差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

成人向け反差別教育の地平線

年末以来、成人向けの反差別教育の可能性如何という次なる問題に考えを巡らせていたところへ、オリンピック・パラリンピック組織委員会森喜朗会長が女性差別発言を批判され、辞任に追い込まれるという「事件」が起きました。ご本人は「差別的意図はなかった」「意図的報道があった」と釈明して収拾を図ったものの、今度ばかりは通用せず、辞任に至ったようです。

「意図がなかった」とか「真意が伝わらなかった」(「意図的報道」もその趣旨でしょう)という弁明は、差別者がする弁明として世界共通ですから、珍しくありません。差別かどうかは意図とか真意といった主観で決まるものではなく、客観的な言説内容として差別的かどうかで決まるので、こうした弁明が通用しないのは当然です。

ここでは森氏の発言自体を解析することは本題に外れるのでしませんが、森氏は会合での長い挨拶の中で、氏の認識によれば女性のメンバーが多いスポーツ関係の理事会は女性メンバーが次々と発言を求めて時間がかかるとして否定的にとらえ、特に文科省が競技団体の女性理事の割合を4割とする目標を課すことを批判しているので、全体として、女性差別的な発言と解釈されます(発言全文はこちら)。

たしかに女性をあからさまに蔑視しているとは言えませんが、政治を含め、あらゆる組織構成のジェンダー平等を実現することが国際課題となった現代では、あまりに守旧的な発言に過ぎたようです。オリ・パラ組織委は国内団体でありながら世界と直結する特殊な団体であることも、こうした発言が許されなかったゆえんでしょう。

とはいえ、当初、国内では森氏を擁護する声が強く、批判に対する開き直り的な激しい反論も見られたようです。日本社会では、森氏に共感するような認識を持つ人が少なくないことを示唆しています。ここで、成人向けの反差別教育という本題につながってきます。

森氏自身を含め、差別的価値観を体得してしまっている成人は多くいます。以前から指摘しているとおり、筆者も含め、大半の人が何か一つくらいは差別的偏見を抱懐しています。昨年展開したような幼少期からの反差別教育が行き渡れば、この問題は解消しますが、そうでない現状、成人向け反差別教育というものが果たして可能なのでしょうか。具体的に言えば、83歳になる森氏のような人を教育し直すことは可能なのかどうかという問題です。

この問題は、成人期における知性の発達如何という観点からとらえる必要があります。その点、人間が生涯に獲得する知性を「流動性知性」と「結晶性知性」とに分けて考えると整理しやすくなります。(なお、この二つの対概念は、文献上しばしば「流動性知能」「結晶性知能」と記されていますが、「知能」という用語はやや即物的で狭いので、ここではより広めに「知性」と言い換えることにします。)

流動性知性」とは、新しい環境に適応するために、新しい情報を獲得し、それを処理し、操作していく知性と定義され、具体的には処理の速度、直感力、法則を発見する能力などを含みます。

他方、「結晶性知性」とは、個人が長年にわたる経験、教育や学習などから獲得していく知性であり、言語能力、理解力、洞察力などを含むとされます。

両者の関係性として、いずれの知性も成長過程で伸長するが、「結晶性知性」は成人以降も上昇し、高齢になっても安定している一方、「流動性知性」は10代後半から20代前半にピークを迎えた後は低下の一途を辿るとされています。
 
問題は、反差別教育を通じて獲得される反差別的価値観とその実践能力が、流動性、結晶性のいずれの知性と関わっているかです。昨年度の考察で見たように、反差別が幼少期からの非言語的な体験学習教育を原点として体得されていくべきものだとすれば、これは「流動性知性」に属する能力になります。

同時に、抽象的な認知力が高まる少年期以降、言語を通じて抽象化された差別の概念について学習する過程で反差別的価値観を形成し、それに基づく意識的な実践能力が身につくという最終的な段階では、「結晶性知性」にも及ぶことになります。

そうすると、反差別教育は流動性及び結晶性双方の知性の涵養にまたがる教育ということになり、いずれか一方のみでは完結しないと言えそうです。だとすると、流動性知性のピーク時までに反差別教育を受けなかった人が、成人後に結晶性知性に働きかける反差別教育を受けても限界があるのではないかという悲観的な結論に到達します。

それでは、成人向けの反差別教育の余地はもはやないのでしょうか。当講座ではそうした悲観を封印して、何とか成人向け反差別教育の地平線と言うべき領野、ありていに言えば、森氏のような人に対する反差別教育の可能性を探っていきたいと思います。