競技会を開催するという手段もあり得ます。実際に運営コストなどの点でそのような極度に参加資格限定型の競技会が実現可能かどうか疑問ではありますが、一つの方法です。しかし、これではまさにトランス女性排除運動の目的達成に手を貸すことになります。このような言わば被差別者の隔離状態を作り出すことこそ、すべての差別的排斥運動の目標だからです。従って、このような方法はバックラッシュ差別に対する効果的な対抗手段とは言えません。

 

ところで、脱アイデンティティーというのは、例えばトランスジェンダーであることを隠すとか、自己否定することを決して意味しません。そうではなくて、それを一個の人間の生き方として実践することを意味します。生物学的には男性として出生したけれども、心理的には女性であり、社会的にも女性として生きたいということを示すことです。

 

その意味で、トランスジェンダーといった用語は無意味とは言いませんが、記号化されており、人間としての生き方が見えてきません。同じことは、ゲイとかレズビアンといった他の性的少数者を含めたまさしく記号的なLGBTQといった表記にも当てはまりますし、白人/黒人といった人種分類、◯◯人/◯◯族といった民族・部族分類についても、当てはまります。

 

このように記号化されたアイデンティティーではなく、一個の人間の生き方を求める運動として巻き直すことで、女性競技会への出場権よりもっと日常的で、それだけに解決困難な女性用トイレや更衣室の使用問題などにも解決の糸口が見えてくるかもしれません。

 

トランス女性による女性用トイレや更衣室の使用に関して反対者が論拠に持ち出すのは、一般にはほとんど実例が存在しない痴漢行為等の性犯罪の危険です。しかし、生物学的には男性であるが、心理的には女性であり、社会的にも女性として生きたい人が果たして女性用トイレや更衣室で性犯罪を実行するでしょうか。実際にそのような実例がほとんど存在しないことからも、答えは自ずと明らかでしょう。

 

こうした機微な問題も、アイデンティティーの問題としてしまうと、「生物学的女性」たちのアイデンティティ―と衝突することになります。近年、トランス女性排除に加担しているフェミニズム運動も元来は生物学的性別というものに執着していなかったのに、近年フェミニズムが自身の聖域を守ろうとする「生物学的女性」のアイデンティティー防衛運動と化しているのも、トランスジェンダーのアイデンティティー運動に刺激された「アイデンティティー戦争」の一環と言えます。

 

このように、アイデンティティー運動は「アイデンティティー戦争」による社会の分断の原因となります。分断を緩和・解消し、人間としての共通感覚を覚醒させるため、この戦争は終結させなければならないのです。これは差別克服を正しい軌道に乗せるため、今必要なことです。

トランス女性排除のIOC新方針をめぐって(中)

前回、トランス女性を女性競技会から排除する近年の動向は、差別主義と平等主義の奇妙な連合によって助長されていると指摘しました。今回は、このことに関して、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。近年、トランスジェンダー、中でも男性から女性へ性別変更したトランス女性に対する風当たりが強くなっていますが、そもそもなぜそうなのかというところから、考察は始まります。

 

トランスジェンダーは、かつてはいわゆる同性愛者と並び、あるいは同性愛者と誤認され、性道徳や性的秩序を逸脱した異常者のようにみなされることも多く、社会的に正当な居場所がなかったわけですが、21世紀に入って、状況が大きく変わってきました。同性愛者(以下、同性指向者という)とともに、性的少数者にも社会的に正当な居場所を保障しようとする動きが欧米を中心に進展しました。

 

同性婚の合法化はその大きな成果ですが、トランスジェンダーも同性指向者と明確に区別されたうえで、性別変更の権利が正面から認められる国が増えました。そうした延長上に、スポーツ競技会でも、生物学的性別によらず、自己が自認する性別の競技会に出場する権利がいったんは保障される動きが進展したのでした。

 

こうした差別克服の進展状況に対する反動として、差別主義者が動き出します。差別主義者は自身を社会的な「多数派」として強く自認する人々です。かれらにとって、性的少数者は最も嫌悪・排除すべき劣等者です。そのため、同性指向者やトランスジェンダーはかれらの象徴的な差別標的となります。

 

