差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第7回)

三 差別と言葉(続き)
 命題11に関連して、差別語と区別すべきものとして、反面差別語と並び、前差別語というものがあります。
 
命題14:
どのような文脈で用いても直接に差別語となることはないが、言外に差別的なニュアンスを含む前差別語の使用も差別的価値観の浸透を助ける。

 
 こうした前差別語の典型例は「黒人」です。この言葉は人間を肌の色のみによって分類しようとする点で差別語そのものだとみなす見解もあるかもしれませんが、さしあたりはマス・メディアなどでも用いられており、明らかに差別語とは言い難いようです。
 とはいえ、たしかに「黒人」とは肌の黒さをことさらに強調する言葉であり、対語となる「白人」と対照させて使用された場合には、肌の色が人間の存在価値において重要な意味を持つという人種主義の価値観を支える用語ともなり得ます。そうした点では差別の一歩手前まで行くという意味で、前差別語なのです。
 
 他に微妙な例として、「外国人」や「犯罪者」といった言葉があります。どちらも法令上または法律用語としてさえ用いられる言葉ですが、それが使用される文脈によっては差別的なニュアンスが発生します。
 例えば、「外国人風の二人組の強盗」といった表現は直ちに差別的とは言えませんが、外国人と犯罪とが暗示的に結びつけられることによって外国人を差別する価値観を支えることになりやすいでしょう。まして、「外国人」と「犯罪者」が結合されて「外国人犯罪者」という合成語ともなれば、相当露骨に外国人差別の価値観を助長する前差別語となります。
 また、「犯罪者の味方をする弁護士」というような非難を交えた表現も、罪を犯した人を本来は法的弁護にも値しない人間失格者とみなす価値観を助長することになります。
 
 一方、本来は前差別語ではないのに、国の漢字政策のあおりで前差別語の性格を持たされてしまった不幸な言葉が「障害者」です。障害は元来、「障礙」または俗字として「障碍」と表記されていたところ、戦後の常用漢字表から「礙」や「碍」の字が排除されたため、「害」を充てることになってしまい、有害というニュアンスが込められるようになってしまったのです。
 本来から行けば、「しょうがいしゃ」とは、自身が障害なのではなく、何らかの先天的または後天的な疾患のゆえに日常生活に障壁を抱えている人ですから、邪魔をするという意味を持つ「礙」または「碍」の字が適切です。当ブログでは、常用漢字表にとらわれず、原則として(旧俗字により)「障碍」と表記しています。
 
 如上の前差別語を差別語と同様に禁句とすることは困難ですが、乱用されれば差別的価値観の流布を助けることになりかねません。そこで、前差別語を別の言葉で言い換えることを通じて、行論上特に必要のない限り、極力使用を控えていくことが望ましいのです。
 例えば、「黒人」は「アフリカ人」(国籍がわかる場合は、ケニア人とかナイジェリア人などと国籍で表記)、「アフリカ系アメリカ人」など、「外国人」は「外国出身者」、「犯罪者」は「罪を犯した者」あるいは罪というネガティブな語を避け、行為に重点を置いた「犯行者」などのようにです。
 ちなみに、「障害者」は近年、「障がい者」と漢字・平仮名混合表記をすることが多くなってきていますが、これは「碍」または「礙」の字が常用漢字でないことによる苦肉の便法でしょう。
 こうした言い換えによっても、意味的にはさして変わらない場合もありますが、言い換えることによって前差別語としてのニュアンスが消去されるのです。

 

命題15:
差別語を使用しないが、内容上差別思想の表現である差別言説は、個々の差別語以上に人々の意識に差別的偏見を植え付ける可能性がある。

 
 前回冒頭でも指摘したように、差別は個々の単語にとどまらず、ひとまとまりの言説に高められ流布されていきます。そうした差別言説の最も初歩的なものとして、例えば「黒人は頭が悪い」「女は感情的である」「精神病者は危険である」などがあります。
 こうした言説では差別語は使用されていないにもかかわらず(一部に前差別語を含む)、それぞれアフリカ系の人や女性、精神障碍者に関する差別的価値観を助長する効力を持ちます。こうした言説は、単純な「黒ん坊」「アマ」「気違い」といった個々の差別語以上に差別的価値観を人々の意識に植え込んでいくものです。
 
 もっとも、こうしたまさに初歩的で格言的な言説はまだ思想性を帯びていないため、せいぜい一般大衆の意識の内にとどまるだけですが、「劣等遺伝子」の排除を主張する近代の優生思想などは知識人の間でも広く共有された権威的な言説の地位を獲得したのです。その極限としてのナチスの劣等人種絶滅政策にしても、それを理論的に支えたのは高度な教育を受けた“エリート”の科学者や医学者たちであったのです。
 こうした差別言説に対しては、単に差別語を禁句とするだけでは全く対応し切れず、各言説の虚偽性ないし偏向性を的確に批判していく必要があります。
 ところが、差別言説は一部の商業出版社やインターネット・プラットフォームなどがこれを強力に支援し、差別言説を宣伝するような書籍やウェブサイトを通じて差別的価値観の普及に力を貸している現状があります。言わば、差別の商品化です。その点、近現代の資本主義は、差別的価値観に強力な普及の場としての市場を提供することによっても、差別を経済的に下支えしてきたと言えるでしょう。

 

命題16:
差別を克服するためには差別語・差別言説を法的に禁止するのではなく、それらが前提としている差別的価値観を転覆していく必要がある。

 
 差別が何よりも言葉から広がるとすれば、差別語の使用や差別言説の流布を検閲や刑事罰によって禁止することが差別克服のうえで最善の道ではないか━。
 差別克服の情熱を持つ人ほどこのような発想に赴きやすいかもしれません。しかし、事はそれほど単純ではありません。差別における言葉とは、たとえて言えば表玄関に相当します。検閲や刑事罰の導入は、言わば表玄関を強制的に封鎖することを意味します。そのことが無意味とは言いませんが、表玄関を封鎖しても、裏口や窓からもこっそりと侵入してくるのが差別なのです。
 
 仮に、「気違い」という差別語の使用を法的に刑事罰をもって禁じたところで、精神障碍を劣等視する価値観はこっそりと残存し、むしろ地下に潜行してかえって深く社会に浸潤していくかもしれません。また、優生思想を流布する言説を検閲で取り締まっても、優生思想は生物学や医学の中に姿を隠して生き延び続けるでしょう。
 その点、ドイツではナチズムを称揚するような行為は刑法で処罰されますが、そのドイツが今日でもナチズムを信奉するネオ・ナチ運動の中心地であるという事実は、差別と言葉を考えるうえでも示唆的です。
 
 誤解してならないのは、差別語・差別言説を法的に禁止することに否定的であることは、決してそれらを野放しにすることとイコールではないということです。むしろ、差別語・差別言説はその前提となっている差別的価値観を転覆する努力を通じてのみ滅びるのだということを強調したいのです。
 例えば、肌の色が白であろうと、黒であろうと、はたまた緑でさえあっても、肌の色は人間の存在価値においては何の意味も持っていないという意識が確立されれば、人種差別的言説も滅びるわけです。
 逆に、肌の色が人間の存在価値において重要な意味を持っているとの人種差別的価値観が残存している限り、たとえ人種差別的言説の流布を厳罰をもって禁止したところで、人種差別はこっそりと生き延び続けるでしょう。