差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

早幼児期における反差別原体験(下)

差別には、態度によるからかいのような非言語的な形態をとるものもありますが、これはかなり子どもじみたいじめの一種であって、“本格派”の差別ほど言語的な形で表出されます。その第一歩が、辞書にすら多数掲載されているようないわゆる差別語の数々です。

そうした差別語あるいは差別語を用いた差別言説を人はどのようにして習得するかと言えば、それは母語言語一般の習得過程と同じく、乳児期以来の言語習得によってにほかなりません。これは教科書による学習とは異なり、周囲の大人や年長の子どもらの話す言語を耳で聴くことを通じた聴覚的習得過程です。

こうした聴覚を通じた差別語の習得過程を「差別の刷り込み」と呼ぶことができます。人は成長の過程で、程度の差はあれ、そうした差別の刷り込みを経験しながら、差別行為を体得していきます。考えてみれば、これは恐るべきことです。と同時に、生まれつき差別主義者だったなどという人間は、ヒトラーのような確信的差別主義者を含め、一人もいないという事実は救いとなります。

そうであれば、早幼児期における反差別原体験として、前回見た同年代の他民族児や障碍児との交流という体験のほか、もう一つ、差別語をそもそも聴かないということが付け加わるべきことになります。このような体験は、交流のような積極的原体験に対し、消極的原体験と言えます。

早幼児期に差別語を聴かないという原体験の与え方は、本来簡単です。すなわち、周囲の人、とりわけ乳児が最初に言語的交流を持つ両親が差別語を子どもに聴かせないことに尽きます。ただし、そのためには、両親が意識的な反差別実践者である必要があります。その点、子どもが差別語を含む悪い言葉を初めに覚えてくるのは保育園や幼稚園からだというのは、狭い考えです。

たしかに、保育園や幼稚園に通い始めた子どもが差別語を覚えて使うようになるということは、しばしば見られます。これは、保育園や幼稚園で同級生や年長の“先輩”が使う言葉を模倣した結果ではあります。ですが、そうした差別語を使う子どももまた、周囲の大人、特に両親が使うのを聴いて習得したことは間違いありません。ですから、幼児の差別語習得を保育園や幼稚園のせいにだけするのは、狭い考えなのです。

両親が差別語を子どもに聴かせないようにするということは、早幼児期に限らず、子育ての全期間を通じて貫徹されなければならない要諦ではありますが、現状では、このことはかなりの難行となります。両親もまた、その親の世代から差別語を習得し、差別語が言語体系全般に伴って、世世代代、継承されているからです。

このような差別語の世代継承の連鎖をいかに断ち切るかは難しい問題ですが、これも結局は、反差別教育の意識的なプログロム化とその不断の継続を通じて、長じて子どもの親になった人それぞれが差別語を子どもに聴かせず、差別語の世代継承を断ち切る努力を継続する以外にないと言えるでしょう。

なお、これはここでの本題から逸れますが、およそ辞書を編纂する際、差別語の類をも公式の単語として掲載するという慣習を廃止することも、一考以上に値するでしょう。たとえ見出しに〈差別語〉のような注意喚起マークを添えたとしても、権威ある辞書が差別語を公式の単語として認証してしまうことは、反差別教育という観点からは問題がないとは言えません。

いわゆる俗語・卑語の類として存在はしていても、明らかな差別語は辞書に掲載する公式の単語リストから排除するという新たな辞書編纂方針が確立されることを期待しましょう。このことは、言語教育という早幼児期を越えた次なる段階における反差別教育の方法論とも関わってきます。