このような差別克服の進展状況に反発しての新たな差別事象を「バックラッシュ差別」と呼ぶことができます。バックラッシュ差別は、言わばオリジナルの「原差別」に対して、より強烈(時に暴力的)で、かつ理論武装したイデオロギー性を伴うという特徴が見られますが、その詳細は別の機会に改めて取り上げます。

 

昨今のバックラッシュ差別は性的少数者差別に限らず、移民差別・排斥や伝統のユダヤ人差別に至るまで、様々ですが、トランス女性に特に照準が合わされていることには、一つの理由があります。それは本来なら平等主義の思潮・運動であるはずのフェミニズムが合流し、理論武装の面でも援軍を得たことです。

 

フェニミズムは長い間、男性優位社会の現実に対し、女性の権利と社会的地位の向上のため闘ってきたわけですが、そこで想定されている「女性」とは、「生物学的女性」であり、言わば「心理学的女性」としてのトランス女性は視野に入っていませんでした。

 

そこへ、トランス女性という存在が正式に認知され、女性競技会への出場や、より日常世界でも、女性トイレや更衣室の利用権といったものが承認され始めたことに、フェミニスト女性が反発するようになりました。彼女らにとって、トランス女性は「男性」であり、「男性」が女性の領域を侵犯してきたという反発です。

 

こうした認識に立って、フェミニズムが「生物学的女性」の領域の保護を求めて、トランス女性の排除を要求するようになったのです。これはバックラッシュ差別とも方向性において共通するため、部分的な共闘関係が形成されます。実際のところ、差別主義はほぼ男性主導であり、女性差別を内包しているにもかかわらず、です。

 

このようなバックラッシュ差別とフェミニズムの連合は、「アイデンティティーの戦争」としてとらえることもできます。バックラッシュ差別は多数派のアイデンティティーと少数派のアイデンティティーの衝突現象でもあります。これは従来の差別克服が少数者のアイデンティティーの強調に依拠していたことの反映でもあります。少数者は自己のアイデンティティーの承認を求めて差別克服運動をしてきました。それに対し、多数者もまた、多数者のアイデンティティーを対抗主張するようになったのです。

 

フェミニズムも、近年「生物学的女性」のアイデンティティーに依拠する傾向を強めています。世界の人口に占める「生物学的女性」は2023年の統計では約40億人、率にして50.5%とほぼ半々、実際は男性をわずかに上回り、「多数派」を形成しているのです。今や、「生物学的女性」は数的には多数派に近づいています。その意味ではフェミニズムも多数派のアイデンティティー運動になりつつある。その結果、数的には圧倒的少数派であるトランス女性を排除するバックラッシュ差別と連合しやすい状況が生じているのです。

 

これも別稿で改めて詳しく論じますが、差別克服を少数者のアイデンティティーに依拠することは、多数者のアイデンティティーの対抗を誘発し、「アイデンティティー戦争」を招くという点で戦略的には誤っていると考えます。「戦争」になれば、数で優位な多数派陣営が有利であることは明らかです。トランス女性の女性競技会からの排除という方針転換は、そうした誤った戦略の失敗の結果であったとも言えます。

 

ちなみに、逆パターンの「生物学的女性」から男性へ変更するトランス男性は比較的差別の標的から逃れやすいのはなぜでしょうか。IOCの新方針でも、トランス男性が男性競技会に出場することは禁じられません。この場合、生物学的フェミニズムにとっても、トランス男性は「男性」とみなされるので、かれらが「男性」として男性の領域で活動することを邪魔する理由はないというわけでしょう。

 

またバックラッシュ差別を主導する「生物学的男性」らにとっても、ホルモン療法で筋肉質に体形変化したトランス男性はいちおう「男性」の仲間として受容可能なのかもしれません。むしろ、彼らにとっては、「生物学的男性」でありながら女性化したトランス女性と、「生物学的男性」でありながら同じ「生物学的男性」を性的に指向するいわゆる男性同性愛者こそ、優等であるべき男性性を裏切り、傷つける逸脱者として主要な差別標的となります。

 

以上、「バックラッシュ」と「アイデンティティー」、日本語なら「反作用」と「自己同一性」がトランス女性排除におけるキーワードとなります。この二つのキーワードは昨今の差別事象とそれを動かしている政治動向や社会運動を読み解き、かつ新たな差別克服のための方策を立てるうえでも鍵となるため、稿を改めて、対策論を展開してみたいと考えています。

