差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳(連載補遺3)

レッスン番外編:動物差別(続き)

 

例題4:
[a]次のような目的で動物を殺すことについて、あなたはどう考えますか。

食用、毛皮/皮革採取用、害獣駆除、娯楽の狩猟


(1)すべてやめるべき
(2)すべてやめなくてよい
(3)やめるべきものもある


[b]([a]で「(3)やめるべきものもある」を選択した人への質問)やめるべきと考えるものはどれですか(複数回答可)。

 

 人間が人間を殺すことは、正当防衛などの例外的な場合を除き、犯罪行為となりますが、人間が動物を殺すことは、ペットや保護されている野生動物をみだりに殺す場合を除き、広く合法的に行われています。このような対照的な取り扱いにも、人間が動物を人間より一段以上低い生物とみなしている人間優越主義が見て取れます。

 

 本例題に掲げたのはそうした合法的な動物殺の代表例ですから、合法的であってもやめるべきかどうかという問題になります。その点、一部の趣味人にしか関係のない娯楽の狩猟を除けば、残りの三つについては必要性が論証できるので、多くの人が「やめなくてよい」という回答になりそうです。

 

 中でも害獣駆除をやめるべきという人はほとんどいないでしょう。ただし、何をもって「害獣」とみなすかという「害獣」の定義は少し問題となります。その代表例として、田畑を荒らす動物やしばしば人間を襲撃してくるような動物が考えられます。
 ただ、これらの「害獣」に対しても、柵を設けるなど、何らかの方法で遠ざけることができれば殺すほどの必要性はないため、殺さない害獣対策の可能性を探っていくことが、動物差別を克服する一歩となるでしょう。

 

 毛皮/皮革採取目的の動物殺は、微妙な境界線上の問題となります。毛皮/皮革製品は驕奢品市場で相当に流通していますが、生物の皮を剝ぐという行為は相手が人間であればかなり異様な残虐行為とみなされるはずですから、それを動物に対して行うことは全く問題ないとは言い切れないでしょう。実際、近年は毛皮/皮革採取目的の動物殺を禁止ないし規制する国も出てきているということで、新たな潮流として注目に値します。

 

 おそらく最も多くの人が「やめなくてよい」と考えるのは、食用の動物殺でしょう。これにも、狩猟による場合と食肉産業による屠殺の場合とがありますが、いずれにせよ、人間は肉食習慣を持つので、食用の動物殺を全くやめることは困難です。
 しかし、近年は肉食習慣の強い欧米でも、菜食主義者が少なくないようです。その多くは健康志向の菜食主義でしょうが、動物愛護の観点からの菜食主義もあり得ます。その場合は動物差別克服の一助となります。
 実際、近年は人口増に伴う食肉不足や環境保護の観点からも、植物由来の肉など代替肉の製品化が試みられています。これはタンパク質を動物肉以外から摂取する新たな食習慣として注目されますが、動物愛護の観点からの代替策ともなります。
 

 とはいえ、畜産業は各国で重要産業でもあるため、その全廃は経済的な損失が大きく、進展しないでしょう。それを進展させるには、現在とは全く異なる経済システムを必要とするかもしれませんが、これは本連載の論題を超えます。

 

例題5:
[a]あなたは娯楽の競技や見世物で動物を利用すること(闘牛や競馬、動物サーカスなど)は禁止すべきだと思いますか。


(1)禁止すべき
(2)禁止しなくてよい
(3)禁止すべきものもある


[b]([b]で「(3)禁止すべきものもある」と回答した人への質問)禁止すべきと考えるものは何ですか(上例に限らず自由回答)。

 

[c]あなたは動物園という展示施設を廃止すべきだと思いますか。


(1)思う
(2)思わない
(3)わからない

 

 本例題は動物を殺さないまでも、様々な娯楽目的で利用することの是非を問います。実際、人間は様々な娯楽で当然のように動物を利用してきましたが、この場合は動物を大切な資産として飼育しているのだから、問題ないと言い切れるでしょうか。

 

 ただし、上例の中でも、闘牛などは最終的に牛が殺されるので、動物殺としての一面があり、闘牛習慣のある諸国では廃止論も近年盛んで、実際に廃止となった地域もあるようです。しかし、ゲームの規則上「殺さない闘牛」もあり得るので、それなら許されるのでしょうか。
 その点、競馬などは馬を殺すのでなく、競走させるだけですから、負傷引退馬の殺処分の是非はともかくとして、競馬廃止論はまだ極めて少数意見のようです。しかし、動物サーカスを含め、動物を特定の娯楽のために厳しく調教するということ自体をやめるべきという見方もありますが、これも現状では多数意見と言えないでしょう。

 

 まして、設例[c]で取り出した動物園に至っては、廃止論は極論として一笑に付されるかもしれません。ただ、かつての欧州ではアフリカで捕らえた黒人部族などを動物のように「展示」するということが公然行われましたが、こうした「人間動物園」は今日では当然に明白な人種差別となり、許されていません。
 しかし、動物を展示する「動物の動物園」は世界中で合法的であり、子供向け娯楽施設の代表例として、多くの人が一度は訪れた経験があるでしょう。「人間動物園」は悪だが、「動物の動物園」は問題ないという見方には、やはり人間優越主義が感じられます。
 

 ところで、現代の動物園は希少種の保存や繁殖という役割を担うようになっており、単なる展示施設ではなくなっています。これは生物種の多様性確保が国際的な環境課題となった現代における動物園の新たな存続理由と言えます。

 もっとも、動物園がそうした「希少動物保護繁殖センター」に転換するのであれば、あえて動物を展示する必要はあるのかが問われます。教育研究用ならともかく、大衆向けに有料で展示する必要性はあるのでしょうか。
 
 動物を展示するということは、人間の好奇心を刺激する動物を見世物として人間の娯楽に供していることになりますし、動物たちも多くの人間に「見られる」ことのストレスにさらされる可能性があります。
 そう考えれば、動物園廃止論も荒唐無稽の極論とは言い切れないかもしれませんが、もとよりこれはまだ方向性が定まっていない議論ですから、動物差別問題の中でも最先端と言えます。まずは結論を急ぐより、こうした問題を意識しておくことが最初の一歩となるでしょう。