差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

戦慄の障碍者施設襲撃事件

26日、相模原市で発生した知的障碍者施設襲撃事件は、死者数では戦後最悪の大量殺人事件と指摘されているが、問題は数ではない。障碍者だけを狙った殺戮という質の点でも、(おそらくは)世界史上初の最悪事件ではないだろうか。
 
報道によれば、犯人は「障碍者安楽死させるべき」などといったナチスばりの差別的な確信に基づいて殺戮に及んだとされている。ナチスが国家ぐるみで断行した蛮行を個人で―しかし安楽死どころではない、刺殺という最も苦痛の多い手段で―実行しようとしたという点で、極めて異常な事件である。
 
周知のように、近年は世界中で大量殺戮テロが吹き荒れる異様な情勢であるが、不特定多数の一般人を狙ったテロとは異なり、今般の事件は明確に障碍者だけを標的とし、施設職員は標的から除外するという慎重な選別を行なっている点でも、差別犯罪―ヘイトクライム―の性格が強い。
 
ただ、事件の全容解明はこれからであり、不確定的な断片情報もまだ少なくないが、今般の凶行は当ブログの問題意識も、ささやかな努力も、すべて踏みにじるかのごとき戦慄の重大事件であるため、現時点で入手可能な情報に基づき、ここで論及しておきたい(記事は必要に応じて事後修正する)。
 
それにしても、犯人が襲撃した施設の元職員だったというのも、衝撃である。施設在職中に差別思想を公言するようになったことから、退職させられたとされる。本来は小学校教諭志望だったとされることからすると、不本意ながら障碍者福祉の世界に入ったものの、仕事の厳しさに直面する中で、障碍者の存在そのものが「障害」であるという差別思想に短絡したものと考えられる。
 
犯人は、殺戮を“世界平和”のためなどとも吹聴していたようである。背筋の凍る異様な唾棄すべき発想のように思えるが、ナチスも同類の短絡思想に基づいて、国策として障碍者抹殺を実行したのである。どこまで自覚していたかは不明だが、犯人は日本のネオ・ナチと言ってよい。
 
問題は、このような事案がドイツでなく、日本で起きたことの意味である。当ブログでも指摘してきたように、日本は社会全般が差別に鈍感である。いまだ統一的な反差別法制もなく、学校での反差別教育も体系的に行なわれていない。
 
あえて穿った見方をすれば、今回の犯人の主張にある程度の共感を覚える人もいるのでは?とさえ思えてくる。 少なくとも、今回のような凶行は絶対に許してはならない差別の極点であるという確信を持つ日本国民がどれくらい存在するか、心もとない。
 
その点、2001年6月に、大阪で一人の男性が小学校に乱入し、児童・教職員を大量殺傷した事件と同種か、むしろ健常者の子どもたちを殺傷するよりは「まし」な事件だくらいに思われかねない面もなくはないが、かの事件と今回の事件の類似性は外形上のものにすぎず、内容上は全く異質的な事案ととらえるべきであろう。
 
今回の犯人が外国で、あるいは外国のネオ・ナチ系ウェブサイトなどに感化されたのでないとすれば、彼を作り出したのは現代日本社会の土壌である。この事実に、私どもは正面から向き合わなければならない。そして、なぜこのような犯罪が発生したのかについても、多角的な検証を必要とする。
 
ちなみに、近年の日本では、高齢者介護施設の職員が入居者を上階から突き落として殺害したとされる事件のように、元職を含む福祉職員がケアの対象者を殺害するという異常な凶行が続いている。世間的には最も崇高な奉仕であるはずの福祉の世界で何が起きているのか。賃金問題に矮小化せず、福祉の理念から福祉職の養成や採用のあり方にまで踏み込んだ検証も必要とされているだろう。
 
ところで、今般の犯人には、最近まで精神保健福祉法に基づく措置入院歴があった。病名はともかく、犯人も精神疾患を抱える精神障碍者だったわけであり、その点では彼自身、差別にさらされ得る存在であるということになる。差別は被差別者が他の人を差別するという形で連鎖していく点に恐ろしさがあるが、今般の事件もそうした連鎖差別の最悪的な事例かもしれない。
 
彼は今回の事件を起こしたことで、さらに凶悪犯罪者という烙印も押されることになる。以前の記事でも触れたように、凶悪犯罪者は「鬼畜」として憎悪・蔑視され、死刑によって社会から抹殺すべしという考えも根強く、死刑制度を強固に存置する日本ではこのような考え方が世論でも支配的のようである。
 
しかし、死刑制度の根底には、犯人と同様、社会の厄介者は抹殺すべしという差別思想が含有されている。大量殺戮を理由に社会的抹殺を正当化するなら、犯人と同類の発想に立つことになる。事件の残虐性に動揺するあまり、犯人への迅速な死刑要求運動が盛り上がるようなことがないよう、願うばかりである。
 
同時に、犯人の主張に共鳴する立場から、助命嘆願運動のようなものが出てきやしないか―。そんな懸念を多少なりとも抱かざるを得ない現状に、やり切れなさと当ブログの無力さも痛感するところである。