差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

「差別する自由」論批判

最高裁同性婚憲法上の権利と認めたアメリカの一部州で、結婚以外では同性愛者を差別することを合法化する対抗的差別法のような法律を制定する動きが出てきている。例えば、ミシシッピ州では州内事業者がLGBTへのサービス提供を拒否することが合法化された。
また、問題の所在は異なるが、ノースカロライナ州でもトランスジェンダーの人々が学校などの公共施設で、出生時の性別と異なるトイレやロッカーを利用することを禁止する法律が制定された。
後者の「トイレ規制法」は、全米の公立学校と大学に対して、トランスジェンダーの生徒·学生に、自身が認識する性別のトイレ使用を認めるよう義務付けたオバマ政権の通達ガイドラインへの反発として制定された対抗法だ。
このようなトランスジェンダー(セクシュアル)とトイレ使用をめぐる問題については、以前の記事私見を述べたところであるので、ここではスルーし、ミシシッピ法を取り上げてみたい。
ミシシッピ法のように法律が差別をバックアップするかのような法律の根拠は、信仰の自由に置かれている。さすがに差別そのものを正当化する開き直り論理では無理があるので、信仰を持ち出すのは米国流である。すなわち、性的少数者を忌避する個人の信仰の自由を擁護するためと宣伝されるわけである。
そこまで確固たる信仰心を持つ人が少ない日本ではなかなか制定しにくい法律であろうが、先般成立したいわゆるヘイトスピーチ対策法は、その適用範囲を極度に狭めたうえに、明確な禁止も罰則規定も見送られた。ここには、差別的表現も思想・表現の自由の行使だという主張への譲歩がある。
信仰を持ち出さないにせよ、「差別する自由」論は、同性愛をはじめ、倫理的・思想的な価値判断の対立を含み得る領域で差別を正当化する文脈では、しばしば登場する。しかしながら、「差別する自由」とは、差別以外の何物でもない。差別は人間が自由意志で為す所作であり、決して反射運動のようなものではないからである。
差別を禁止するとは、そうした「差別する自由」を封じることである。そのことは、差別する個人の正当な信仰なり信条、思想を奪うことを意味していない。差別に信仰や信条、思想の着ぐるみを着せても中身の差別は変わらないのである。
対抗的差別法はそれ自体、差別助長立法であって、憲法違反の疑いは濃厚である。また「表現の自由」を根拠とする差別禁止の緩和立法も、間接的に差別を維持・助長する恐れが強い。いずれも、反差別の観点からは、容認し難い悪法もしくは笊法である。