トランス女性排除のIOC新方針をめぐって(上)

国際オリンピック委員会(IOC)が、2028年大会からトランスジェンダー女性が女性として競技することを禁止すると発表しました。IOC大会における女性カテゴリーの出場資格は今後、生物学的な女性に限定され、選手のステータスは生涯一度の性別スクリーニング検査プロセスで決定されるとのことです。

 

この方針は、2025年3月にIOC会長に当選・就任したカースティ・コヴェントリー氏が公約にも掲げ、明言していたことの実現であるため、予測されており、先月挙行されたミラノ・コルティナ冬季五輪がトランスジェンダー女性が女性競技に出場できる実質上最後の大会になるとみなされていました。

 

IOCの決定はIOC主催の競技大会にのみ妥当しますが、すでに他の個別の国際競技団体などが続々と同様の決定を下していたところですので、トランスジェンダー女性の女性競技からの排除は世界的な流れとして定着するでしょう。

 

従来、IOCは「国際大会への参加資格は、選手が性のアイデンティティや身体的な性の多様性によって構造的に大会から排除されることがないように公平性を持って作られなければならない」という新方針の下、2020年東京夏季五輪(2021年に延期実施)はトランス女性選手の女性競技出場が史上初めて認められた画期的な大会となってから、わずか5年での方針一転です。

 

こうしたクーデター的方針転換が行われた背景は何でしょうか。コヴェントリー会長は決定が科学に基づいていることを強調しています。ここでいう「科学」とは要するに、「女性は男性より体力が弱い」―従って、「生物学的男性」が女性競技に出場するのは不公平―ということに尽きるわけですが、「女性は男性より弱い」ということが科学的でないことは素人でもわかります。

 

例えば、私自身は「生物学的男性」(かつ性自認も男性)ですが、体格は小柄で、格闘したらパワーのある大柄な女性には絶対に勝てないほど「弱い」です。体力は生物学的な性別で決まるわけでなく、性別を問わず、まさしく体力そのもので決まることぐらい、面倒な科学的検証などするまでもなくわかることです。

 

また、各スポーツ競技で要求される各種の運動能力が生物学的な性別だけに依存するわけでないことも、一般常識の範疇と言えるでしょう。これも恥を忍んで明かしますが、私はほぼ生来の「運動音痴」で、どのスポーツ競技も苦手なので、どんなスポーツをやらせても平均的な女性より下手だと断言できます。

 

雌雄別体の生物であるヒトにおいてたしかに生物学的な男女差は認められますが、それは平均的な差異を示すものであって、個々の個体(個人)の特性はそれぞれなのですから、小柄で非力な男性もいれば、大柄で体力のある女性もいる。トランスジェンダー女性にあっても、女性化の度合いには個人差があります。そうした個体的特性を捨象して、平均化されたデータに依存する言説はどんなに「科学的」に見えても結論を先取りした擬似科学の範疇です。

 

にもかかわらず、国際スポーツ界がなぜそうした擬似科学に基づく決定を急ぎ、中でも指導的なIOCがクーデター的に方針を変更したのでしょうか。それはひとことで言って政治の影響です。特にアメリカのトランプ大統領が大統領令をもって人間の性別を男女二性に限り、女性競技会に参加しようとするトランスジェンダー選手のアメリカへの入国を拒否する方針を決めたからです。これにより、2028年のロサンゼルス五輪にはトランス女性選手は事実上参加できなくなる見込みとなっていました(拙稿)。

 

これではIOCの面目が立ちません。そこで、「政策」を急転させて、IOCの政策をトランプ政権に合わせた―。これが生々しい真相です。しかし、それだけではありません。ここではトランプに象徴される反フェミニズムの性差別主義と生物学的フェミニズムとが共犯関係に立っているのです。

 

前者の性差別主義(セクシズム)は、本来、女性全般を男性より生物学的に劣位に位置づけます。その延長で、トランスジェンダー女性も蔑視しています。これに対して、生物学的フェミニズムは元来、女性の権利を重んじる平等主義なのですが、女性の権利を強調するあまりに生物学に依存し過ぎる誤謬を犯しています。

