おそらく世界中すべての言語の中に差別を言葉化した差別語のリストがあるでしょう。それらの差別語は公式には使うべきでない禁句となっていますが、そうした禁句慣例には、表現者の側から「言葉狩り」との反論が向けられることもあります。
一方、差別は個々の単語としての差別語にとどまらず、一つのまとまりを持った言説に練り上げられていきます。とりわけ近現代における差別は、後で改めて見るように、いくつかの思想的源泉をよりどころとしつつ、言説として昇華され、一般社会にも流布されていきます。このような差別の言説化はどのようにして生じ、またどのような作用を私たちに及ぼしているのでしょうか。
本章では、こうした「差別と言葉」に関わる論点を整理してみたいと思います。
命題11:
差別語とは、それ自体として直接に特定の個人や集団を侮蔑する言葉をいう。
差別語を挙げてみて、と問われたときにすぐに思い浮かぶのは、ブス、デブ、チビ、ちんば、せむし、めくら、つんぼ、黒ん坊、オカマ、白痴、気違い等々の名詞群—あるいは、「キモい」とか「臭い」といった形容詞が差別語となる場合もある—でしょう。
これらの言葉が何故に差別語かといえば、それはそうした言葉がそれ自体として直接に特定の個人や集団を見下し、蔑視するものだからです。
ここで「それ自体として直接に」という限定を加えたのは、後で取り上げるように、それ自体は差別語でないが、その語の反面的なものを差別する反面差別語、同様にそれ自体は差別語でないが、言外に差別的ニュアンスが込められており、差別一歩手前というべき前差別語を区別するためです。
命題12:
差別語は、文脈上例外的にその使用が免責される場合がある。
「差別語=禁句」という定式は今日、差別とは何かを十分に理解していない人にとっても常識的な社会規範となっているように見えますが、実際のところ、差別語の使用が例外的に許され、言わば免責される場合があります。
その最も代表的なものは、差別語を非差別的文脈で用いる場合です。例えば、先に筆者がたくさんの差別語を列挙したのは「差別と言葉」という問題を論じるに当たって具体例を取り出そうとする文脈においてであって、例示の対象となる個人や集団を差別する文脈においてではありませんでした。
もっと端的な例では、「めくらとかちんばという言葉を使用してはならない」という注意書きにおける「めくら」や「ちんば」といった語も、使用すべきでない差別語を例示する文脈で使用されています。
もしも、こうした文脈でも差別語の使用を禁じて、「***とか***という言葉を使用してはならない」というように伏字にすると、意味をなさなくなってしまいます。従って、このような非差別的文脈では差別語の使用はむしろ許されなければならないわけです。
より微妙なのは、口論に際して喧嘩言葉として「気違い!」といった差別語を使用する場合です。こうした口論の場合でも、実際に精神障碍のある相手に向かって「気違い!」という言葉を投げつけるのは明らかに差別的な文脈での使用となりますが、口論相手に精神障碍がない場合には、差別的というよりも侮辱的な文脈での言葉使用と言えるので、口論に際して思わずそうした言葉を吐くことまで禁止するのは無理でしょう。
もう一つの微妙な例は文学作品の中での差別語の使用です。まず、一般論として、文学作品であれば当然に差別語の使用が認められるということにはなりません。しかし、フィクションの場合には通常の叙述とは異なる特有の考慮が必要であることから、後に改めて検討することにします。
命題13:
差別語の使用は、それによって、その言葉が体現している差別的価値観を宣伝する効果を持つ。
差別語の使用が文脈上免責される場合は別として、差別語を原則的に禁句とすることは、しばしば「言葉狩り」として批判されます。差別語を単に個別に問題にするだけでは差別の克服につながらないことはたしかですが、だからといって、差別語の使用も表現の自由の行使であるとして野放しにするわけにはいきません。
差別語の(差別的文脈での)使用が問題である理由として、その言葉が向けられる相手を傷つけるということもありますが、それだけではありません。差別語には、それを使用することにより、その言葉が体現している差別的価値観を宣伝する効果があるということがより重要です。
例えば、「○○は気違い病院に入ったらしい」という表現は、精神障碍者を傷つけるだけでなく、精神障碍を正気でない劣等的な属性とみなす価値観を聞き手にも宣伝する効果を持っています。こうした近所の噂話にすぎないような何気ない表現であっても、そのような表現が当然のごとくにまかり通ってしまうことは、精神障碍者に対する差別を社会全体に普及させるに等しいことなのです。
ただし、例えば小説家が、偏見の強い作中人物の言葉として上のような会話文を書くことは差別的価値観の宣伝にはなりませんが、それはフィクションという創作の世界でだけ許される例外です。
こうしたことから、差別語の使用は極力控えるべきであり、これらの言葉は日常使われないために知る人自体がまれとなる死語となることが望ましいのです。実際、例えば、ちんば、せむし、つんぼ、めくらなど、身体・感覚障碍に関するいくつかの単語はすでに死語と化していると言えます。
命題13a:
それ自体としては称賛語であるが、その反面のものに対する差別を内包する反面差別語は、差別語が帯びている差別的価値観を暗示的に流布させる効果を持つ。
一方、それ自体としては差別語に当たらないが、その言葉の反面のものを劣等視する反面差別語の問題性は従来ほとんど考えられてこなかったと言ってよいでしょう。
反面差別語には、美女(美人)、美男、イケメン、カッコいい、頭が良い、秀才など、容姿や能力に関わる言葉が多いです。これらの言葉自体は称賛語ですから、当然ながら禁句集には搭載されません。にもかかわらず、各々の言葉の反面的なもの、すなわち容姿の醜さや知性・能力の欠如を劣等視する価値観をその反面に伴っている語群です。
従って、例えば「彼はイケメンだ」などという最近の流行表現は、その裏に非イケメン男性に対する差別が隠されており、こうした表現が社会的に普及していくことは、「人間、見た目がすべて」というあらゆる差別の根元にある容姿差別の価値観を宣伝するに等しいことになります。これも、何気ない日常的な流行語の中に重大な差別が潜伏している興味深くも実は深刻な一例と言えます。
ただ、美女とかイケメンといった反面差別語までひとくくりに死語化されるべきかいぶかる向きもあるでしょうが、これらも差別語に準じて考えるべきです。筆者の個人的な感覚として、日本ほど人の容姿を強調する言葉が日常的に飛び交う社会は珍しいように思えます。何かと「美人〇〇」「イケメン〇〇」などの形容が溢れているからです。このことは、現代日本社会に容姿差別が相当な規模で広がっている事実を反面的に示唆するものと言えるかもしれません。
そういうわけで、差別語のみならず、反面差別語をも死語化することは、差別克服のうえで大きな推進力となることは間違いありません。