差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第37回)

レッスン7 知能差別

レッスン7では、差別の三丁目一番地に当たる知能差別に関する練習をします。

 

例題1:
[a]あなたは、「知能指数」という指標を信頼しますか。

 

(1)信頼する
(2)信頼しない

 

[b]あなたは、人種により知能レベルが異なると考えますか。

 

(1)考える
(2)考えない


 レッスン7から9までは、広い意味で「能力」に基づく差別を取り上げますが、現代社会は能力主義の社会でもあり、かつては生まれついた身分によって人の一生が決定されていた身分制社会は、多くの国で程度の差や例外はあれ、過去のものとなりつつあります。
 そのため、能力による差別は、むしろ公正な社会的選別として正当化されがちです。中でも、知能という指標は能力主義において最も基礎的なものとみなされていますから、多くの人は、一度はどこかで知能検査を受けたことがあるでしょう。

 
 その際、科学的な次元で人間の知能レベルを判定する指標として、「知能指数」(IQ)という概念が普及しています。IQは知的障碍の診断基準としても使用されるため、レッスン2で扱った障碍者差別にも関わってくる概念です。実際、「頭が悪い」という意味を込めて「○○はIQが低い」といった表現をすることもあり、IQ自体は心理学・医学の術語でありながら、差別的文脈で用いられることがあり得る言葉です。
 
 IQは正式の心理学的・医学的な検査によって測定される指標ですから、一応客観性のある数値とみなすことは許されるでしょうが、それをどこまで信頼するかは大きな問題です。
 知的障碍についても絶対的な定義は存在せず、IQだけで形式的に知的障碍者かそうでないかをふるい分けることもできません。IQはそれが著しく低い場合は知的障碍を疑う必要はありますが、その場合も、IQは知的障碍を早期に発見し、適切な療育を施してその人の可能性を最大限に導き出すことができるようにサポートしていくための一つの目安として活用されるべきであって、決して「知能の高い者」と「知能の低い者」とを選別し、後者を劣遇するための道具として利用されるべきではありません。

 ちなみに、[b]に示されるように、知能は人種と関わりがあるという考えも、古くからあります。特に黒人は知能が低いという考えは、白人優越主義者の多くが信奉していると見られ、まさに優越主義の根拠ともなっているのです。
 しかし、知能が人種の別に依存することを証明する科学的な定説として広く承認された研究結果は存在せず、そのような人種別知能という考えは、まさに人種差別そのものである劣等視の産物なのです。
 そもそも、主として肌色―それ自体も曖昧かつ不正確な基準ですが―に着眼した人種という概念自体が曖昧で、精密なゲノム解析の時代にはそぐわない疑似科学概念と呼んでもよいものですから、人種と知能を結びつけた研究の科学的前提そのものが疑われます。

 

例題2:
あなたは、学業成績や学歴は生まれつきの頭脳の良し悪しに関係していると考えますか。

 

(1)考える
(2)考えない


 知能検査で測定される知能とは別に、学業成績やその到達点としての学歴を通して評価される概念として「学力」があります。
 こちらは〝勉強〟という知的努力によって獲得される能力というイメージが強いですが、一方で、学業成績の良い人や学歴の高い人に対する「頭が良い」という反面差別的な評価や、逆に「自分は頭が悪いから進学をあきらめる」といった自己差別的な言い方にも見られるように、いわゆる「学力」に関しても、先天的な「頭脳」の良し悪しが関わっているという認識は社会一般に存在しています。
 

 ここでの「頭脳」という観念は、知的な側面における天賦の能力を表していますから、それが遺伝的な産物としてとらえられる限りでは、血統・世系による差別につながる概念であるとも言えます。
 しかし、実際のところ、「学力」は一定の知能を前提とした知的訓練の成果を示すものであって、通常は入学試験や資格試験等々の各種試験における得点として数値化された指標にすぎません。
 

 能力主義を標榜する現代社会にはそうした「学力」を測定する各種の試験制度が林立しているわけですが、その点、日本社会では諸外国にもまして試験の意義が過大評価されがちで、試験結果が人間の頭脳のレベルを判定する決定的な尺度であるかのように信奉されているため、人生前半の早い時期―さしあたりは義務教育を修了する15歳頃―に、専ら試験の点数によってふるい分ける能力差別システムが強固に定着してきました。そして、その結果として、学歴が人生のパスポートとなる「学歴社会」が形成されてきたわけです。
 
 ところが、そのような社会では学歴が形式的な能力証明と化してしまうため、かえって実質的な能力よりは試験の合格証書という書面が幅を利かせ、かえって反能力主義に転化してしまうという皮肉な現実があります。言わば、学歴がある種の「身分」となり、前近代社会における生まれによる身分と類似の機能を果たしているのだとも言えます。そうした観点からも、「学力」の扱い方に関する見直しが必要でしょう。