 

生物学というそれ自体は科学を介して、差別主義と平等主義が奇妙な連合を組んでいるのです。このような奇妙な連合は、スポーツ界の勝利至上主義的なスピリットが仲介しています。トランス女性の女性競技出場に反対する見解は、しばしば「不公平」を根拠にしています。こうした批判は、実際に格闘系競技などでトランス女性が圧勝する事態がいくつか発生してきたことへの反発が後押ししています。

 

圧勝は称賛とともに反発も巻き起こします。勝利至上主義では勝利しなければ無価値ですから、完敗した者は無価値とみなされる。その敗因を勝者の出場資格に向けることは容易です。「生物学的男性」であるトランス女性はたとえテストステロン抑制による「女性化」が義務付けられていても、「生物学的女性」より力が強く、不公平だというわけです。

 

たしかに格闘技系などパワーがものをいう競技では、そうした批判は理解できます。しかし、近年の五輪大会は種目が年々増加しており、伝統的な競技とは異なる新しい競技種目もあります。例えば、冬季種目のカーリングなどはどうでしょうか。氷上のチェスとも称される知的な面も強いこの競技ではパワーより知略が求められます。また、まだ「スポーツ」としての評価は定まっていませんが、IOCも関心を示しているeスポーツなどはいっそう知略の競技ですから、生物学的な男女差はないと言ってよいでしょう。

 

多種多様化している競技をひとくくりにして、トランス女性をあらゆる女性競技会から排除することは差別そのものです。これに対しては、トランス女性は生物学的な性別に従い、男性競技会に出場できるから問題ないという反論があり得ます。しかし、トランス女性は身体的にも女性化するためにテストステロン抑制の「治療」を受けていることが多く、女性競技会に出場する場合は義務付けられてもきたのですが、その結果、体力面でも脱男性化しているため、格闘系競技などで男性競技会に出場すると今度は不利になる恐れがあり、成り立たない反論です。

 

トランス女性の排除を正当化する見解も、テストステロン抑制の効果を否定しているわけではなく、その効果は完全ではないから、「生物学的男性」としての特性が残っているトランス女性と一般女性が競技するのは不公平だと主張しているわけですが、その根拠はトランス女性が男性競技会に出場させられた場合の不公平さについては無視するというご都合主義の論拠なのです。

 

このように論理的には破綻していても、性差別主義と平等主義が連合を組めば、それこそパワー全開です。しかし、この連合は平等主義、特にフェミニズムにとって自己破壊的な結果を招くでしょう。なぜなら「女性は男性より弱い」という性差別教義を前提として認めざるを得なくなるからです。このような前提教義こそが女性の平等な権利を阻む「ガラスの天井」を作り出してきたのです。フェミニズムはそれを打破するため、闘ってきたはずです。

 

注目すべきなのは、こうした奇妙な連合によるIOCのクーデター的方針転換―転覆―が史上初めて「(推定)生物学的女性」、かつアフリカ(ジンバブウェ)出身の「(推定)生物学的白人」であるコヴェントリー会長(元水泳選手)の下で実行されたことです。

 

なお、上掲記述で「生物学的女性」「生物学的白人」と二か所で「生物学」を繰り返しましたが、これらはいずれも生物学的検査による証明を要する事柄になります。私はコヴェントリー会長のそうした証明書類を確認していないので、正確を期するには「推定」という語を添えるしかないわけです。

 

コヴェントリー氏はIOC会長として、選手のステータスは生涯一度の性別スクリーニング検査プロセスで決定されるという新方針を打ち出した以上、自身アテネ五輪、北京五輪と二大会連続の背泳金メダリストで、その他の世界大会でも多数のメダルを獲得した女性水泳界で圧倒的な実績を持つ自らも間違いなく「生物学的女性」であることを証明してみせる必要があるのでないでしょうか。

 

しかし、そのようなことはばかげているという前に、危険です。生物学を「政治的武器化」することは、かつてのナチスや1994年まで悪名高い白人至上主義体制(人種隔離政策)を敷いていた南アフリカ、そしてコヴェントリー氏自身の祖国(ジンバブウェ)で、1980年までは南アともども白人至上主義政策のため五輪から国ごと締め出されていた旧ローデシアのような国の国策とも密に関連してくるからです。

