差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

恐怖と差別

今年最初の「講座」となります。本来なら、前年度の考察を踏まえ、教育を通じた反差別の取り組み、すなわち反差別教育の方法論を論じるところでありましたが、折から、新型コロナウイルス:COVID-19の流行に伴い、種々の差別的な行為が見られるようですので、予定を変更し、この問題を差別の観点から取り上げることにします。
 
一般に、感染症が流行すると、社会がパニックに陥りやすいことは、世界共通現象です。感染症の中でも、人から人へ伝染するものは、特に恐怖を呼び起こします。人は恐怖にとらわれたとき、その恐怖をもたらすものを遠ざけようとします。感染症の場合なら、感染者を遠ざけようとします。こうした忌避行為は、ごく自然な行動心理的反応と言えます。
 
このように恐怖をもたらす人を遠ざけることは差別に似ていますが、差別ではありません。差別とは、特定の人や人の集団を劣等視して劣遇することだったからです。感染症罹患者は劣等視されているのではなく、恐怖されているのですから、かれらを遠ざけることは差別ではないのです。
 
ちなみに、多くの国では、伝染する感染症の患者を隔離治療することを正当化する法律を備えていますが、これは感染症予防という保健衛生上の観点から、政策的に患者を「遠ざける」制度であって、単純に恐怖から遠ざけるわけではありません。このような制度が差別に当たらないこともたしかです。
 
しかし、現時点では中国発と見られるCOVID-19の流行を免れている欧米では、中国人をはじめ、中国人と外見の似ている東洋人すべてを言わば「感染容疑者」扱いして、遠ざけようとするような風潮が起きているようです。これも恐怖反応の一つとは言えますが、このように行き過ぎた恐怖反応は差別の領域に進入しています。
 
当然ながら中国人のすべて、まして東洋人のすべてが感染者であるはずもないのであって、それを外見だけで判断して「感染容疑者」扱いし、東洋人そのものを病原体とみなすかのような行為は、恐怖反応を越えて、人種差別の域に拡大されているわけで、これは明白な差別と言わざるを得ません。
 
*追記:その後、COVID-19は欧米でも流行し、東アジアを上回る蔓延を見せたが、それでもなお依然として中国人その他アジア人に対する差別は収まっていないようである。これはウイルスに仮託した明白な人種差別である。
 
一方、日本国内においても、感染者が拡大の兆しを見せるなか、感染者の住所や氏名の開示を求めるような「市民」の要望が寄せられ、当局が対応に苦慮していると報じられています。

このような感染者特定の要求が何を意図しているのか定かではありませんが、感染者を地域で特定し、その人や家族を孤立化させたいのか、それとも見せしめ的にネットなどで個人情報を暴露したいのか、いずれにせよ、これも行き過ぎた反応です。
 
もっとも、個人情報の開示を要望するだけでは差別ではありませんが、差別の前段階という限りでは、前差別行為と言えるものです。当局が要望圧力に負けて、個人情報の開示に一部でも応じてしまえば、闇のネット追跡隊が動き出し、個人を特定してしまう恐れも十分にありますから、当局側にも圧力に負けない覚悟が必要です。
 
このように恐怖に基づく反応が差別の域に拡大しないための策としては、問題となっている感染症に関する正しい知識を啓発することが第一歩ですが、そのためには、関係機関によるメディア発表や公式ウェブサイト上での情報発信のような対大衆啓発だけではなく、例えば個人の携帯電話充てに一斉メール送信するというような対個人啓発も必要と思われます。
 
それと同時に、反差別法及びそれに基づく中立的なオンブズマンのような人権救済制度を創設し、具体的な差別行為に対応するための法制度によるバックアップ態勢も不可欠です。これは、感染症の場合に限らず、差別事象全般に通ずる制度的担保となります。
 
以上をまとめれば、恐怖に基づく忌避行為自体は差別に当たらないけれども、行き過ぎた忌避行為は恐怖反応を越えた差別の域に達するということになります。その境界線はしばしば曖昧で、線引きは必ずしも容易ではありませんが、そうした線引き役は、上述したような反差別オンブズマンに託されます。
 
 
[付記]
日本では感染者情報の公表に際して、感染者の発症経緯や行動経路などを含む詳細な個人情報が公表されています。こうした対応は即「差別」とは言えませんが、感染者差別につながる要素を潜在的に持つプライバシー配慮に欠けたやり方と言えます。そこで、公衆衛生とプライバシー配慮のあり方という観点からの拙稿を別ブログに掲載しましたので、併せてご笑覧ください。