差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第22回)

レッスン2:障碍者/病者差別

〔まとめと補足〕

 障碍は広い意味で病気の一類型または一症状ですが、病者のうち不治の障碍を持つ人々を通常「障碍者」としてくくり出しているようです。
 障碍の中でも身体障碍は外見にそれとわかる特徴が出るため、容姿差別の一環としても、かつては劣等視の対象でありました。その痕跡として、身体障碍に関しては多くの言語において数多くの差別語が見られますが、幸いにしてその多くは今日死語となっています。
 これに対し、視聴覚に関わる感覚障碍は、外見に顕著な特徴が現れないため、元来、身体障碍に比べれば差別される度合いは低く、比較的早い時期から差別克服の道が開かれてきました。皮肉にも、「健常」の範囲内に属する醜形者に対する容姿差別は容易に克服されないのに、身体障碍・感覚障碍に対する差別は克服の努力が示されてきており、この分野は差別問題全般の中では相対的に深刻度が低いと言えます。
 
 とはいえ、日本社会のバリアフリー化・ノーマライゼーションは万全とは言い難く、依然として障碍者を「かわいそうな存在」とみなして、単に同情的配慮の対象としか見ない傾向は依存として根強く、障碍者の社会参加の道は決して平坦ではありません。
 まして、コミュニケーションに障碍の及ぶ知的障碍者や精神障碍者を取り巻く環境はいっそう厳しく、なお隔離主義的施策とそれを支持する「世論」とが厳然として存在しています。海外には、イタリアのように精神病院という制度そのものを解体してしまった国もあることと対比すると、彼我の落差は大きいです(外部サイト)。
 

 そもそも病者全般を“隔離”して長期入院させる傾向がなお強いのが日本社会の特色ですが、これは近代的差別の三源泉の一つ、衛生思想(公衆衛生学)が日本社会では深く浸透したためとも考えられます。そこでは、古来のケガレ観念とちょうど入れ替わりのような形で衛生思想が浸透し、病気‐障碍の状態を不衛生‐不健康として忌避する心性が強く働いているのでしょう。
 いずれにせよ、障碍者/病者差別の克服に対しては、病気‐障碍という状態を、誰にとっても明日にも我が身に起こり得ることと自身に引き寄せて考えてみる引き寄せの倫理によって克服しやすい分野と言えます。
 
 その点では、「健常者」という用語の使用も再考してみたほうがよいでしょう。この語はそれ自体としては差別語ではありませんが、健常者/障害者という対語として用いられるときは、健常者を優位とみなす価値観を暗黙の前提とすることが多いのです。そういう意味では反面差別語とみなすこともできる語です。
 実際、100パーセント完璧に「健常」という人は存在しないということからしても、現実離れした語です。「健常者」という語を使用しないでいれば、そもそも健常者と障碍者を分けるという二分法の発想自体が消失していくでしょう。これも、日常的に容易に実践可能な差別克服の努力です。