 

その点、IOCの新決定を歓迎するワールドアスレティックス(旧国際陸上競技連盟)スポークスマンのコメント「ジェンダーは生物学に打ち勝てない(Gender can not trump biology)」は、このような生物学至上主義のイデオロギーを簡潔に表現しています。ちなみに、trumpとはカードゲームのトランプから「打ち勝つ」といったゲーム的ニュアンスの動詞として使われています。トランプ大統領のことではないのですが、トランプ大統領の政策とも重なるので、コメント者が言葉を掛けたかどうかは別として、二重に興味深いコメントです。

 

新たなIOC決定が依拠した生物学至上主義は、トランスジェンダー問題にとどまらず、人種差別問題にまで波及し得るので―例えば、陸上競技では圧倒的に強い「生物学的黒人」の参加は不公平ではないかといった議論が派生する可能性―、当講座ではさらに検討を深めていきたいと思いますが、長大になるので、この件については稿を改めます。

多文化共存の技術

初めに用語の問題ですが、タイトルにある「多文化共存」という用語はまだほとんど使われていないと思われます。実際、検索してみても、「多文化共生」という用語なら多く使われ、相当人口にも膾炙していることが窺われますが、「多文化共存」はほぼ見当たりません。

 

しかし、ここではあえて「多文化共存」という用語を使用することにします。「多文化共生」も決して不適切な用語ではないのですが、「共生」はいささかロマンチックで、現実に多文化間で発生する摩擦や紛争の存在を考えれば、少し現実離れしています。

 

「多文化共生」は、「多文化共存」がうまく機能し、多文化間の関係性が良好に保たれた理想状態をいうと考えておけばよいかと思われます。従って、「多文化共生」の前提として「多文化共存」が成立しなければ、「共生」もあり得ないということです。

 

とはいえ、そもそも「多文化共存」ということ自体を拒否しようとするような風潮もかねてより存在するところ、2020年代に入って(特にコロナ・パンデミック以後)、そうした風潮が世界的に強まっているように見受けられます。

 

しかし、鎖国政策により自国民の海外移住も外国籍者の国内移住も全面禁止する国がほぼ消滅した現代世界では、否が応でも、すべての国で多文化社会が形成されます。形成の度合いは、積極的な移民政策の有無や内容により違いはあるにせよ、です。

 

そうした場合、多文化間での無用の摩擦や深刻な紛争を回避しながら、多文化コミュニティーがいかに共存していけるかが社会を安定させる鍵となります。そうした意味での「多文化共存」がここでの課題です。

 

多文化の間には当然ながら、言語、宗教、衣食住習慣から価値観まで種々の相違があります。そのため、多文化間ではコミュニケーションが難しく、行き違いが起きやすくなります。多文化の共存は決してたやすいことではなく、むしろ、摩擦は不可避と思っておいて間違いありません。

 

そして、そうした摩擦が反感を呼び、大抵の場合、先住の国民が移民や定住外国籍住民を排斥するという形で、いわゆる排外運動が始まります。それが政治的にも利用され、排外主義を綱領・公約とするような政党・政治家が選挙で勝利・躍進するという事態に発展します。このような流れはほぼ世界共通ですので、これは社会人類学的または政治人類学的な法則と言ってよいでしょう。

 

けれども、どんなに排外主義を政治的に実現しようとしても、多文化共存は抹消できません。もし本気で抹消しようとするなら、それこそナチスばりの大虐殺や絶滅収容といった狂気的な政策に走らなければなりません。―いわゆる「不法滞在者」の大量追放という施策も、法秩序維持や法治国家を口実とする排外主義政策ですが、既に合法的に定住している外国籍者・移民の強制追放は人道上不可能です。さらに、「不法滞在」状態にあっても、相当の期間にわたって事実上平穏に生活してきた人の強制追放も人道上の問題を生じる可能性があります。

 

そこで、多文化共存を不可避の社会的現実として受け入れたうえ、それをいかに実現すべきかを考えることが必要になります。「多文化共存」は単なるスローガンではなく、一つの技術に支えられて初めて実現します。これが本稿タイトルの「多文化共存の技術」です。

