差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第8回)

四 差別に関する行為類型
 これまでの三つの章では、一般的な現象としての差別について概観してきましたが、差別の具体的な発現の仕方は様々であり、露骨な差別からそれとない暗示による差別まで、変幻自在と言えます。
 また、私たち私人が私的に差別する伝統的な差別に加え、近代的な差別の特色として、国や自治体が公式の政策として差別する場合もあります。これは差別をする主体による違いです。
 一方、差別を回避しようとしたり、それを解消しようとしたりすること、あるいはもっと積極的に被差別者を包容しようとすることのように、非差別の方向の行為は従来あまり整理されてこなかったため、差別に対しては抽象的な非難・糾弾に終始しがちですが、こうした脱/反差別の具体的な行為を類型的に整理することは、差別克服のうえで有益です。
 この章では、差別に関する様々な行為を類型化して整理することにします。ここで整理されたことは、後で実践編に取り組む際の基礎知識ともなります。
 
命題17:
差別行為は通常、劣等視の対象となる被差別者に不利益を課す形態(不利益差別)を取るが、反対に被差別者に利益を与える形態(利益差別)を取ることもある。
 
 以前、差別とは何よりも劣等視という視線の言葉化・言説化であると論じましたが、差別が具体的に発現するときは、単に言葉で表現されるだけでなく、多種多様な行為を伴います。そうした差別の発現としての行為を「差別行為」と名づけます。
 
 差別行為のほとんどは、被差別者を何らかの形で劣遇する不利益差別の形態です。その中心は、例えば有色人種に参政権を与えないといった形で基本的権利を否定する「排斥」ですが、その究極には被差別者の生存そのものを否定する抹殺・絶滅があります。
 また、被差別者の自由を拘束して収容所やその他の施設に拘禁する「隔離」も差別の形態としてよく見られますが、有色人種の参政権を否定することや異人種間の結婚を禁じることのように、特定の人間(集団)を社会の周縁部に封じ込めてしまうようなことも、抽象的な意味で「隔離」と呼ばれることがあります。
 そのほか、意識的に被差別者の存在を否定する無視、差別的な言葉や態度による嫌がらせ、嘲笑、中傷のほか、相手に気づかれないように隠蔽される差別的な陰口も、対象者のマイナス価値を強調するような陰口の流布により、対象者が集団の中で疎外されることになるため、不利益差別行為の一形態に含まれます。
 
 以上に対して、被差別者を優遇する利益差別は例外的な形態ではありますが、例えば、前近代の日本の都市が一定の汚れ仕事などを委ねていた最底辺層の被差別者に対して、祝儀などの形で経済援助をしていたことは、そうした特別の利益を与えることが差別を助長していたという意味で、利益差別の事例と言えます。
 また、賞賛して栄誉を与えることが差別となる場合さえあります。例えば、何か特定分野で大きな成果を挙げた障碍者に対して、障碍があることをことさらに評価し、表彰するのは、障碍を本来はマイナス価値として見ていることを前提とするもので、一つの暗示的な利益差別なのです。
 さらに、一般的に被差別者を「かわいそう」な存在と見て、憐憫の情をかけたり、同情したりしてみせることは、どんなに「善意」であっても、被差別者を劣等視する視線を維持したまま見下す形で相手を思いやっているだけですから、これも差別となるのです。言わば、「善意の差別」です。
 ちなみに、日本人が好む「思いやり」という観念は、「思い」を(上から下へ)「やる」というニュアンスを含むため、「思いやり」の状況によっては利益差別に転化しやすいことに注意を要するでしょう。
 
 なお、後で触れるように、被差別者を積極的に社会の中心部に迎え入れるために一定の優遇をすることがあります。これも被差別者に利益を与えることになりますが、この場合は、被差別者に利益を与えることが差別を助長する関係になく、逆に差別の克服のための施策ですから、ここでの利益差別には当たらないと一応は言えます。しかし、具体的な事例で考えると必ずしもそうは言い切れない場合もあります。その詳細は実践編で検討します。
 
命題18:
差別行為をその主体によって大別すると、国や自治体などの公権力が政策的に差別する権力的差別と、私人が私的に差別する私的差別とに分けられる。
 
 この区別はさほど難しくはないでしょう。前者の権力的差別の代表例は、おおむね1960年代以前の米国や白人政権時代の南アフリカ共和国で政策として公然と行われていた「人種隔離」です。
 このような差別はたいてい法律に基づいて合法的に実行されるため、政権交代等に伴って政策が変更されない限りどうにもならないものです。その一方で、権力的差別は、ひとたび政策が変更されればさしあたり解消されるという点では、私的差別よりも取り組みやすいと言えます。
 
 後者の私的差別の例は無数にありますが、訴訟に発展しかねないほどのものとしては、商店主が外国人の入店を拒否することが挙げられます。この場合、店主は法や政策に基づくのでなく、自分自身の外国人に対する偏見や排外的意識に従って、私的に外国人を排斥しています。
 もっと身近な例で言えば、他人の容姿の欠点をからかったり、陰口を言ったりすることも立派な差別です。このようなまさしく児戯を子どもが他の子どもに仕掛けた場合は「いじめ」と呼ばれますが、「いじめ」の中でも対象者を自殺に追い込むほどの深刻ないじめは、子どもの領分における「差別」なのです。
 
 これらの私的差別は私人が日常の中で慣習的に実行する差別ですから、政策の変更で解消できるようなものではありません。よほど悪質なケースは法律上も違法とされ、差別行為者に民事責任や刑事責任を問うこともできるでしょうが、基本的には、後で議論するような包括的差別禁止法が制定されなければ私的差別全般の法的救済は困難です。
 
