差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

差別からの自衛権一考

今年も差別克服のうえで特に目立った動きはありませんでしたが、6月に東京高等裁判所で注目すべき判決が出されました。高裁は、いわゆる被差別部落の地名を書籍やインターネット上で無断公開することについて、関係者がその差し止めを求めた訴訟で、「差別されない人格的利益」に基づく差し止めを認めたのです。*現在、被差別部落は地域改善事業の進展などにより、部落というより一つの地区となっていることを考慮して、本稿では「旧被差別地区」と表記します。

 

一審判決も差し止めは認めつつ、「差別されない人格的利益」については「権利の内実が不明確」として権利性を認めなかったのに対して、高裁はこの権利を明確に認めた点で画期的と評されています(外部記事)。

 

この訴訟の大きな特徴は、公開した人が興味本位ではなく、自身も旧被差別地区出自と明かしたうえで、部落差別の解消を目指すとされた同和行政に関する検証と議論の一助として公開したという趣旨の主張を展開していることです。言わば、自分自身のカミングアウトを超えた拡大カミングアウトとも言えます。*当事者以外の第三者が興味本位や差別的な動機から地名を無断公開することの違法性は明らかなので、ここでは論外とします。また、学術研究や差別克服その他真摯な目的のもとに行論上地名を表示することに正当性がある場合も、ここでの議論の外に置きます。

 

カミングアウトは通常、自分自身の被差別属性をあえて公開する行為であり、まさに自身が旧被差別地区出自であることや、性的少数者であることなどを公開することがそれに当たります。これは自己決定の自由ですから、公開した場合のリスクも考慮しつつ、あえて公開することは本人の自由です。

 

本件で問題になった地名は個人の被差別属性ではなく、そこに居住する住民の集団的な被差別属性ですから、個人の自己決定権の及ぶ対象ではありませんが、旧被差別地区住民の総意に基づいてあえて地名を公開して世に問うというのであれば、それは住民の集団的な自己決定として認められるでしょう(ただし、後述のように次なる問題あり)。

 

他方で、公開した場合のリスクを考慮したうえで、被差別属性を秘匿することも自己決定権の内容として保障される必要があります。ですから、他人の非差別属性を無断で公開することは許されないことになります。東京高裁はそうした権利を「差別されない人格的利益」と規定しましたが、もっと積極的に「差別からの自衛権」としたほうがより強力な権利となるでしょう。

 

現状では、被差別属性を公開すれば、周囲や匿名第三者からの差別的な態度や言動にさらされ、時として生命身体にも危険が及ぶ憎悪犯罪の標的とされるおそれが増します。それに長期間耐えられるだけの精神力を備えた人は多くはないでしょう。従って、「差別からの自衛権」が保障されなければ困るのです。

 

ただ、一部の当事者運動家などの間では、秘匿せずあえて公開することが差別解消に資すると主張して、同輩の非差別属性を強制的に公開することをある種の反差別運動として実行する例があります。これはカミングアウトに対してアウティングと呼ばれます。本件で問題となった地名の公開はそうしたアウティングの一例と見ることもできます。

 

しかし、アウティングはまさに他人の自己決定権を侵害し、「差別からの自衛権」を奪う不法行為であり、いかに反差別の大義を掲げてもこれを正当化することはできません。本件では特定個人の自己決定権を個別に侵害してはいないとしても、地名を無断公開したことにより、旧被差別地区住民の集団的な自己決定権を侵害し、ひいては「差別からの自衛権」を奪う結果となったのです。

 

では、住民の総意で、あえて旧被差別地区の地名を公開することは差別解消に資するのでしょうか。このことは本件訴訟を超えた次なる問題です。この問題は当事者によっても意見が分かれるところかもしれません。

 

部落差別問題は前近代日本の身分制度に淵源を持つ根深い問題ですが、旧被差別地区の存在を前提としたうえでその地名を公開したところで、地元ではすでに知られていることが多い一方、遠方や海外の人にとっては興味本位の豆知識に過ぎず、差別解消としての意味があるとは考えにくく、また同和行政の検証や議論に際しても地名の公開が必須とは考えられません。

 

そもそも前近代における最下層身分の人々が集住を強いられた部落が近現代まで存続してきたことに根本問題があると言えます。いわゆる同和対策事業も、そうした部落の存続を前提に、「平等」ではなく、「同和」なる新語を作り出して、地域間の融和と生活向上策を施すという近現代日本政府の弥縫政策の現れと考えられます。

 

しかし、究極の差別解消は、そもそも旧被差別地区そのものが存在しなくなり、新世代の住民が全国あるいは海を越えて世界に散らばり、先祖の出自も歴史のかなたに霧消することではないか━。これは管見にとどまりますが、拙『〈反差別〉練習帳』でも例題として取り上げたところですので、改めて宿題としてお考えいただければと思います。