差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

愛/結婚と差別

前回まで、差別とパーソナリティの関係について見ましたが、ここで、再びエリクソンの発達段階論に立ち戻ってみます。エリクソンによれば、人間の発達段階上、20歳から39歳までを「成人期」とし、ここでは「愛」が最大の発達課題となるといいます。

たしかに、20代から30代までのいわゆる若年成人期には、肉親ではなく、それまで知らなかった第三者との愛を経験することが増えるでしょう。しかし、差別という観点から見ますと、この愛という普遍的な課題が曲者です。

「恋(愛)は盲目」という格言にもあるように、愛はしばしば理性や常識を逸脱してしまいます。しかし、それだけでなく、「偏愛」という言葉もあるように、愛には本質的に差別が含まれます。つまり、愛とはある特定の人だけに好意を抱く感情ですから、愛の対象者を特別に優遇し、反対に愛の非対象者を不当に劣遇するということになりやすいのです。

その点、日本語の「可愛い」という言葉は、これを漢字で表記するのは当て字だとされていますが、「愛することが可能」という意味にとれば、言い得て妙です。「可愛い」の裏には、愛することが不可=「不可愛い」(?)という感情も隠されているだろうからです。

「愛は差別を助長する」と断言するのは大胆すぎるかもしれませんが、少なくとも、愛という感情は公平性とはうまく両立しません。愛には必ず、何らかの形で不公平なえこひいきが付いて回ります。

もし徹底して万人に対して公平であろうとするなら、特定の個人に対する愛=個人愛という感情を超えて、人類全体を愛する人類愛に昇華させるしかないでしょう。このような人類愛は理念としては高調されながら、実践することが困難なのは、通常は個人愛が人類愛に勝ってしまうからです。

ただ、複雑なのは、個人愛が差別克服的に作用することもあり得ることです。例えば、個人愛が人種の別を超えるような場合です。かつて黒人を差別する人種隔離政策を採っていたアメリカ南部諸州や南アフリカ共和国では異人種間の結婚が法律で禁じられていましたが、そうした差別的立法を超えて、異人種間で愛をはぐくむ人たちもいました。

より身近な例では、非障碍者が重い障碍のある人を愛するような場合も同様です。そこから万難を排して結婚にまで進めば、通常は重度障碍者にとって大きなバリアが立ちはだかる結婚が差別克服的に開かれることになるでしょう。

こうしたケースでは、「愛は差別を超える」と言うことができます。先ほどは愛は差別を助長するかのように言いましたが、一体どちらが真理なのでしょうか。これは答えることが難しい問いですが、結婚に連なる愛は程度の差はあれ、差別との結びつきを免れないように思われます。

それに対して、結婚とは区別された愛であれば、差別克服的に作用する可能性があります。異人種間結婚が禁じられている状況下での異人種間の恋愛などはその代表的な例と言えるでしょう。また、身分制時代における身分違いの恋愛なども古典的な例です。ただ、こうした差別克服的な愛は、たいてい悲劇的です。

元来、結婚と愛情は別のものでした。かつての上流階級に見られた政略結婚や庶民層でも見合い結婚が主流だった時代、あるいは現代でもなお親が決めた相手としか結婚できない伝統を固守している民族などでは、「愛なき結婚」が成立します。むしろ、このような「愛なき結婚」こそが格式ある伝統的な婚姻です。

こうした「愛なき結婚」=格式婚では、結婚相手の選定に際して、身分や門地、人種・民族、障碍・病気の有無、職業の有無や内容などの条件要素が精査され、種々の差別的なタブーが生じます。結婚という制度自体が差別の表現となるのです。

一方、婚姻制度の格式が崩れ、いわゆる「恋愛結婚」が主流となった社会でも、結婚相手を見つけるに際して、容貌や体型のような外見を重視する差別的傾向は否めないでしょう。また、各自の価値観次第では、「愛なき結婚」の場合に匹敵するような条件要素が差別的に考慮されることもあり得ます(例えば、特定の人種・民族出自の相手は排除するなど)。

このように、結婚という制度は愛に基づくか否かを問わず、差別と密接に関連しています。人生において最大級のイベントとなる結婚が差別を助長し、維持することに寄与しているとも言えます。

それでは、差別克服のために、結婚制度そのものを廃止すべきでしょうか。この問いにイエスと答えれば、現在時点では極論とみなされるかもしれません。しかし、未来に視点を置くなら、結婚制度の廃止は排除すべきでない政策的切り札と言えます。