差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第11回)

七 差別克服のための視座

 〈差別のない社会〉は、例外なくすべての人にとっての理想でしょう。いや、自分は確信的な差別主義者であるから、〈差別のない社会〉よりも〈差別のある社会〉を理想と考えるという人もひょっとしておられるかもしれません。しかし、そういう人も海外へ一歩出れば人種差別にさらされる可能性を免れないのでした。
 
 もっと言えば、ナチスの指導者ヒトラーのように、誰からも差別されそうにない“アーリア人”男性の確信犯的差別主義者でさえ、彼は画家を志しながら美術学校の受験に失敗し、一時野宿生活者同然の生活も経験した人で、(確証されていない)一説によれば、生殖器に異常があり、性的不能者であったともされます。ヒトラーも、能力差別、職業差別、あるいは病者差別の対象になりかねない経歴を持ってはいたのです。
 しかし、曲折を経て活動家・政治家として大成功した彼は、差別を克服するのでなく、反対に差別を極限化することによって人種的に浄化された民族共同体という彼なりの“理想”を実現しようとしたのでしたが、こちらは無残な自滅に終わりました。結果から見れば、彼の“理想”はあべこべの逆ユートピアだったのです。
 
 こうしてみると、〈差別のある社会〉の方向に光は見えてこないように思えます。それにしても、〈差別のない社会〉はどのようにして可能なのでしょうか。可能でないとしたらどうしたらよいのでしょうか。本章ではこうした問いについて考えてみます。

命題26:
差別克服とは差別の根絶を目指すことではなく、すべての人が差別を社会悪と自覚して差別的価値観を脱却しようと努めることである。

 
 差別を文字どおりなくすという意味での差別の根絶は、不可能である━。意外に思われるでしょうが、まずはこのことが差別克服の出発点となります。
 
 このような言明は反差別の情熱を燃やす人を消沈させ、差別主義者を鼓舞してしまうという懸念を持たれるかもしれません。しかし、一でも見たように、人間は価値を衡量する動物であり、しかも視覚的表象に依存する動物でもあります。このような動物学的特性から誰も逃れることができない以上—視覚障碍者だけは視覚的表象依存を免れていますが—、差別を完全にゼロにすることは無理なのです。
 人間は不可避的に差別する動物である、と断言して憚りません。それだからこそ、差別を放置するのでなく、克服する必要があるのです。差別克服とは、従って、〈差別のない社会〉の理想を目指すことではなく、〈差別が放置されることのない社会〉を目指すことであると言い換えてもよいでしょう。
 
 要するに、差別が社会悪として認識され、差別的価値観から脱却するための努力が絶え間なく継続されていくことが差別克服なのであり、本連載が主題とする〈反差別〉とは、そうした差別克服の道=プロセスのことです。
 以下、差別克服のうえで基本的な視座となるいくつかの考え方を検討していくことにします。

命題27:
人と人との間には様々な差異がある。しかし、人類としては一種類である。

 
 地球上に80億近い人間が存在しますが、ひとりとして全く同じ人間は存在しません。このことは真理です。しかし、その一方で、現生人類はホモ・サピエンス一種類しか存在しません。このこともまた真理です。
 
 実は、差別というものは、こうした生物学的には単一である人類の内部に存在する容姿、肌の色、性別、障碍、性的指向、職業、民族等々の様々な差異をことさらに強調し、その間の優劣をつけることから始まります。
 
 この点で、近年モードとも言える「差異の哲学」、それとも関連する「多様性」の社会理論は、〈反差別〉の観点から見たときには、逆効果の危険も伴います。というのも、差別は差異・多様性を否定しないどころか、それを温床とさえするからです。
 例えば、女性差別は人類の性差という差異を前提としていますし—従って、男性優越論者は「男女の性差」を強調する—、人種/民族差別は人類の人種/民族という差異・多様性を前提としている—従って、人種/民族差別主義者は「人類みなきょうだい」の標語を嘲笑する—わけです。
 差異・多様性の理論は、差別の本質を差異・多様性の抹消、強制的同化にあると見ているのでしょうが、その基本認識には再考の余地があります。
 
