昨年末、予告しておきながら保留していた出生前診断をめぐる問題について、改めて論及してみたい。前回これを取り上げたのは、ある県の教育委員が県の予算や家族の負担を理由に、出生前診断を奨励すべきかのような発言をしたことに衝撃を受けてのことであった。
一方、今回、改めてこの問題を取り上げるのは、ほかでもない先般発生した障碍者施設襲撃・大量殺戮事件の衝撃からである。事件の犯人もまた、重度障碍者の存在は社会の「障害」であるとの確信から犯行に及んだとされる。
この両者の発想は、障碍者を社会にとっての「障害」とみなす発想の型において共通根を持ち、なおかつ犯人も大学で教育を学び、かつては教員を目指していたある種中途半端な「教育関係者」であり―画廊経営が本業の教育委員も然り―、差別思想を生じたきっかけがともに特別支援学校を見学したことにあるらしい点でも見事なまでに合致しているのである。
両者の相違は、片やそもそも障碍者が生まれてこないようにすることを望み、片や生まれてきた障碍者を抹殺しようとした点である。しかし、おそらくかの犯人も、ナチスとともに、出生前診断の普及には無条件に賛成するに違いないのである。そもそも先天性障碍者が生まれてこなければ、わざわざ殺戮しなくても済むからである。
まず、出生前診断とは、医学の技術的進歩に伴い、人体の内部の状態をリアルタイムで確認できるようになってきたことの必然的な帰結であって、現代的には容認せざるを得ない到達点である。
その点、一般的に患者が自身の体内の状態について知る権利があるのと同様、妊婦にも体内の胎児の状態を知る権利は認められなければならない。しかし、知る権利=中絶の権利ではない。知るということは、そこで一応完結するのであり、中絶すべきかどうかの判断は別である。
もしも出生前診断→障碍発見→中絶というストレートな流れを定着させてしまえば、まさに先天性障碍者が存在しないようにするという優生学的な手段となるのであり、たとえ中絶を個人の選択に委ねていても、正当化できるものではない。
従って、現行母体保護法上も、また将来、堕胎罪の規定を削除し、中絶を原則的に個人の判断に委ねるとしても、胎児の障碍のみを理由とする中絶を認めてはならない。となると、出生前診断は中絶とは直結せず、あくまでも妊婦が胎児の状態を知るための一つの手段という位置づけとなる。
ちなみに、海外での出生前診断に基づく中絶率には100パーセントから75パーセント程度まで国によってばらつきがある。この差が何に由来するのかは明確でないが、一つには診断後カウンセリングの充実度にあるのではないかと推定される。