命題19:
差別行為には露骨な差別行為の他に、一見して合理的な理由によって正当性を偽装する「転嫁的差別行為」、特定の個人や集団を称賛・優遇することによって、その反対の個人や集団を劣等視する「反面差別行為」、それ自体としては差別に当たらないが、差別の前段階と言うべき「前差別行為」がある。
 
 まず、露骨な差別行為とは、前に挙げた例で言えば、商店主が単に外国人だからという理由で入店を拒否するような行為です。
 
 これに対して、「転嫁的差別行為」とは、今の例で、外国人の入店を拒否するに際して、「外国人は店内でトラブルを起こしがちだから」というような一見してもっともらしい理由を持ち出すようなことです。これも差別ですが、言わば(偽装的に)合理化された差別です。
 
 その点、先の権力的差別は、ほとんどすべてこの転嫁的差別に当たります。例えば、障碍者や遺伝病者に対する強制断種政策は悪性遺伝の予防による将来の福祉支出増大の抑制という合理化の下に実施された転嫁的差別行為(政策)でありました。
 権力的差別は政策として実行される差別であるというからには、ほとんど必ず合理化理由を伴うのです。ナチスの絶滅政策のようなおよそ政策の名に値しない反人道犯罪でさえも、人種浄化を通じた健全な民族共同体の建設というような合理化がなされていたわけです。
 
 一方、「反面差別行為」の例としては、「美人コンテスト」を挙げることができます。こうしたコンテスト自体は「美人」を表彰するイベントであり、差別に当たりませんが、反面において「美人」でない者を暗黙裡に劣等視している点で差別的なのです。
 ちなみに、この「美人」という言葉(類語として男性に対する「美男子」「イケメン」なども同様)そのものが、その反対の者を劣等視する反面差別語であることは、以前に指摘しました。
 
 最後に、「前差別行為」の例として、電車内で見かけた一見それとわかる障碍者に好奇の視線を当てることが挙げられます。一般的に好奇の視線はその対象を必ずしも劣等視しているわけではないのですが、何か奇怪・奇異な者としてまなざすのですから、それは劣等視の一歩手前と言えるのです。
 なお、差別語一歩手前の用語を「前差別語」と呼ぶことも、以前の回で指摘しましたが、そうした言葉を使う必然性のない場面で前差別語を発することも、「前差別行為」となります。
 
命題20:
非差別方向の行為には、差別が生じかねない状況で差別を回避しようとする「差別回避行為」、差別的状況を解消して対等化する「差別解消行為」、差別解消から一歩進めて、被差別者を積極的に迎え入れる「包容行為」がある。
 
 差別行為に対して、非差別方向に動く脱/反差別行為の中で最も消極的なものは、先の例で、電車内で見かけた障碍者に対して、意識的に視線を当てないようにする「差別回避行為」です。
 この場合に視線を当てないのは、意識的な存在の否定としての無視ではなく―意識的な無視は差別行為の一形態となります―、好奇の視線を当てることを避ける遠慮の視線回避です。これは、直接に差別解消につながる行為ではありませんが、自ら差別的状況を回避しようとする点で、差別から一歩脱却する行為と言えます。
 
 一方、「差別解消行為」とは、例えば人種差別政策を撤廃することが典型例です。これは、まさに人種差別を解消する政策変更にほかなりません。一般的に差別撤廃と呼ばれる政策は、この「差別解消行為」に当てはまります。差別解消は公権力の政策をもってしなければなし得ないところが大きく、その主体の多くは公権力であると言えます。
 ただ、例えば各種民間施設が建物の内外を完全バリアフリー化して車椅子利用者の障壁を除去するようなことは、私人による「差別解消行為」の一例ですから、私人の差別解消行為も差別克服のうえで極めて貴重なものです。
 
 こうした「差別解消行為」によって差別状況をひとまず撤廃することはできても、それは形式的な対等化―いわゆる機会の平等―が達成されたにとどまり、被差別者は依然として社会の周縁部に置かれたままです。そこで、より積極的に被差別者を社会の中心部に迎え入れて実質的な対等化―いわゆる結果の平等―を図ること、これが「包容行為」です。
 例えば、街のバリアフリー化を推進することは差別解消になりますが、当の障碍者が施設に閉じ込められていたままではバリアフリーも宙に浮いてしまいます。そこで、障碍者も街で暮らせるように地域で支えるシステムを作ることは、包容行為(政策)です。また、障碍者も自らの特性を生かして労働することができるよう一定数の障碍者の雇用を法的に義務づけることなども同様です。
 詳しくは実践編で扱いますが、このように積極的に結果の平等を目指す施策は、特に「積極的差別是正政策(アファーマティブ・アクション)」と呼ばれます。
 
 もっと身近な例でまとめ直しますと、学校のクラスで、その容姿の印象などから「バイキン」呼ばわりされ、いじめを受けていた生徒に対して―このようないじめは子どもの領分における典型的な容姿差別です―、いじめていたグループが謝罪し、以後「バイキン」呼ばわりしないことを誓うのは一つの差別解消行為ですが、それにとどまらず、従来いじめられ、孤立していた生徒をクラスが積極的に受け入れ、対等な級友として配慮することは包容行為となります。
 
 なお、以上の叙述からも明らかなように、非差別方向の行為も、差別行為と同様に、その主体の違いから、公権力によるものと私人によるものとを区別することができます。