差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

差別、差別、差別

女性差別、容姿差別に続き、障碍者差別と、東京五輪組織委関係者の差別理由での辞任三連発という異常事態である。2021東京五輪パンデミック下での強行開催という悪しき前例であるとともに、差別辞任ドミノの点でも恥ずべき前例として後世に記憶されるであろう。
 
別種の不祥事による辞任ドミノならまだしも、差別関連理由のドミノでは、根本原則の一つとして反差別を謳う五輪憲章にもとっており、そもそも日本は五輪を開催する道義的資格を喪失していると言って過言でない。
 
まして、今回の小山田某の過去の行状は、先行の森喜朗、佐々木宏を加えた辞任三人衆の中でも最も悪質性の高いケースであり、「全裸にしてグルグルにひもを巻いてオナニーさしてさ。ウンコを喰わしたりさ。喰わした上にバックドロップしたりさ」(本人談)といった所業はもはや巷間で言われているような「いじめ」のレベルを超え、性的な凌辱を含む陵虐と言えるケースであり、その一部は犯罪行為に該当する可能性もあるものである。
 
障碍者五輪でもあるパラリンピックを連続開催することが慣例化している現在、どう弁解しようと、障碍者を陵虐した過去を持つ人物、しかもその内容を自ら吹聴さえしていた人物を起用したこと自体、憲章違反であり、開催資格がないと断じてもよいだろう。

それにしても、辞任三人衆は嫌でも国際的に注目を引く組織委の関係者に起用されていなければ、今も何食わぬ顔で政界、広告界、音楽界等の大物として大手を振るって歩いていたのであろう。たまたま内部や外部の指摘により発覚しただけであり、氷山の一角である。
 
日本社会では、あの種の人物が社会の各界で指導的地位に就いている可能性が高いということを想うと、空恐ろしい。差別に鈍感というより、差別者が社会の枢要な地位にいて、称賛すらされる社会であることを示したのだからである。平素は覆い隠されているそうした日本社会の暗部が、皮肉にも支配層が執着した五輪開催の過程で一部露呈してしまった形である。
 
驚くべきことに、今回のような悪質なケースでも小山田を擁護する声は少なくなく、組織委も当初、謝罪だけで留任させる意向であったところ、政府が圧をかけて辞任させたようだが、それも五輪や政局への影響を考慮しての糊塗であり、真摯な対応とは言えない。支援者に支えられて、小山田自身もほとぼりが冷めればいずれ復権するかもしれない。
 
実際、彼は1990年代に自らの所業を雑誌で吹聴していたのに、その後も問題化されることなく、今日までミュージシャンとしての名声を維持できたのだから、日本社会がどのような人物を称賛するのか、はっきりと示しているのである。今回の辞任も、小山田にとっては一時休養程度のことなのだろう。
 
ここまできて、このところ封印していた論説調の書き方になっていることに気が付かれるであろうが、今回は心に重傷を負った被害者(複数)が今も内外のどこかで存命中であろうことを考えると、謹厳さも必要と考え、久方ぶりに論説調で記すこととした次第である。
 
ところで、今般ケースでは、擁護論者もさすがに加害者の所業を擁護することはできないので、数十年前の未成年時の行為を理由に現在の地位を奪うべきか、と問うている。たしかに、未熟な未成年時の誤った行為のすべてが成人後に問われるというのは行き過ぎであろう。そこには線引きとなる判断基準が必要である。
 
これはなかなか難しい問題であるが、少なくとも、今回のような陵虐のレベルに達する行為は終生にわたって問題視されなければならない。これを否定することは、加害者と事後共犯関係に立つことと変わらない。
 
今般のケースとは異なり、障碍者をからかったとか、言葉で貶めたというような行為の場合は微妙であるが、こうした行為の場合は、成人後の現時点では過去の行為を真摯に反省・否定し、自らを恥じているのであれば、ある種の「成長免責」が与えられてもよいのではないだろうか。
 
ちなみに、陵虐レベルの行為であっても、現時点では反省・否定し、恥じている場合はどうか。ますます微妙だが、こうした場合は、被害者側も現在ではすでにゆるしているといったある種の和解的な状況が形成されているのであれば、「成長免責」される余地はあるかもしれない。
 
その点、小山田はどうなのだろうか。現時点では会見もせず、短い辞任コメントのみで、その内容も謝罪の定型文にすぎず、過去の所業を反省・否定する気配はない。被害者側のゆるしも見られないどころか、一部情報によると、被害者の一人は家族との会話も困難になり、現在も社会復帰できない状態にあるとされる。到底、「成長免責」は無理である。*数々の犯罪的陵虐行為を当時、当事者が在籍していた学校が放置していたり、認識してもいなかったとすれば、学校の無責任も改めて問われよう。
 
ところで、如上の陵虐行為や自身のそうした行為を吹聴したうえ、「僕っていじめてる方なのかなあ?自分じゃ分かんないっていうか。全然こう悪びれずに話しちゃったりするもんね」(本人談)といった罪悪感の欠如をも示唆する小山田の言動は、彼自身が何らかの精神疾患なりパーソナリティ障害なりの心の問題を抱えている人物ではないかという疑問も生じさせるところである。
 
これについては情報不足で、正面から議論できる状況にないが、もしそうだとすれば、彼は差別の加害者であると同時に、被差別者ともなり得る両義的立場にあるということになる。現時点で先走った議論はできないが、差別は糾弾されるより、克服されるべきものという当講座の趣旨からは、差別加害者側の抱える問題も公平にとらえていくことになる。
 
 
[付記]
在韓日本大使館で大使に次ぐ地位の相馬弘尚総括公使が韓国メディアとの昼食会で、「(韓国の)文大統領(もしくは文政権)がマスターベーションをしている」という趣旨の性的卑語を含む発言をしたと報じられ、これが文大統領の五輪に合わせた訪日首脳会談見送りにも影響したともされる。
この件は差別問題とは一応別次元の事柄ではあるが、駐在外交官が駐在国の国家元首またはその政権を批判するに際して(それ自体外交上の禁忌だろうが)、性的卑語を用いるということは前代未聞ではないだろうか。このような言葉は、相手国あるいはその国民・民族を見下す意識が発話者の中にない限り発語されないはずであり、間接的な形で民族差別問題が介在しているように思われる。
それにしても、本文の小山田といい、件の外交官といい、性的自慰行為にまつわる卑語をためらいもなく人前で発する有力者が各界にそろっているようであるのは、どういうわけだろうか。かれらには最小限度の品格も期待できないということか。