差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第20回)

レッスン2:障碍者/病者差別(続き)

例題3

寝たきりで完全介護が必要な障碍者を見ると、かわいそうだと思いますか。


(1)思う
(2)思わない


 具体的な状況での対処に関する練習であった前回の例題とは異なり、今回はより一般的な問題について考えてみる練習になります。例題3は、最近はさほど珍しくない自立した障碍者ではなく、寝たきりで完全介護が必要な最重度の障碍者に対する見方を問うています。
 
 その点、今日では障碍者を無条件に劣等視するような露骨な差別意識はさすがに克服されていると信じたいですが、重度障碍者を見て「かわいそうだと思う」感覚はまだ根強く残っているのではないでしょうか。
 「かわいそうだと思う」ことは、一見すると人道的な共感のようですが、決してそうではありません。「かわいそう」(可哀そう)というのは、健常であることを優等的とみなしたうえで、哀しむべき障碍者に憐憫の情をかけることですから、理論編で見たように、被差別者に利益を与える―この場合は、憐みという感情的な利益―利益差別の一類型に当たります。
 
 では、「かわいそうだとは思わない」とはどういうことでしょうか。当然ながら、障碍者を蔑視するということではありません。ここでの「かわいそうだとは思わない」とは、障碍を何ら特別視しないことを意味しています。
 私たちは先天的でなくとも、後天的な病気や負傷が原因で寝たきりの重度障碍者となる可能性を持っています。そういう意味で、障碍とはすべての人が潜在的に持つ状態です。
 その潜在的な状態が現実化してしまったとき、それはその人にとっての試練となることはたしかです。信仰者ならば障碍を神に与えられた試練として受け止めるでしょうし、無信仰者でも自然の理が生じさせた試練として受け止めることができるでしょう。
 近年、英語圏障碍者のことをザ・チャレンジド(the challenged:試練を受けた人)と呼ぶようになったゆえんです。かつて障碍者は、英語でザ・ハンディキャップト(the handicapped:ハンディーを持たされた人)と呼ばれていましたが、障碍はもはやハンディキャップですらなくなったわけです。
 
 もっと進んだ人は、障碍とはハンディキャップでも試練ですらもなく、一つの個性だとより積極的な意味づけをしたいかもしれません。「障碍とは一個の個性である」という標語は、理論編でも見たように、被差別者自身の劣等意識を克服するための自己治療法の一つとしてとらえることもできます。
 とはいえ、例題のように「寝たきりで完全介護が必要」という重度の障碍をもって「個性」とみなすのはいささか酷な感を否めないかもしれません。もちろん、当人あるいは家族など周囲の人々が重度障碍を「個性」と認めている限りにおいては、余計な心配ではありますが。

例題4:
[a] 出生前に胎児の障碍の有無を判定する出生前診断は、倫理的に許されないと考えますか。

 

(1)考える
(2)考えない

 

[b] ([a]で「考えない」と回答した人への質問)あなたに子が生まれることになったとして、出生前診断で胎児の重大な障碍が明らかになりました。あなたは妊娠中絶を希望しますか(父親の場合は、パートナーに中絶を求めますか)。

 

(1)希望する(求める)
(2)希望しない(求めない)

 

[c] ([b]で「希望する(求める)」と回答した人への質問)妊娠中絶を希望する(求める)理由は何ですか(自由回答)。


 出生前診断の倫理性をめぐっては難しい議論があります。この診断は、かつて優生学的な見地から行われた障碍者に対する強制断種のように、障碍者の子孫を根絶やしにすることを目的とするものではなく、あくまでも胎児の障碍が発見された限りで、出産するかどうかを胎児の親の判断に委ねるものですから、生身の障碍者の人権を直接に侵害するような医療技術ではなく、また(通常は)国レベルの施策でもありません。
 
 しかし、出生前診断が産科医療の定番となり、しかも障碍が発見された場合は原則的に中絶する流れができていくと、そもそも先天的な障碍者がほとんど出生しなくなるということも考えられるわけで、これでは先天性障碍者の存在価値を否定するに等しい究極の差別ではないかとの疑念も生まれます。すると、そのような差別的医療技術はそもそも法的に禁止すべきだとの見解もあり得るところです。
 
 その一方で、妊娠中の女性にとって自身が懐胎した胎児の状態を知ることも、一つの「知る権利」と言えます。かつては胎児の状態を正確に知ることは不可能でしたが、今日では超音波などの検査技術の進歩により、胎児の状態を正確に把握することができるようになったため、妊婦の「知る権利」の一環としての出生前診断を全面禁止とすることも困難になっているわけです。これは現代における生命倫理学上最大級の難問と言えますが、その解決は本連載の主題を超えるため、結論は保留としておきます(現時点における私見は、拙稿1拙稿2)。
 
 ただし、一つ言えることは、国などの公権力が障碍児教育・障碍者福祉の経費を節減する目的で、出生前診断とその結果に基づく中絶を奨励するような政策を採用するならば、それは差別的施策として許されないということです。また、医師その他の産科医療関係者が、出生前診断とその結果に基づく中絶を個別的に奨励したり、示唆したりすることも、許されません。中絶するかどうかは、完全に妊婦(及びそのパートナー)の任意な倫理的判断に委ねなくてはなりません。

 では、仮にあなたが出生前診断自体は倫理的に受け入れているとして、いざ自分の子である胎児に重大な障碍が見つかった場合にどうするかというのが[b]の質問です。
 この場合、中絶を希望する(求める)という人が多いかもしれません。ただし、日本では法律上、胎児性障碍のみを理由とする中絶は認められていません。従って、日本の現状、この質問はあくまでも「希望」を尋ねるだけで、実際に中絶するかしないかという問題ではありません。
 
 そういう前提で、中絶を希望する(求める)理由は何でしょうか。もし「障碍児は嫌だから」といった理由だとすると、障碍を劣等視する差別的な希望ということになってしまいます。また「生まれてくる子がかわいそうだから」というような理由も、例題1で見たとおり、差別的です。
 これに対して、「障碍児を育てることは精神的・経済的に困難だから」という理由だとすれば、いちがいに差別的とは言えなくなってきます。障碍児の療育・福祉の制度が不備で、偏見も強い社会風土が放置されている限りにおいては、実際、親が障碍児を育て切れないということも十分にあり得るからです。
 
 おそらく、障碍者全般を取り巻く環境が変革されていけば、多くの人が障碍児を産み、育てることをごく自然に受け入れるようになるでしょう。その意味で、この問題は障碍をめぐる〈反差別〉の全体状況と密接な相関関係にあると言えます。