差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第9回)

五 国民国家と差別

 前回、様々な差別行為の類型をまとめる中で、私人による差別と公権力による差別の区別について指摘しました。 
 前近代までの差別は、ほとんどが民間で私人によって形成されてきた慣習的なもので、公権力が関わるとすれば、そうした民間の慣習的な差別に便乗したり、背後で扇動したりする程度でしたが、近代以降になると様相が変化し、公権力が意識的・政策的に差別を主導し、そうした差別政策を体制の支柱とする「差別の体制化」と言うべき政治現象すら生じてきます。
 
 そのような事態が生じた要因として、19世紀以降に欧米から始まる近代国民国家の形成が決定的ですが、その背景には差別を正当化する言説の根拠として引照されるようないくつかの学術的な思潮が同時期に生じたことがありました。それによって、差別そのものが言説的に練り上げられ、“近代化”されたのです。
 このような「差別の近代化」は、とりわけ人種/民族差別の分野で最も有害かつ悲惨な結果を惹起しましたが、同様の現象はその他の差別の分野にも程度の差はあれ生じています。

 

命題21:
近代的差別の主要な思想的源泉となったのは、優生学・公衆衛生学・近代経済学の三つである。

 
 「差別の体制化」の基盤を成す近代的差別の特徴は、もっともらしい言説を伴っているところにあり、それらは一定の思想的源泉を持っています。それが上に挙げた三つの“近代的な”学術思想です。
 
 この近代的差別の三源泉のうち、筆頭に挙げた優生学は、とりわけ人種差別や障碍者差別を正当化する根拠づけとしてフル活用されてきた、それ自体が差別志向的な“学術”です。
 優生学とは、有名なダーウィンが樹立した進化論をベースとして、ダーウィンの従弟に当たるフランシス・ゴルトンが創始した自然科学、というよりも一種の社会思想です。
 元来、ダーウィンの理論には人間を進化の上で優等者と劣等者に分けるモチーフが含まれていましたが、ゴルトンはこれに触発されて、社会の発展のためには人類の悪い素質の遺伝を避け、良い素質の遺伝を促進すべきであるとする選別思想を導き出したのです。
 当連載の初めに差別の定義の要素として、人間に対する優劣評価ということを指摘しましたが、優生学はまさに、人間の優劣評価に生物学的・遺伝学的基礎づけを付与しようとした点で画期的な意義があると信じられたのです。
 もっとも、学術としての優生学は差別の中核要素として指摘した劣等者への蔑視という「視線」を持たない中立的なものだという見方もあるかもしれません
 しかし、むしろそうであればこそ、差別の視線という主観的な要素に科学的な客観性の外観を与えるうえで、優生学は恰好の大義名分をもたらしてくれたのです。
 やがて、優生学俗流化された進化論としての「社会進化論」とも結合して、多様な劣等者を人為的に“淘汰”し、抹殺する政策にまでお墨付きを与えてくれる打ち出の小槌のようなものにまで俗流化されていきました。この優生学が近代的差別の三源泉の中でも最も大きな比重を占めているゆえんはそのようなところにあります。
 ちなみに、日本を中心に広く信じられている典型的な疑似科学の一種である「血液型性格分類」も、元をただせば俗流化された優生学に発しています。
 
 これに対して、二番目の公衆衛生学は近代医学の発達に相伴いつつ、疾病を予防し、社会全体に健康を保持することを目的とする政策的な学術です。
 この学術は優生学と論理必然の関係にあるわけではありませんが、社会全体の健康保持という観点から優生学にも医学的な基礎づけを与える役割を果たしたことは間違いありません。こうした公衆衛生学と優生学の結合を象徴する代表例として、日本では1990年代まで続けられていたハンセン病患者に対する強制断種を伴う隔離政策があります。
 さらに、より積極的な公衆衛生学固有の意義として、古来ケガレのように宗教的な浄/不浄の観点からとらえられていた事象の一部が医学的な衛生/不衛生という観点に置換されたことを挙げることができるでしょう。
 これによって、健康・健常であることが至上価値となり、病気や障碍は好ましくない劣等的な状態であるとみなされるに至ったのです。宗教的な浄/不浄は優劣の評価に関わらないのですが、衛生/不衛生には優劣関係があり、ここに病者や障碍者に対する医学の装いを持った差別の可能性が開かれてきます。
 