 

では、多文化共存の技術としてどのようなものがあり得るかですが、これはまだ考究途上です。一つ考えられるのは、多文化間の摩擦に対して第三者の立場から予防的に調停し、深刻な紛争に発展することを防止する公式の専門職の養成と配置というものです。このような専門職を「多文化共存メディエーター」と名づけておきます。

 

メディエーター(mediator)とは、間に入る第三者、調停者といった意味合いです。仲裁人ほど拘束力のある決定を下す権限はありませんが、一定の調停案をまとめて当事者に示し、順守を誓約してもらうといったソフトな仲裁人とも言えましょう。

 

その点、「多文化社会コーディネーター」という民間の認定専門職があり、そうした専門職の認定を行っている一般社団法人「多文化社会専門職機構」によれば、「多文化社会コーディネーター」とは次のように定義されています。

あらゆる組織において、多様な人々との対話、共感、実践を引き出しつつ、「参加」→「協働」→「創造」の問題解決へのプロセスをデザインしながら、言語・文化の違いを超えてすべての人が共に生きることのできる社会に向けて、プログラム(活動)を構築・展開・推進する専門職

 

やや包括的な定義であり、この専門職が具体的にどこに配置されて、どのような活動をするのかわかりにくいのですが、筆者の理解では、「多文化共存メディエーター」に比べて、多文化間の架橋や対話に重点が置かれているようです。

 

そうした専門職もたしかに必要でしょうが、より踏み込んで調停を行えるような専門職も早急に養成されることが望まれます。具体的にどこに配置されるべきかですが、日本の場合は、寄付文化の脆弱さから財力に限界のある民間市民団体任せではなく、さしあたりは市町村自治体に所属して、管内で発生する現実の多文化間摩擦事象に対応していくのが望ましいでしょう。

 

また、多文化共存では、同一文化コミュニティー内部で部族間ないし氏族間対立などの言わば内輪もめが発生する例もあります。これは多文化共存とは問題の位相がずれるのですが、こうした内輪もめが激化すれば、先住の国民にも治安上の影響が及ぶ恐れがあるため、そうした内輪もめの調停も多文化共存メディエーターの任務に含めるべきか検討の余地があります。

 

多文化共存メディエーターに弱点があるとすれば、それはほとんど場合、先住の国民―日本なら日本国民―から任命されるということです。その点で中立性に限界があり、当事者から信頼されない恐れが否めません。これは課題ですが、絶対的に完全中立な第三者というものが現実には想定できないことを考えれば、養成の過程で中立性保持に関するある種の裁判官的なコミュニケーションの技術を身につけてもらうことで弱点を補える可能性があります。

 

多文化共存の技術はこれだけにとどまらず、先住の国民文化を含む多文化それぞれの理解を深めるための多文化物産展や多文化交流イベントの開催など、よりソフトな娯楽的で啓発的・社会教育的なものも考えられますが、ここでは立ち入りません。

〈反差別〉練習帳[全訂版]・総目次

下記目次各「ページ」(リンク)より、現在連載中の既存記事をご覧いただけます。

全訂版まえがき&はじめに
 

 ページ1

理論編
一 差別とは何か 

二 差別の要因

 ページ4
 ページ5

三 差別と言葉

四 差別に関する行為類型

 ページ8
 
五 差別と国民国家

六 差別救済のあり方
 
七 差別克服の視座
 ページ11
 
八 差別克服の実践練習
 ページ12
 ページ13
 
実践編
はじめに
 
Ⅰ 外見による差別

 レッスン1 容姿差別
 ページ15
 ページ16
 ページ17
 ページ18
 
 レッスン2 障碍者/病者差別
 ページ19
 ページ20
 ページ21
 ページ22
 
 レッスン3 人種/民族差別
 
Ⅱ 性による差別
 
 レッスン4 性別差別
 
 レッスン5 性自認差別
 
 レッスン6 性的指向差別
 ページ33
 ページ34
 ページ35
 
Ⅲ 能力による差別
 
 レッスン7 知能差別
 ページ37
 ページ38
 ページ39
 
 レッスン8 職業差別
 ページ40
 
 レッスン9 年齢差別
 
Ⅳ 余所者への差別

 レッスン10 国籍差別

 ページ47
 ページ48
 ページ49
 ページ50
 
 レッスン11 犯歴差別
 ページ51
 ページ52
 ページ53
 
レッスン番外編 動物差別

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第50回)