 たしかに、ナチスのような絶滅政策を追求していけば、最終的に残るのは同質的な「アーリア人」のみとなるのかもしれませんが、これは差別の極限的暴走の果てであって、通常は人種隔離政策のように、差別は差異を完全に抹消しようとはしません。むしろ、容姿とか肌の色のような瑣末な差異を強調して、人類の単一性を否定しようとするのが、差別的価値観の典型的な思考法です。
 かつて米国で人種隔離を正当化する論理として「分離すれども平等」という法的ロジックが採用されたように、差異あるもの・多様なものの隔離的共存という考え方は、差異・多様性を利用した一つの差別思想なのです。
 こうしたことからすると、差別克服のためには、改めて人類の単一性、人間の類的共通性を確認し直した方がよいと思われます。

 

命題28:

人間にはほとんど無限といってよい差異があるが、そうした差異にばかり目を向けるのではなく、差異を超えた「人類」としての互いの共通点を見つめるべきである。

 
 実際のところ、人類の分類基準として従来、力を持ってきた「人種」とか「民族」とかいう概念も、他の動植物の科学的な分類基準とは全く次元の異なるもので、近代国民国家の形成と発展に伴って構築されていったそれ自体政治的な分類概念です。
 その他、性差とか性的指向など、必ずしも政治的とは言えない人類の分類基準も、あくまでも相対的な種差であって、その境界を絶対的に画することができるものではありません。
 
 そうした政治的にも非政治的にも構築された差異を超えた共通性の認識は、私たちを「包摂の哲学」へ導くでしょう。すなわち、それこそ「人類みなきょうだい」という、あの赤面を感じるほど素朴な標語にまとめることができる哲学です。
 もう少し赤面しない言葉で言い換えれば、要するにすべての人に「人間」としての対等な存在価値を認めるということになります。差別とは、別の角度から見れば、人間の非人間化にほかなりません。日本の前近代における最下層民の蔑称の一つ、「非人」はすべての差別に妥当する普遍的な非人間化の所作の象徴なのです。
 
 なお、この「包摂の哲学」は、いわゆる「同化」とは全く異なります。「同化」とは、北米(アメリカ及びカナダ)やオーストラリアの先住民、日本のアイヌなどの少数民族に対して政府が強制してきた差異の強制抹消—しかも、優越的なものへの強制統合—にほかなりません。
 これに対して、「包摂の哲学」は差異を抹消することなく、尊重しながらも、差異を超えた「人間」—ちなみに、アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する—としての共通性に注目しようとするということが誤解されてはなりません。

命題29:

被差別者が被差別特徴を自己のアイデンティティーとすることは、自己差別を克服するうえでは有効な場合があるが、差別一般を克服するための視座としては有効とは言えない。

 
 差異の哲学・多様性の理論についていささか否定的なことを記しましたが、これらが有効に働く場面として、上にまとめたアイデンティティー構築があります。
 
 かつて、米国の人種差別撤廃運動の中で、「ブラック・イズ・ビューティフル」(黒は美しい)というスローガンが掲げられたことがありました。黒とはもちろん、黒い肌のことを指しています。これは、人種差別において被差別特徴とされる黒い肌をあえて自己のアイデンティティーとしてプライドに変えようとする言説です。
 その他、「障碍とは一個の個性である」とか、同性愛者が自らを「ゲイ(gay)」—この語には「陽気な」「快活な」といった意味がある—と呼んだりすることも同様ですし、女性が女性性(フェミニニティー)を称揚するフェミニズムもそうした被差別者のアイデンティティーに根ざした社会理論の成功例と言えるでしょう。
 
 こうした被差別者のアイデンティティー構築は、自分自身の被差別特徴を自ら劣等視する自己差別を克服するうえで有効であることを認めないわけにはいきません。
 とりわけ、自己差別が生じやすい容姿差別や人種/民族差別、同性愛者差別などの分野では、被差別者は自身でアイデンティティー構築のプロセスを体験しなければ先へ進めないこともあり得ます。
 
