差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

差別とパーソナリティ(下)

前回は、差別とパーソナリティの関わりで、気分的な差別主義と結びつきやすい傾向を持つ病的パーソナリティである自己愛性パーソナリティ障害について見ました。これに対して、確信的差別主義と結びつくようなパーソナリティがあるかどうかということが、今回の主題となります。

気分的な差別主義から発する差別行為は、まさに気分的な気まぐれであり、そこでは差別がはっきりと思考されていないわけですが、確信的差別主義から発する差別行為は差別が人種理論なり優生学なり、その他何らかのセオリーとして思考され、それが行為者の信念にまで至っているのです。

そもそも確信というものは、各自がそれなりに思索を重ねて到達した確固たる信念ですから、それには一定の知性を必要とします。しかし、通常の確信ではなく、差別主義的な確信に至るには、一般的な知性のみならず、やはりそこにはある種のパーソナリティの介在がなければならないと思われます。

しかし、この場合のパーソナリティは自己愛性パーソナリティのような病的なものではなく、より正常域のパーソナリティです。その点、必ずしも差別主義という観点からのものではありませんが、ナチスに傾倒した人々の人格傾向を研究したアドルノらの提唱による「権威主義的パーソナリティ」の理論が参照されます。

権威主義的パーソナリティとは、簡単に言えば、指導者や上司・上官といった「上」の権威を絶対視し、それに服従しやすい人格傾向のことをいいます。こうした傾向を持つ人は、同時に、「下」の者を見下し、少数派を排撃しようとする傾向を強く持つとされます。そのような人自身が「上」の立場に立てば、自己の権威を絶対化し、独裁的に振舞おうとします。

アドルノと共同研究者らは、こうした権威主義的パーソナリティをスクリーニングするためのFスケールという検査法も開発しました。ただし、このパーソナリティは個人的な性格というよりは、もともと社会的性格と呼ばれる言わば集団的な性格、ある種の国民性として提唱されたものの一つです。

まさにナチスの牙城であったドイツのゲルマン系国民の集団的な性格として、このような権威主義的パーソナリティが濃厚に認められました。ナチスイデオロギー面での最大の特徴は、ホロコーストを惹起した反ユダヤ主義に代表される人種理論と、障碍者大量殺戮を惹起した優生学思想にありますから、そうした蛮行を正当化した権威主義的パーソナリティは、確信的差別主義の源でもあるわけです。

ちなみに、ナチスとは異なる形ながら強固な全体主義的軍国体制を築き、ナチスドイツとも同盟関係にあった戦前の日本にも、権威主義的パーソナリティが濃厚に認められるように思われますが、筆者の知る限り、日本ではこうした観点からの調査研究は行なわれていないようです。
ところで、権威主義的パーソナリティは差別行為の根源にある劣等感とどう関わるのでしょうか。この点については、権威主義パーソナリティの持ち主に共通して見られると指摘される無力感が注目されます。無力感は、無力な自分に対する劣等感と等価的です。そうした無力感=劣等感のはけ口として、権威への服従とともに、自身よりも劣等的とまなざされる者への差別意識が生じるのだと考えられます。

このような権威主義的パーソナリティが個人的性格を超えた集団的国民性であるとすれば、そうした国民性を帯びた国では、権威主義がある種の文化を形成している可能性があります。その場合は、差別克服のために、一国の文化ごと変革しなければならないというおおごとになるでしょう。
その点、アドルノらは権威主義的パーソナリティの反対概念として、「民主主義的パーソナリティ」というものを対置しました。しかし、「民主主義」とは、非常に広汎かつ多様な政治的解釈を許す概念であるため、あまりに漠然としていて、科学的な心理学の概念としては有効でないように思われます。
とはいえ、「民主化」されたと評される戦後のドイツや日本では、権威主義的文化も変革されたと言えるでしょうか。あるいはいまだ変革はなされておらず、別の形で保存されているだけなのでしょうか。こうした問いに科学的な答えを与えるためには、改めてFスケール検査の実施が待たれます。