レッスン10:国籍差別

〔まとめと補足〕

 本レッスンは旧版では「外国人差別」という表題を掲げていましたが、実は「外国人」という用語は現在では死語となっている“異人”ほどではないにせよ、「余所者」というニュアンスがにじみ出た用語ですので、表題に掲げることは避け、その実質に即して、「国籍差別」と言い換えました。
 それに合わせ、「外国人」という用語も「外国籍者」と言い換えたほうがよいと思われますが、いささか行政用語のようであるため、本文では「外国人」という人口に膾炙した用語を使用し、妥協しています。

 
 もっとも、どう表記しようと、外国人あるいは外国籍者に対する差別の根源は「余所者」排斥にあります。「余所者」とは、およそ人間の共同体にとっては潜在的な敵であり、警戒しなければならない相手です。
 そして、この「余所者」排斥もまた、その外見・風采が異形であるという視覚的な表象に深く関わっているのですが、「余所者」を排斥するのは、およそすべての共同体的組織に共通する本質的な危険視であって、差別=劣等視とは微妙に異なります。
 
 こうした「余所者」排斥は、国民国家という「近代的」な政治共同体のレベルでも、国民と外国人の峻別という形で継承されています。
 国籍と国境という概念を確立した国民国家は、そうした概念を持たなかった時代には「まれびと」のような形で一定の歓待を受けることさえあった「余所者」を「外国人」としてかえって厳しく統制するようになったとさえ言えるでしょう。国民国家にとって、外国人は厳重に管理されるべき「余所者」、日本の古い差別語で言えば“異人”なのです。
 
 ただ、この場合も、外国人を必ずしも劣等視しているのではありませんから、国民国家が外国人よりも国民を優遇しようとする政策のすべてが直ちに差別に当たるというわけではありません。
 その点、国際連合の人種差別撤廃条約も「締約国が公民と公民でない者との間に設ける区別、排除、制限又は優遇については、適用しない」と定め(1条2項)、人種差別と「公民でない者」、すなわち外国人に対する区別、排除等とを弁別しています。
 
 とはいえ、外国人を非公民化する政策は、そこから外国人一般を犯罪者と同視したりするような差別的観念を醸成する温床となることは否めません。
 特に日本社会では異人種・異民族が外国籍であることが圧倒的に多いため、人種/民族差別が外国人差別という形式の下に発現しやすいのです。そのため、外国人差別と人種/民族差別との境界線はあいまいであり、先の条約上の弁別も困難です。
 
 例えば、例題3に絡めて指摘した石原東京都知事(当時)の発話「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している」は、人種/民族差別か、外国人差別か、どちらなのでしょうか。
 当時、国連は「公職にある高官による人種差別的な発言」として懸念を表明しました。国連では、石原発話を実質的にとらえ、外国人犯罪問題に仮託した人種(民族)差別と認識したようです。
 しかし、石原氏側はあくまでも外国人犯罪という「治安問題」を提起したにすぎないとの認識を示し、それが「差別問題」に発展したのは、一部メディアが演説の主旨を歪曲したためだと非難しました。
 
 こうした応酬を見ると、日本社会では犯罪をはじめとする外国人問題が人種/民族差別を隠蔽するための転嫁的差別のロジックとしても機能していることがわかります。そうだとすると、外国人差別の克服は、日本社会ではなかなか意識されにくい人種/民族差別の克服にとっても有効性を持つと考えられます。
 
 ところが、この外国人差別の克服ということが必ずしも容易でなく、その究極的な方法はそもそも国民‐外国人の峻別を本質とする国民国家という法的枠組みを解体することしかありません。それはまさに革命であり、単なる〈反差別〉を超え出た政治理論上の大論点になりますから、ここで本連載の直接的な課題とすることはできません。
 しかし、国民国家の枠内でも、外国人包容政策を推進していくことは、国民国家を解体しないまでも、外国人差別克服の一里塚としての意味は持ちますから、そうした努力は無駄ではありません。