 最後の近代経済学はより広い文脈で資本主義経済とまとめてもよいものですが、これは前の二つの学術の土台を成す学術兼政策です。
 優生学は生かしておけば福祉的支出の増大につながりかねない要保護者を除去して、資本主義的経済社会の順調な発展に資するような優等者の安定的な出生・生存を確保することに奉仕する学術でしたし、公衆衛生学も一般的に疾病の予防を通じて最大限搾取可能な労働力の確保を可能にしてくれる学術でした。
 一方、資本主義自体も経済競争における優勝劣敗を通じて社会が発展していくとする社会進化論理論武装し、優生学との理論的な連絡関係を保っています。
 そればかりでなく、資本主義はあらゆる事物を商品化することを通じて、優劣関係を金銭価値で評価する尺度を作り上げてきました。このような商品化はモノばかりでなく人間にも適用され、労働者の価値も各自の労働能力に対する金銭=賃金評価として示されますし、人間それ自体も容姿を中心とした規格品的な基準によって査定される傾向を強めていきました。
 商品はそれ自体が、人間の優劣を経済的な計算可能性の観点から等級化していく際のイデオロギーなのです。

 

命題22:
近代国民国家は近代的差別の培養器としての役割を果たすこととなった。

 
 先に指摘したような思想的源泉を持つ近代的差別は、冒頭指摘したように、近代国民国家の形成に伴い、国民国家によって培養されていったのです。
 近代国民国家は、それまでの部族的ないし地縁的な共同体を解体して建設された人間の人工的な政治共同体です。この共同体はもはや部族的にも地縁的にもつながりのない烏合の衆を「国民」という抽象的な枠にはめ込んでまとめ上げる、まさに人工的な共同体なのです。
 人工的ではあるけれども、否、人工的であるほど、国民国家は初めから排他的であらざるを得ませんでした。その際、国籍という制度が第一の基準となって、外国籍の者=外国人が排除されることはわかりやすいですが、それだけでなく、人種的・民族的な排除も同時になされます。
 
 その点、最も早くに建国された国民国家にして、開かれた“移民の国”でもあるはずの米国が18世紀末の建国当初から、アメリカ先住民と黒人を国民の枠から排除し、帰化要件としても「自由白人」に限定するという政策を採用していたことには象徴的な意味があります。
 やがて19世紀になると、米国では移民法制上「帰化不能外国人」なるカテゴリーの下に中国人や日本人などアジア系の帰化を制限する規制が導入され、これが20世紀半ばまで続きました。
 また、黒人に対する人種隔離政策も南部諸州では1960年代の公民権法制定まで続けられました。さらに、19世紀のアメリカ先住民に対する絶滅を伴う強制移住政策の結果、生き残った先住民の末裔たちは今なお保留地と呼ばれる特別地域やその周辺で貧困のうちに暮らし、米国社会の最底辺層を成しています。
 同様に、日本でも大和民族優越主義のような民族差別思想の本格的な台頭は、明治維新後に誕生した日本初の国民国家大日本帝國」の成立以降のことでありました。
 
 一方、ナチスと結びつけて考えられやすい障碍者や遺伝病者に対する強制断種のような優生学的政策の導入は、国民国家が同時に国民の福祉のために財政支出を行う福祉国家の形態を取り始めるにつれて、福祉支出の節約を名分として、世界に広く普及していったのであって、決してナチスだけの専売特許ではありません。
 
 このように、近代国民国家は人工的な共同体であるがゆえに、その排他性にも独特の観念的な性格が加わり、優等善良な国民と劣悪不良な非国民との選別において、先に見た近代的差別を培養する容器のような役割を果たしてきたのです。
 ナチズムはそうした国民国家の中で培養された近代的差別を全開モードにして、少数民族障碍者、同性指向者等々、およそ劣等分子とみなされた集団の絶滅を実行するほどの暴走を示したのでしたが、ナチス国家の特異性はその差別政策の極限的な過激さにあったにすぎず、その本質は他の国民国家とも通低していると言えます。
 従って、ナチス国家は滅亡して久しいからといって安心しているわけにはいきません。国民国家はなお厳然として存続し、むしろその数が大幅に増加してきている以上、近代的差別の培養はより現代的な形態を取りつつ、なお続いているものと見なければならないからです。
 
 ただし、戦後、人種差別撤廃条約をはじめ、国際連合を中心とした国際的な条約体制によって国民国家を牽制し、差別克服へ向けた国民国家自身の努力を促す国際施策が進展してきていることは、一つの前進です。
 これとて、国連加盟の各国民国家が条約を批准しようとしない限りは手も足も出ないのですが、今日の国民国家は外国人の参政権を部分的に認める国もあるほど開放性を持ち始めていることも事実です。
 しかし、なお国民国家は各種差別と絶縁し切れていませんし、一方では上述したような国民国家内部での差別克服の努力に反感を抱く勢力が外国人・移民排斥を呼号する運動を興し、議会にも進出する動きが各国で見られます。こうした運動は政治的・経済的閉塞状況への大衆の不満を巧みに吸収して、さらなる広がりを見せる可能性も否定できないところです。