差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

続・「合理的配慮」への危惧

熊本・大分地震では、まさに今月施行されたばかりの障碍者差別解消法がいきなり災害時の障碍者対応という難題に直面したことは不運とも言えるが、実際のところ、新法は災害対応の現場で生かされたとは言えなかったようだ。
例えば、4月26日の時事通信は、自閉症など発達障碍を持つ子供やその家族の多くが、トラブルを恐れて避難所に入れず、車や自宅での生活を強いられ、配給の行列にも並べずに窮乏したことを報じている。
こうした苦境は、発達障碍者に限らず、被災した全障碍者が共通して当面する問題であろう。差別解消法が周知されていないせいもあるだろうが、周知されていたとしても、災害時などの非常時に、新法のある文言がかえって足かせとなりかねないという懸念がある。
前回の記事では取り上げなかったが、差別解消法が求める「合理的な配慮」には「その実施に伴う負担が過重でないときは」という限定句がかぶさっているのだ。災害時には一般被災者の救援が優先され、障碍者対応はこの「過重な負担」によって切り捨てられる恐れが十分にある。
前回、「合理的配慮」という訳語の問題性については指摘したが、その原語reasonable accommodationにも実は、not imposing a disproportionate or undue burdenという限定句が付せられている。
「過重な負担」という限定句は、このa disproportionate or undue burdenを意訳したつもりかもしれない。しかし、disproportionate or undueとは「過重な(overloaded)」というような量的な負担を意味するものではない。
なかなか訳しづらい表現ではあるが、disproportionateは「不相応な」、undueは「不当な」と訳せばそう遠くなかろう。いずれにせよ、正義の観点からする質的な負担のことであって、それは個別具体的に判断されることである。
従って、例えば完全バリアフリー化に多額のコストがかかるとしても、そうした量的な負担だけでa disproportionate or undue burdenに該当するわけではない。そのようなコスト負担が不相応・不当かどうかが実質的に問われることになる。
その点、大企業にとっては完全バリアフリー化のコスト負担は不相応・不当ではないが、零細の店舗や宿泊施設等にとっては自費での完全バリアフリー化がa disproportionate or undue burdenに該当する可能性はある。そうした場合でも、公的補助付きの完全バリアフリー化であれば、必ずしも不相応・不当ではない。
災害時対応についても、災害という大状況を考慮しつつ、個別具体的な判断がなされるが、その点、「福祉避難所」という形で、平常時ですらスタッフ不足の既存福祉施設を臨時の避難所として使用させることは、a disproportionate or undue burdenに該当する可能性もあるだろう。
むしろ、スペースのある公共施設を「要ケア者避難所」に別途指定して、様々な要ケア者を集中的に避難させ、またそこを拠点に配給等も格別に行なうという方法がよりreasonable accommodationに合致するのではないだろうか。
非常時は平常時以上に障碍者へのreasonable accommodationが忘れられやすい。上掲記事によると、発達障碍児を持つある親は自宅の備蓄が底を尽き、助けを求めた避難所で掛けられたのは「一人一つ、平等なので欲しければ並んでください」という言葉。パンフレットを見せて説明しても取り合ってもらえず、「普段以上に理解のなさを痛感した」という。
この避難所の対応に現われているようなreasonable accommodationを考慮しない「平等」こそが、差別にほかならないのだが、日本社会でこのことが理解され、反省されるには、なお時間がかかるかもしれない。まさに「差別克服」の道半ばである。