レッスン11:犯歴差別
〔まとめと補足〕
はじめに、犯歴差別がなぜ前レッスンの国籍差別と並び、「余所者への差別」の一環に組み込まれているかと言えば、犯歴者(犯罪者)は外国籍者(外国人)と並び、共同体のメンバーとはみなされない属性だからです。「塀の向こう」といった刑務所の隠語がそれを示しています。言わば、外国人が外なる余所者だとすれば、犯罪者は内なる余所者なのです。
ところで、本レッスンは旧版では「犯罪者差別」というタイトルを付けていました。しかし、後述するように、犯罪者という用語自体、生涯消えない烙印のようなニュアンスを醸し出すため、犯歴を理由とする差別=「犯歴差別」というあまりこなれていない表現に置き換えた次第です。
ただ、「犯歴差別」と言い換えたところで、他の「○○差別」と比べて、なかなかこれを差別として認識することは難しいかもしれません。その理由は、「犯罪者=劣等人間」という社会的意識が根強く存在するため、犯歴差別は、ともすれば「正義」とか「贖罪」といったビッグワードで正当化されやすい傾向を持つからでしょう。
その点、日本古来の観念によると、罪も宗教的なケガレとみなされていたのですが、現代の犯罪者劣等視は専ら道徳的な観点からなされ、「卑劣な犯行」といった表現にも見られるように、犯罪者は道徳的に劣った人間と見られがちです。
ただ、犯歴差別にあっても、視覚的表象との関わりがないわけではありません。例えば「目付きが悪い」とか「ヤクザっぽい顔」、日本では濫用気味に多用される「不審者」のように、犯罪者に特有の外見があることを前提とする表現が見られます。
また、今日ではすでに過去のものではありますが、19世紀後半から20世紀初頭頃には、犯罪者は人類学的にも識別可能な肉体的特徴を持つと主張する犯罪人類学が風靡したこともありました。
こうした犯罪人類学の泰斗でもあったイタリアの法医学者ロンブローゾは、矯正不能のゆえに死刑をもって淘汰するほかないとされる「生来性犯罪者」の理論を提唱しました。
この理論は同時期に台頭していた社会進化論や優生思想とも結び合っていたことは明らかでした。こうした科学的根拠を欠く生来性犯罪者の理論もすでに否定されて久しいですが、今日でも死刑判決の中ではしばしば被告人の「矯正不能」が指摘され、死刑の正当化理由となっているように、死刑制度の中ではなお「生来性犯罪者」の理論が部分的に生き延びているとも言えます。
一方、近年は犯罪映画やドラマの影響からか、「サイコパス」といった心理学・精神医学的な術語―実は疑似科学用語―を使用しての犯罪者差別も出現しています。これは精神医学で言うところの「パーソナリティ障害」が通俗化して、あたかもかつての生来性犯罪者理論のように、サイコパスという矯正不能な猟奇的犯罪者が存在するかのような前提に立つ用語です。
しかし、これも生来性犯罪者理論と同様、科学的根拠に基づいておらず、多分にして映画やドラマ等のフィクションの世界の産物であることに注意する必要があります。
一般に犯罪が社会を不安に陥れる有害な行為であることは否めず、犯歴者が一定以上危険視されることは不可避的でしょう。従って、その罪状によっては犯罪を犯した人の身柄を拘束し、一定期間社会的に隔離することは差別と断定できません。しかし、それを超えて犯罪を犯した人を劣等視し、その教育や更生の可能性をも否定して、抹殺や永久隔離、社会的排斥を推進することは差別となります。
とはいえ、犯歴差別の克服は他の差別の克服にもまして容易なことではありません。何度か示してきた「内面性の美学」にしても、犯歴者はまさにその内面が汚れているとみなされるので、「内面性の美学」によれば、かえって差別を助長しかねない面すらあります。
また、互いの差異より共通点を発見しようという「包摂の哲学」も、大量殺人犯人のような人物と自分との間には何らの共通点も見出し難く、我が身に引き寄せて考えてみる「引き寄せの倫理」も、自分が大量殺人犯人だったら・・・などと想像できる人は少ないでしょう(想像できるという人がいてもちろん大いに結構ですが)。
お手上げのようにも思えますが、内面性の美学の派生型として、内面の浄化可能性というものを想定することができます。すなわち、内面の汚れた罪人といえども、矯正され更生することによって、内面の汚れが除去されると考えるのです。この考えは、あたかも日本古来のケガレが、一方では清めや祓いによって洗い流されて浄化されると観念されていたことと似ているかもしれません。
このような「内面の浄化理論」によれば、「包摂の哲学」との関係でも、更生した犯歴者を私どもと「同じ人間」として認め直す可能性も開かれてくるのではないでしょうか。
そう考えるならば、特定の人間に犯罪性が生来的ないし恒久的に付着しているかのようなニュアンスを帯びた「犯罪者」という用語は前差別語とみなして、その使用を極力回避し、「犯行者」とか「犯歴者」などの烙印とならない用語に置き換えることも真剣に検討すべきことになるでしょう(命題14参照)。
さらには、そもそも「犯罪」という道徳との結びつきを払拭し得ていない用語も再考し、単に刑罰法規に違反したという意味での「犯則」と言い換えるなどの用語的工夫も有益でしょう。
さらに進んで、そもそも罪を犯した人を前科者という社会的に最も差別されやすい地位に立たせてしまう刑罰制度自体を廃して、矯正と更生を促進する別のより合理的な制度を創案すべきでしょうか━。これは、もはや本連載の課題を超えた問いとなりますから、宿題とします。