 そうではあるのですが、このアイデンティティー路線で差別一般の克服を目指すことは難しいと言わざるを得ません。まず、何人も自己のアイデンティティーの承認を他人に強制する権利を持っていないからです。例えば、黒人としてのアイデンティティーの承認を白人を含む非黒人に対して強制することはできないのです。
 もしそれを強制するならば、黒人は白人としてのアイデンティティーも相互的に承認しなければならなくなりますが、このような強制的相互承認は一種の「住み分け」を結果します。要するに、「私は私、君は君」というわけです。こうして、結果的には、かの「分離すれども平等」という隔離的共存へ至ってしまうのです。言わば、相互隔離主義です。
 
 一般的に、アイデンティティーは「自己同一性」と訳されているように、自己への同化現象ですから、自意識が肥大化し、他者の姿が見えなくなる危険性を持ちます。見方を変えれば、白人優越主義のような差別言説も、白人なりのアイデンティティーが肥大化していった結果とも言えるのです。
 逆に、被差別者のアイデンティティーが肥大化していけば、例えば「黒人優越主義」とか「女性優越主義」というような逆転的差別言説が生じかねない危険も内包されています。
 
 このことは特に、多文化主義政策を採用するときには注意を要します。住民の文化の多様性を称揚することは、各文化を保持する民族のアイデンティティーを肥大化させ、相互隔離・相互排斥の風潮を作り出す危険を生み出すからです。
 また、近年、国際社会でも定着しつつある「先住民族」という概念も同様です。ここでは、被差別民族の「先住性」を強調することが、その民族のアイデンティティーを目覚めさせる一方で、肥大化もさせていく恐れがあります。
 
 アイデンティティー構築は、あくまでも自己差別を克服するための社会心理的な(場合によって個人心理的な)「療法」にとどめ、多文化主義のようにアイデンティティーを政策に取り込むことには、努めて慎重であるべきだと考えます。
 この点で、本連載の立場は、「差異」「多様性」をキーワードに差別を克服しようとする近年の流れとはいささか異なるアプローチを試みるものと言えます。

命題30:
差別克服の知覚上の切り札は、目に見える外面的な美にとらわれる態度を捨て、目に見えない内面的な美を重視する態度を涵養することである。

 
 「包摂の哲学」と言われても、現実に人と人との間には大きなへだたりがあって、それら差異ある人々をすべて「同じ人間」と認識することはなかなか困難だという疑念もあるでしょう。
 ただ、そこで言われるへだたりとは、ほとんどの場合、目に見える特徴に着目した差異を意味しています。典型的には容姿です。それでも、誰が見ても醜悪と評されるような容姿の者はいるのではないか、そういう者を差別して何が悪い?という開き直りの本音も聞こえてきそうです。
 
 命題6で視覚的な美醜の価値判断が差別の出発点であることを指摘しましたが、視覚的な美醜とは目で見える美を優等的として称賛し、醜を劣等的として蔑視する評価基準にほかなりません。
 実は、学術としての美学も、主としてこのような外面的な美に注目して、絵画や彫刻などを鑑賞評論します。美学が差別を助長しているなどと糾弾するつもりはありませんけれども、このような美学の思考方法、すなわち「外面性の美学」は差別の視線とも重なり合うものです。
 
 こうした外面性の美学に対して、目に見えない内面の美を重視することを、「内面性の美学」と呼ぶことができますが、これこそが差別克服のうえで知覚上の切り札となります。
 元来、日本には「見目より心」という格言がありますが、今日ではほとんど死語に近い状態で、逆に「心より見目」、「見た目」至上の価値観が支配的となってきているようです。しかし、「見目より心」というわずか五文字の格言の中に内面性の美学のすべてが凝縮されています。かつての日本人はこのような美学に到達していたのですから、現在の「見た目」至上の外面性美学の横行は歴史的な後退と言わざるを得ません。
 
 もっとも、この内面性の美学にも限界はあります。以前言及しましたように、視覚的表象もある程度抽象化されるため、罪を犯した者のように内面が「醜悪」とみなされる者には、やはり差別の視線が向けられやすいからです。
 凶悪殺人犯、あるいはナチスの絶滅政策のような邪悪な反人道的差別犯罪を実行した犯人らは人でなしの鬼畜とみなして死刑に処せられるべきか、それともかれらもまた「人間」に包摂されて生かされるべきか━。こうした難問は、実践編で改めて個別に課題としてみたいと思います。