差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第50回)

レッスン10:国籍差別

〔まとめと補足〕

 本レッスンは旧版では「外国人差別」という表題を掲げていましたが、実は「外国人」という用語は現在では死語となっている“異人”ほどではないにせよ、「余所者」というニュアンスがにじみ出た用語ですので、表題に掲げることは避け、その実質に即して、「国籍差別」と言い換えました。
 それに合わせ、「外国人」という用語も「外国籍者」と言い換えたほうがよいと思われますが、いささか行政用語のようであるため、本文では「外国人」という人口に膾炙した用語を使用し、妥協しています。

 
 もっとも、どう表記しようと、外国人あるいは外国籍者に対する差別の根源は「余所者」排斥にあります。「余所者」とは、およそ人間の共同体にとっては潜在的な敵であり、警戒しなければならない相手です。
 そして、この「余所者」排斥もまた、その外見・風采が異形であるという視覚的な表象に深く関わっているのですが、「余所者」を排斥するのは、およそすべての共同体的組織に共通する本質的な危険視であって、差別=劣等視とは微妙に異なります。
 
 こうした「余所者」排斥は、国民国家という「近代的」な政治共同体のレベルでも、国民と外国人の峻別という形で継承されています。
 国籍と国境という概念を確立した国民国家は、そうした概念を持たなかった時代には「まれびと」のような形で一定の歓待を受けることさえあった「余所者」を「外国人」としてかえって厳しく統制するようになったとさえ言えるでしょう。国民国家にとって、外国人は厳重に管理されるべき「余所者」、日本の古い差別語で言えば“異人”なのです。
 
 ただ、この場合も、外国人を必ずしも劣等視しているのではありませんから、国民国家が外国人よりも国民を優遇しようとする政策のすべてが直ちに差別に当たるというわけではありません。
 その点、国際連合人種差別撤廃条約も「締約国が公民と公民でない者との間に設ける区別、排除、制限又は優遇については、適用しない」と定め(1条2項)、人種差別と「公民でない者」、すなわち外国人に対する区別、排除等とを弁別しています。
 
 とはいえ、外国人を非公民化する政策は、そこから外国人一般を犯罪者と同視したりするような差別的観念を醸成する温床となることは否めません。
 特に日本社会では異人種・異民族が外国籍であることが圧倒的に多いため、人種/民族差別が外国人差別という形式の下に発現しやすいのです。そのため、外国人差別と人種/民族差別との境界線はあいまいであり、先の条約上の弁別も困難です。
 
 例えば、例題3に絡めて指摘した石原東京都知事(当時)の発話「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している」は、人種/民族差別か、外国人差別か、どちらなのでしょうか。
 当時、国連は「公職にある高官による人種差別的な発言」として懸念を表明しました。国連では、石原発話を実質的にとらえ、外国人犯罪問題に仮託した人種(民族)差別と認識したようです。
 しかし、石原氏側はあくまでも外国人犯罪という「治安問題」を提起したにすぎないとの認識を示し、それが「差別問題」に発展したのは、一部メディアが演説の主旨を歪曲したためだと非難しました。
 
 こうした応酬を見ると、日本社会では犯罪をはじめとする外国人問題が人種/民族差別を隠蔽するための転嫁的差別のロジックとしても機能していることがわかります。そうだとすると、外国人差別の克服は、日本社会ではなかなか意識されにくい人種/民族差別の克服にとっても有効性を持つと考えられます。
 
 ところが、この外国人差別の克服ということが必ずしも容易でなく、その究極的な方法はそもそも国民‐外国人の峻別を本質とする国民国家という法的枠組みを解体することしかありません。それはまさに革命であり、単なる〈反差別〉を超え出た政治理論上の大論点になりますから、ここで本連載の直接的な課題とすることはできません。
 しかし、国民国家の枠内でも、外国人包容政策を推進していくことは、国民国家を解体しないまでも、外国人差別克服の一里塚としての意味は持つでしょう