差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

人間の定義

障碍者施設襲撃事件からひと月。この間、五輪一色報道という恒例の悪習慣がはさまったため、事件に関する報道はすっかり消え、早くも忘れられようとしている。だが、事件が社会に、さらにはひとりひとりに突きつけた問いは不変である。その問いとは、人間の定義、すなわち人間とは何かである。
事件の犯人は、襲撃に際して、障碍者の障碍の程度を職員に聞き出し、重度の重複障碍者を標的に選び出していたことがわかってきている。彼の信念において抹殺すべき対象は障碍者全般ではなく、重度の知的障碍のためコミュニケーションが取れず、かつ身体障碍も合併し、日常生活全般の介助が必要な障碍者が想定されていたことになる。
彼や彼の共感者にとっては、そうした重度重複障碍者は、人間の定義に当てはまらないのである。かれらにとって人間とは健常者と同義であるが、おまけでもう少し広げても、健常に近い軽度障碍者までがギリギリの限度なのだろう。
実のところ、このように人間の定義を狭くとらえることは、あらゆる差別主義者に共通した思考法である。人種差別主義者にあっては、有色人種その他自身が差別対象と想定する人種は人間の定義にあてはまらない。もっと根源的に言えば、差別の一丁目一番地である容姿差別において、容姿の醜い者は人間の定義にあてはまらない。
その他にも、各自が差別対象と想定する種類の者を人間の定義から除外していけば、人間とは極めて限られた条件を備えたヒトだけを指す特殊概念となってしまう。反面、人間の定義に様々な条件を付加すればするほど、人間の定義から外れる「非人間」は拡大し、差別は広がる。
このような差別の道から脱却するためには、人間の定義を広く取り、人間とはおよそ生物学的にヒトであれば足りるとすることしかない。それ以外の条件は人間としての定義に一切関わりなく、人間であれば当然に生命体としての尊厳を享受することができる。
・・・そのことを頭では理解できても、コミュニケーションが取れず、寝たきりで、ただ存在するだけの人間は生きていても役に立たないのではないか?という疑問が浮かんでくるかもしれない。
役に立つことをことさらに重要視するなら、人間の定義に「役に立つこと」が付加されることになり、これも「役立たず」は排除抹殺するというある種の能力差別につながっていく。しかし、「役に立つ」とはどういうことか、掘り下げて考えてみてはどうだろうか。
考えてみれば、役に立つ/立たないは、人それぞれである。例えば、こんなブログを書き続ける筆者のような人間は、襲撃事件の犯人やその共感者にとっては「役立たず」であろう。しかし、差別問題に関心を持ち、真剣に考えようとする人たちにとっては、いくらかなりとも役に立っているだろう。
同じように、コミュニケーションも取れず、寝たきりで、ただ存在するだけの人間であっても、家族にとっては存在するというだけで十分役に立っているかもしれないのである。そのことに、他人が干渉する権利はない。
かく言う筆者も現在、コミュニケーションが取れず、施設にて全面的要介助の高齢親族を持っており、他人事ではない。あのような状態でさらに長生することの意味が頭をよぎることは、率直に言ってないではない。そういうときは、人間の定義という問いに立ち返るようにしている。
もっとも、財政吝嗇家はただ存在するだけの人間の世話に税金を投入することが許せないのだと言われるかもしれない。そういう吝嗇主義者は、自分ないし自分の身内がただ存在するだけの人間となっても、税金の投入に反対し続けるのだろうか。
税金を云々する思考においては、自身や身内が重度重複障碍者となる可能性は都合よく除外されているようにしか思えない。しかし、重度重複障碍は、先天的な病気のみならず、多発性外傷、脳卒中認知症その他の後天的な病気によっても、誰の身にもいつでも起こり得ることである。
それでも納得しない向きには、一つの格言を献上したい。「無用の用」。出典は中国古典老子の思想だが、これは先の「役に立つ/立たないは、人それぞれ」よりもっと先を行って、「役立たずにも何か役はある」という逆説である。人間の定義を考える上でも、最後の切り札となる名言である。