差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

笑いと差別

先般終了した東京五輪の開幕直前、元お笑い芸人の関係者が20年以上前のコントでユダヤホロコーストを揶揄する表現を用いていたことを理由に電撃解任されるというハプニングがありました。「空前のメダル獲得数」の呼号の前にすっかり忘却されつつあるように見えますが、この件は、笑いと差別という普遍的かつ現在的でもある重要な論点を含んでいます。

笑うという人間特有の行為(チンパンジーのような大型類人猿も笑うとされますが、人間の笑いとは別次元の行動と思われます)は、何か滑稽なものや楽しいものを見たり聞いたりしたときの反応で、それには微笑、爆笑、苦笑、失笑、哄笑、嘲笑など、様々な種類がありますが、中でも嘲笑が最も悪意を含んだ笑いと言えます。

被差別者にまつわる何らかの特徴なり出来事なりを笑い芸の題材にする差別ネタと言われるものは、嘲笑に分類できる笑いであり、実はこの意味の笑いは、「嗤い」と書いて通常の意味の笑いとは区別すべきものですが、「嗤」という漢字が常用漢字外であるため、「笑」で代用されるようになり、字面では区別が難しくなってしまいました。

笑い芸で時に使われる差別ネタとは、実は「笑い」ではなく、「嗤い」のほうなのです。しかし、「嗤い」は果たして正当な芸と言えるのでしょうか。

その点、現代日本の笑い芸にも多大の影響を及ぼしてきたと思われる伝統的な笑い芸である落語に差別ネタは元来あるのかということが気になり、調べてみました。元来はないのではないかとの期待も虚しく、あることがわかりました。

ただし、それらは主に「めくら(盲)」とか「おし(唖)」などの障碍者を指す用語法の問題であって、実際に視覚障碍者や聴覚障碍者などの被差別者を見下し、嘲笑するというような噺の内容ではないのではないかとも思われるのですが、落語の中でも最も歴史の古い古典落語にはたくさんの演目があり、その全部を調べ上げることは到底できないので、この作業は別の方に委ねることにしましょう。

とはいえ、たとえ用語法の問題だとしても、そうした現代的規準に照らせば明らかに差別語であるものの使用を禁じたら、落語は成り立たなくなるという「心配」をする向きもあるようです。このような反論は、反差別の働きかけに対する抵抗反応という意味での反差別抵抗性の一つなのですが、この件については次回の稿を予定しています。

ともあれ、現代のコントや漫才などの笑い芸にしばしば登場する差別ネタというものは落語のような伝統的な笑い芸とは別筋から発祥したものではないか、というのが現時点での私見になります。それはむしろ、落語のように寄席で聴く舞台話芸に代わり、テレビ時代に登場した新しい話芸の中で生まれたのではないかという仮説です。

さらに言えば、差別ネタのような「笑い」ならぬ「嗤い」は芸のうちに入らないと考えます。笑いを芸にまで高めるには高度なユーモアのセンスが必要ですが、「嗤い」はそうしたユーモアのセンスの欠如を示しているのです。真のユーモア・センスがないから、被差別者をあざけることで安易に「笑い」ならぬ「嗤い」を取ろうとする。

そのような安易な似非笑い芸は、まさにテレビ時代、とにかく瞬間的に視聴率を取ることを至上命題とするテレビ番組が横行する風潮の中で生み出された商業主義のあだ花なのです。従って、差別ネタを一掃する究極の策は商業主義を廃することです。それが無理なら、強力な反差別規制制度を要することになりますが、それは強力な反差別抵抗性に直面するでしょう。

ところで、近年は被差別者が自分自身をある種の笑い(嗤い)ものにすることで、結果的に差別解消を目指そうというような逆転の発想も一部で見られます。最も簡単な例として、視覚障碍者が自身を「めくら」と自称し、視覚障碍にまつわる冗談を言って人を笑わせるような場合がそれに当たります。自虐ネタと言ってもよいでしょう。

たしかに、いつも真面目くさって反差別など唱えていたら―まさに当ブログのように?―、かえって世間から敬遠されてしまうから、もっと肩肘張らず軽い調子で理解を浸透させた方が効果的ではないか━。被差別当事者自身がそう考えても無理はありません。

そうした当事者自身の新機軸をむげに否定するつもりはないのですが、自分自身を笑い(嗤い)ものにするというのは一種の自己差別であって、それも差別を助長する要因の一つとなることにも注意が必要です(拙稿)。

ただし、そうした懸念すべき自己差別とは、例えば、自分の容姿に過剰な劣等感を抱き、美容整形を繰り返すといった無自覚な自己差別の場合であって、ある種の反差別戦略として自虐ネタを使うこととは次元が違う話かもしれません。

ただ、自虐ネタが定着してしまうと、その種のネタは当事者も容認しているのだという誤ったメッセージ効果を生み、当事者以外の人も使うようになって、所期の狙いに反し、かえって差別を助長してしまう恐れもあるということは指摘しておきたいと思います。いずれにせよ、当事者以外の芸人による差別ネタが芸能を理由に免責されてはならないことに変わりありません。