差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

差別、差別、差別、差別

今度は、ユダヤ人差別を理由とする東京五輪大会関係者「解任」である(毎日新聞速報)。大会一日前の総仕上げであろうか、これで、差別関連辞任/解任ドミノ四連発。

前回も記したとおり、反差別を謳う五輪憲章(根本原則)に照らし、これほど差別者を続々と組織委に起用してきた日本―他にも伏在している可能性を否定し切れない―には、まさしく根本的に五輪を開催する道義的資格がない。感染者急増状況の中、パンデミック理由での中止論も改めて高まっているが、差別ドミノ四連発も十分に中止理由となる。

*オリンピズムの根本原則6: このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、 国あるいは社会的な出身、 財産、 出自やその他の身分などの理由による、 いかなる種類の差別も受けることなく、 確実に享受されなければならない。

今般の四例目は、23日の開会式で演出を担当する小林賢太郎がかつてお笑い芸人時代に、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)を揶揄し、コント映像内で「あのユダヤ人大量惨殺ごっこやろうって言った時のな」などと発言していたことに対し、アメリカのユダヤ系の人権啓発・監視団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が21日、「反ユダヤ主義の発言」として非難する声明を発表したことが発端となっている。

ホロコーストをめぐっては、そもそもその事実を全面否定するという反ユダヤ主義の差別言説も古くから欧米やイスラーム圏などで流布しており、日本国内にもその追随者がいると見られるが、今回の問題はこうしたホロコースト否認論ではなく、「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」という言い方でホロコーストを揶揄したというもので、発話者(小林)がホロコースト否認論者かどうかは明らかでない。

いずれにせよ、およそ大虐殺という反人道的事象を「ごっこ」というような言葉で遊戯的にとらえることは、ある意味では、自説としてホロコースト否認論を展開する以上にたちが悪いとも言え、単なる不謹慎を超えた冒涜的な言動である。*発話者が「大量虐殺」とか「大量殺戮」とは言わず、「大量惨殺」と量的にいささか矮小化して表現している点も意味深長ではある。これは犠牲者数を少なく思わせ、出来事を矮小化する意図を込めた言い換えなのか、単に知識不足による稚拙表現なのかは不明。

さらに言えば、この件が表面化した際に毎日新聞の取材に答えた大会関係者(匿名)のコメント「西洋の価値観と真っ向からぶつかる発言でメガトン級。五輪が潰れかねない。小林氏をやめさせるだけでは済まず、選手入場だけにするなど開会式全体の演出を変える必要がある」は、まさに日本社会における差別問題のとらえ方の一つの典型を示している(参照記事)。

特に「西洋の価値観とぶつかる」という部分。民族大虐殺のような究極的な差別事象はお笑いネタにすることを含め、およそ揶揄することを許さないという厳格な倫理規範を「西洋の価値観」と限局しているのである。裏を返せば、「東洋の価値観」あるいは「日本の価値観」とはぶつからないという言外の含みがある。

このような差別感度の低さは、この「大会関係者」固有のものでなく、日本国民にかなり共有されているであろううえに、ホロコーストの意味を十分知っている国民がどれだけいるかも疑わしい中、今般の解任劇を十分了解できる人はそう多くないのでないか。今回は、前の三例とは異なり、海外からの指摘・抗議が発端であったことをとらえて、中には海外のユダヤ人団体の圧力に屈したといった被害的なとらえ方をする向きもあるかもしれない。*[追注]日本国内からの通報があったという情報もある(参照記事)。となると、通報者をある種の“密告者”として非難するような形のバックラッシュも今後、想定されるかもしれない。

さらに、問題を「五輪が潰れかねない」という五輪開催への影響という狭い観点だけでとらえ、当事者をやめさせたうえ、「開会式全体の演出を変える」といった糊塗で乗り切ろうとするところも、問題を根本的にとらえず、当面の対策レベルに矮小化させる日本式の対処法と言える。

別の組織委関係者の反省の弁「この五輪が呪われているどころの話ではなく、これまでの準備が根本的に間違っていたのではないか」も、準備過程での人選問題に矮小化しようとしている。

そもそも、種々の差別的価値観が横行し、差別克服の意識的努力も十分行ってこなかった日本―それがこのような差別ドミノの主因である―には、1964年当時ならともかく、少なくとも2021年時点における五輪を開催する資格そのものが欠けているのである。
[追記]
解任後に小林賢太郎が発表したコメントを見る限り、自身が反ユダヤ主義者でなく、問題となった発言にも反ユダヤ主義の意図はなかったということは明言されておらず、「人に不快な思いをさせ(た)」「愚かな言葉選びが間違いだった」というレベルの漠然とした反省の弁にとどまっているのは、問題である。
反ユダヤ主義言説とみなされて国際的に抗議された今回の一件では、このコメントもさしあたりは英訳されて世界に出回るはずであるので、結局のところ、小林は反ユダヤ主義者でないことを明言しなかったという点が強調されるだろう。実際、このコメントだけでは彼が反ユダヤ主義者でないということは証明できない。
コメントはそもそも問題が重大視されず、同情論も少なくない日本国内では容認されるだろうが、国際社会では彼が日本人の反ユダヤ主義者として「認定」されてしまう危険をはらんでいる。本人にそうしたことを助言できる側近者等はいなかったのだろうか。