差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第12回)

八 差別克服の実践練習

 前章で示したような差別克服のための視座は社会啓発を通じて一般市民に浸透させていく必要があるのですが、それだけでは全く不足です。なぜなら、それらはいずれも人間としてのあり方そのものに関わる視座であるがゆえに、年少の頃から教育を通じてそうした視座を涵養していかなければならないからです。

 

命題31:
そもそも差別的価値観は、物心ついた頃から両親を含む周囲の大人や、時に教師をさえ含む年長者、さらにはテレビの一部娯楽番組などの影響で知らず知らずのうちに身についていくものであって、未成年の間に沁み込んだ差別的価値観は成人後の言動を強く支配するに至る。

 
 この点、差別の出発点は、物事を弁別し、それを価値序列化することにあると一で指摘しましたが、そうした弁別‐価値序列化という所作が乳幼児期からの発達の過程でどのように差別的価値観へと成長していくかについては、別連載:差別と発達で詳しく解析しましたので、そちらをご参照ください。

 
 また差別がそのような乳幼児期以来の発達過程で身についていくものであるとすれば、差別克服にとっては、一にも二にも三にも教育が重要となります。このような差別克服に向けた教育のことを「反差別教育」と名付けます。

 

命題32:

「反差別教育」は就学前に始まり、義務教育を通過し、高等教育前の全過程で(日本の学制なら高等学校まで)継続的に行われる必要がある。


  実は、当連載の初版ではこうした「反差別教育」の概要を一章割いて論じておりましたが、後に別連載:反差別教育にてより詳しく論じ直しましたので、この件についても、そちらをご参照ください。

 
 さて、現状では、筆者の知る限り、そこまで徹底した「反差別教育」を実施している国はまだ存在しないようですので、世界中のほとんどの成人はそうした教育を受けないまま成長していることになります。そのため、多くの人は―当講座のようなささやかなものを含め―反差別の働きかけに対して抵抗を感じ、様々な形で拒むようにすらなります。一種の心理的な拒絶反応と言ってよいでしょう。

 


命題33:

反差別抵抗性とは、差別克服の働きかけに対して抵抗してしまうような心理及びそうした心理に基づく抵抗的行動をいう。

 
  こうした反差別抵抗性にも様々な種類のものがあることを以前の別稿にて解説しましたが、それら諸々の反差別抵抗性を打破して反差別の価値観と行動習性を体得していくことが、まさに差別克服の過程なのだと言えます。
 
 そうした中でも、当連載との関係で特に触れておきたいものがあります。それは理論武装的な反差別抵抗性としてしばしば援用される「政治的正しさの理論」です。これは差別語や差別的表現の回避は「政治的な正しさ」を求める「左翼/リベラル的」理論だとする反論です。主な「原産地」はアメリカですが、日本でしばしば聞かれる「言葉狩り」批判は、この「理論」の日本化された素朴な変形とも言えます。  

 

命題34:
差別克服は政治問題ではなく、いかなる政治的価値観に立とうと共通して妥当する人としての根本的な倫理的努力である。

 
 差別克服の働きかけを「政治的正しさ」の問題に帰せしめて拒否しようとする人々は、差別克服を自身が反対する特定の政治イデオロギーと結び付けようとするようですが、差別克服は政治問題ではなく、およそ人間に共通して課せられる倫理的な努力の過程ですから、政治イデオロギーとは無関係です。
 より具体的に踏み込んで言えば、保守・右翼であろうと、革新・左翼であろうと、中道であろうと全員共通して課せられる努力の過程なのです。このことは、あらゆる差別の出発点である容姿差別の被害者がいかなる政治的立場にあろうと、共通して被差別者となり得ることを考えてみればよくわかるでしょう。

 
 さて、こうした「反差別抵抗性」を打破して、成人が言わば反差別に向けて再教育され直すためには、一定の「練習」が必要となります。当連載はそうした実践練習のための試作教材として想定されています。
 これとて、反差別抵抗性の中でも、差別克服の働きかけに対して、自分は差別などしないし、差別されることもないという思い込みから避けてしまう回避型のそれに対しては無力かもしれませんが、そのような回避型の抵抗性に対しては、次の命題を差し向けます。

命題35:
人は誰でも差別の標的となり得る特徴(被差別属性)を最少でも一つは備えており、かつ差別的偏見を最少でも一つは備えている。

 
  この命題の意味は改めて解説するまでもなく、明瞭でしょう。自身では気づいていなくとも、誰もが少なくとも一つずつの被差別属性と差別的偏見とを持っているのです。実際のところ、特定分野の反差別運動に従事しているような意識の高い人々の間ですら、自身が関わっていない別分野の事柄に関しては差別的偏見を持っていることも大いにあり得るほどです。
 そうであれば、反差別の働きかけを回避することは、図らずも自分自身が被差別者かつ差別者の地位に立ってしまうことを意味しています。それこそ、真に回避したい事態なのではないでしょうか。