差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

「多様性」と「反差別」

近年、「多様性」(diversity)という用語をよく耳にするようになりました。政府や自治体の政策上にもこのような用語が散見されます。その意味するところは文脈により多少異なりますが、最大公約数的には、人の採用や人事構成に際して、特定のカテゴリーに属する人に偏向せず、様々なカテゴリーに属する人をバランスよく配置すべきとする準則を指すようです。
このような準則が広く適用されることによって、従来であれば排除されていた被差別的カテゴリーに属する人たちの社会進出が促進されることが期待されています。そのこと自体は決して悪いことではありません。しかし、差別克服という視点で見たとき、果たしてこの「多様性」準則は妥当なものなのかどうか、疑問が生じます。
というのも、単なる「多様性」ということであれば、差別状況は温存したままで、形式的に「多様性」を確保するということも可能だからです。最も単純な例として、市民を1級から5級まで等級化し、差別する社会があると仮定します。そして、企業等が人を採用するに際して、募集人員の半数は1級市民から採用するが、残りを2級乃至5級市民から採用するとします。
この場合、新入職員の半数は1級市民で占められますが、残余は2級乃至5級市民に配分されるので、形式的には「多様性」が確保されています。しかし、市民を五等級に分けて差別する構造は温存され、2級市民以下は少数派として1級市民の残余の分配に与るにとどまります。
「多様性」という形式的な概念では、このような差別構造を根本的に克服することはできないのです。もっと言えば、「多様性」は差別とも両立できる概念です。だからこそ―と言えば、皮肉に聞こえるかもしれませんですが―、「多様性」という用語が便利なマジックワードとして近年花盛りなのかもしれません。
今年、多くの省庁や地方自治体で発覚した「障碍者雇用水増し問題」などは、「多様性」準則の形式性が単なるアリバイ作りの形骸化にまで悪性進展した不祥事と言えるでしょう。(ここには「障害者手帳」という日本特有の障碍者等級制度―それ自体も差別的な政策―の問題が絡んでいますが、本稿では検証を割愛します)。
もちろん、「多様性」概念に反対するわけではありません。しかし、「多様性」と差別状況の両立という罠を避けるためには、「多様性」に飛びつく前に、「反差別」(anti-discrimination)という視点を明確にしておく必要があります。
ここに「反差別」とは、文字どおり、差別に反対し、対峙することです。先の仮想的な例で言えば、市民を五等級に分けて差別化する制度に反対し、その撤廃を求めることです。ここでは話を簡単にするため、等級化の基準については脇に置いていますが、等級化の基準となっている何らかのカテゴリーがあるはずですから、そうしたカテゴリーを人の採否や人事構成の基準とすることを禁じなければなりません。
実際のところ、そこまで露骨に等級的な差別制度を擁している国は少なく、等級化はより漠然とした差別意識の上に立って、隠微に行なわれることがほとんどですから、「反差別」の実践は決して容易ではないのですが、それを乗り超えて行くことが、真の差別克服の道となります。
そうすることにより、結果として、「多様性」は―そうしたマジックワードをわざとらしく使用せずとも―自然に確保されていくのであり、「多様性」準則なるものは特に必要ないのです。その意味で、「多様性」とは適用されるべき準則なのではなく、「反差別」の不断の実践―そこにこそ、政策的後押しが必要です―を通じた差別克服という道の終着地なのだと言えます。