差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第52回)

レッスン11:犯歴差別(続き)

 

例題3:
新聞やテレビの犯罪報道で、犯罪の被疑者や被告人の実名が顔写真や映像とともに公開される慣行(実名報道)を廃し、匿名を原則(匿名報道)とすべきだと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない


 日本に限らず、世界的な報道慣行として広く見られる「実名報道」に対しては、従来から一部批判も向けられてきましたが、それはもっぱらプライバシーや無罪推定原則の観点からなされています。
 実名報道は、被疑者・被告人の個人情報である氏名・顔写真・映像、場合により家族関係まで暴露したうえ、犯人視することを典型的な内容とするので、市民としてのプライバシーや無罪推定を受ける権利を侵害していることはたしかです。
 そうした点を考慮して、日本の報道界ではかつての呼び捨て習慣を改め、「容疑者」「被告(人)」呼称を定着させたり、顔写真の公開を抑制するなど、一定の改善策も示してきましたが、そこまでで止まっており、実名報道そのものの廃止には断固として否定的であるようです。
 
 それほどに実名報道固執する理由を究明していくと、被疑者・被告人=犯人(犯罪者)という暗黙の前提に立ちつつ、その者を「さらす」という社会的制裁の形をとった一つの犯歴差別の慣習―逮捕・起訴されただけで犯歴とみなす早まった犯歴差別―に行き着くでしょう。
 これに対して、実名報道を固守する報道界からは、しばしば「実名報道は権力に対する監視手段である」といった正当化理由が持ち出されることがあります。
 しかし、「権力監視」を言うならば、権力行使の客体となる被疑者・被告人をではなく、権力行使の主体となる警察官や検察官、裁判官ら官憲側の実名(少なくとも各々の主任官の実名)を公表しなければ意味がない―こちらは、むしろ「匿名報道」が確立されている―ので、こうした理由を持ち出して「さらし」を正当化するのは、一種の転嫁的差別です。
 
 もっとも、一般社会で実名報道がどの程度支持されているのかよくわからないのですが、「ツラを見てやりたい」といった慣用句に象徴されるような「さらし」への欲求は相当に潜在しているのではないでしょうか。
 そのことは、少年法上匿名報道が要求されているため、実名報道の例外となっている少年の被疑者の実名や顔写真までがしばしばインターネット上に流出するという事態に表れています。
 
 こうした「さらし」は犯歴差別の一環とも言えますが、実名報道(あるいは報道を介さない「流出」)の対象は、法的な処分が確定する前の被疑者・被告人や少年に向けられることが圧倒的に多いです。
 そうであれば、やはり無罪推定原則が妥当するのであって―たとえ「自白した」という当局発表があっても同様―、「未決の被疑者・被告人、少年はまだ犯人と決まったわけではない」という鉄則を明確に意識することが、「さらし」欲求の抑制、ひいては匿名報道の確立にもつながる道となります。
 
 原則的な「匿名報道」―高位公職者や社会的地位を持つ公人、著名人などは例外―は、必ずしも犯歴差別そのものの解消を意味しないとしても、一つの差別回避策として、犯歴差別解消への重要な一里塚になるでしょう。

 

例題4:
あなたは死刑制度に賛成しますか。

 

(1)賛成する
(2)賛成しない


 死刑制度を差別問題に絡めることをいぶかる向きもありましょう。普通、死刑制度への賛否は「正義」の理解の仕方の問題としてとらえられているからです。そういう大きな問題として取り扱うと、死刑の存廃は水かけ論争に終わりがちですが、視座を変えてみると、少し違ってきます。
 
 そもそも、死刑とは犯罪者の存在価値を否定し、「生きるに値しない」と断罪する刑罰です。しばしば死刑判決文でも、被告人を「鬼畜」などと非難し、人間としての属性をさえ否定したうえで死を宣告するのは、そのことの端的な表れにほかなりません。その意味で、死刑とは、犯罪者を劣等視し、単に社会的に排斥するにとどまらず、地上から抹殺する究極の差別制度だとも言えます。
 このようにとらえるならば、死刑を「正義」とみなして正当化するのは、これまでに見てきた他の事例と同様、一見もっともらしい理由を持ち出す転嫁的差別の一例と言えます。究極の差別であるがゆえに、転嫁的理由づけとしても「正義」のようなビッグワードによりかかることになります。
 
 死刑制度が究極の差別であるということは、この制度が差別問題全般に対するリトマス試験紙となり得ることを意味しています。死刑制度への賛否にも濃淡がありましょうが、犯罪者の生きる資格を否定するこの制度を強く肯定する人ほど、本連載で取り上げた他の事例でも、差別的な回答をする確率の高い人だと見てほぼ間違いありません(逆もまた真なり)。
 その点で、人間を「生きるに値するかどうか」という基準で選別し、少数民族障碍者、同性愛者等々「生きるに値しない」と断じられた人々の絶滅政策にまで暴走したナチスが、同時に死刑制度を称揚して死刑の適用を大幅に拡大・強化し、大量死刑政策を展開したことは決して偶然ではありません。
 
 一方、〈反差別〉の実践に正面から真摯に取り組む政府を持つ諸国では、死刑制度は自ずと廃止へ向かうでしょう。〈反差別〉の実践は死刑制度の廃止にとって有利な環境を準備するであろうからです。そして、死刑制度の廃止は、犯罪を犯した人にも例外なく更生のチャンスを保障する包容政策を導き、犯歴差別全般の解消をも後押しするでしょう。