まだいくらか日を残す今年は、差別克服の視点から注目すべき様々な出来事が起きた一年だった。最大級は7月の障碍者施設襲撃大量殺戮事件であるが、これについては事件後の記事である程度管見を述べてあるので、ここでは、諸事情からすぐにレスポンスできなかったものをいくつか取り上げて回顧したい。
一つ目は、沖縄における警備警察官による「土人」暴言である。これは周知のように、米軍ヘリパッドの建設をめぐる反対デモと機動隊が対峙する状況下で、関西地方から派遣された応援警察官の口から発せられた言葉であった。これをめぐり、件の警察官が所属する大阪府及び警察全体を所管する政府の立場は曖昧で、明確に差別的とは認めなかった。
この「土人」という語は、1997年まで100年近くも有効だった「北海道旧土人保護法」なるれっきとした国法にも冠せられた法令用語だった。沖縄に関しては、「旧土人保護法」のような法令が制定された過去は存在しないが、明治政府による琉球併合後、政府当局者が沖縄県民を「土人」呼ばわりしていた事実を示す史料は存在するようである。
日常的に時代錯誤な用語を使用しているとは思えない若い警察官がためらいもなくこのような言葉を発したとすれば、「土人」は当局者の間ではいまだ死語となっておらず、南北の辺境地域の住民に対する蔑視政策も密かに生き残っているのではないか、という疑惑を生じさせる。
なお、「土人」暴言ほど話題にならなかったが、別の機動隊員はデモ隊に「支那人」なる罵声を浴びせた。「支那人」は帝国主義時代の中国人の旧称で、本質的な差別用語とは言えないが、植民地時代の旧語として戦後は使用されなくなり、現代では一部国粋政治家・論客のみが愛用するシンボル言語である。それを沖縄県民に転用した理由は不明だが、かつて琉球王国時代に中国を宗主国としていた歴史を想起してのことか。いずれにせよ、一部国粋潮流の警察内部への浸透も推認させる発話であった。
事故直後には大人の間でも福島県からの避難者に対する「放射能差別」のような事象が多発化したが、これは「放射線が伝染する」というような非科学的迷信から来るある種の前近代的な差別事象であった(この件については当時、別ブログ記事で管見を述べたことがある)。
しかし、今回は最も啓蒙されているはずの層である教員自らがいじめに加担した疑いのあるケースが新潟県下で現れたことが衝撃的である。それでなくとも、横浜のケースのように児童生徒からのいじめの訴えを無視し続けた学校当局も不作為で組織的にいじめ加担していたと言わざるを得ず、近年、様々な形で表面化する教育界の劣化状況をまた一つまざまざと見せつけられたようである。
深刻ないじめは子どもの領分における差別であるということを当ブログでは折に触れて力説してきた。原発いじめ現象も、その内容がどんなに児戯稚拙なものであろうと、子どもたちを取り巻く親や教員らの差別意識が色濃く反映されていることは間違いない。
三つ目は、巷ではほとんど話題とならないが、今月成立したばかりの新法「部落差別解消法」(部落差別の解消の推進に関する法律)についてである。
これは第一条で、「この法律は、現在もなお部落差別が存在するとともに、情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じていることを踏まえ、全ての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのっとり、部落差別は許されないものであるとの認識の下にこれを解消することが重要な課題であることに鑑み、部落差別の解消に関し、基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、相談体制の充実等について定めることにより、部落差別の解消を推進し、もって部落差別のない社会を実現することを目的とする。」と明記された法律で、民進党を含む与野党圧倒的多数での可決成立となった。
法律の形態としては、今年から施行された(制定は平成25年)「障害者差別解消法」(障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律)と対になるような差別克服立法とみなすことができるものであるが、法律の要否・内容をめぐり、一部で強い反対論もあった。
その背後には、反部落差別運動内部の団体間・路線対立も伏在するらしく、複雑な問題であるが、これが「問題」となってしまうことには、外国人、障碍者、部落・・・と個別問題ごとに差別対策法を累積させていく立法手法の問題性が関わっているように思われる。
欧州諸国に見られるような、主要な差別事象すべてを統一的に網羅する包括的反差別法の制定を検討すべき時期に来ている。政府与党が関係当事者団体の取り込みを狙ったポーズではなく、本気であらゆる差別の克服に取り組む意志を持ち始めたのであれば、そうしたほうがわかりやすい。