差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

差別の黄昏:老年期

エリクソンの発達段階理論は、人間が晩年まで生涯にわたって課題を伴いつつ、発達を続けるという非常に広いパースペクティブを持った「発達」の理論に立っていますから、65歳以降人生終盤の老年期にもまだ「発達」の余地があると想定されます。

老年期と言えば、長い人生経験に基づく知恵が備わるべき時期です。その一方で、人生を振り返り、「私は私でいてよかったか」という内省的自問も生じ、その問いを肯定できるかどうかが発達課題とされます。差別との関わりで言えば、従来の人生の過程で体得した差別的価値観を振り返り、果たしてそれでよかったのかと自問することになるはずです。

実際のところはどうでしょうか。長い人生の過程で体得した差別的価値観を反省し、そこから差別克服への道に転じる黄昏を迎えることは可能でしょうか。その点、アメリカで1960年代、人種差別の中心地でもあったアラバマ州の知事を長年務め、人種隔離政策を強硬に推進したジョージ・ウォレスの興味深い実例があります。

彼は1963年、アラバマ州立大学に初の黒人学生が入学するのを力で阻止しようとしたり、65年にはキング牧師が指導する公民権要求デモ行進を弾圧し、死傷者を出す「血の日曜日事件」を引き起こすなど、当時のアメリカ南部の人種隔離政策の急先鋒として名をはせた人物でした。

しかし、1972年の大統領選挙に立候補し、遊説中に彼の暗殺を狙った白人から銃撃を受けた際の負傷がもとで下半身麻痺の障碍を負ってしまい、大統領選も敗退します。しかし、政界を引退はせず、1974年、再び州知事に返り咲きます。ただ、60年代とは少し様子が違っていました。

ウォレスは任期の後半になって、黒人たちに過去の人種差別主義者としての言動と人種隔離政策の誤りを謝罪したのです。曰く、彼はかつて権力と勝利を追求したが、今は、愛と赦しを追求したい。と。そして、1982年に四たび州知事に当選したときには、多くの黒人を政権に登用したのです。

こうして強硬な人種差別主義者だったウォレスが晩年になって「改心」したきっかけとしては、「新生」と呼ばれるキリスト信仰に目覚めたことや、障碍者となったとき、敵対していた黒人も手を差し伸べてくれたといった個人的な体験があったようです。

ウォレスは長年州知事を務め、60年代から70年代にかけての大統領選挙でも常連の熟達した政治家ですから、彼の「改心」も公民権法制定以降、人種差別が全米で違法化された情勢変化を読んでの政治的なポーズにすぎないと過小評価することも可能でしょうが、自身が下半身麻痺の障碍者となったということも影響していたように思えます。つまり、ウォレス自身が障碍者として社会的に差別される地位に立ってしまったのです。

このように差別の加害者が転じて被害者となるという事態は、自分自身を差別される他人に置き換え、自分自身が差別される立場であったらどうか、と我が身に引き寄せて自問してみる「引き寄せ」が現実のものとなったことを意味します。このような立場の転換体験は、差別克服のうえでかなり決定的な転機となる可能性があります。ウォレスの実例は、そのことを示しているようにも思えるのです。

ただ、一方で、ウォレスが銃撃による下半身麻痺という体験をしていなかったら、彼は人種差別主義者のままだったのでしょうか。あるいは、そうした体験なくしても、老年期の知恵と内省によって「改心」していただろうと言えるでしょうか。これは老年期の「発達」という課題をめぐる大きな問いとなるでしょう。

ここで仮説的な管見を述べますと、老年期の「発達」にも差別克服の可能性の余地は残されているものの、一方で老年期には人格構造がほぼ固まり、いわゆる可塑性を喪失する時期でもありますから、老年期以降に幼少期から体得していった差別的価値観を払拭し、反差別的な人間に変身するということはもはや相当に困難です。

すなわち、老年期「発達」は、人格的可塑性の喪失という老化現象に制約されて、児童・若年期「発達」における差別克服の可能性に比べれば、その余地は必然的に狭いものとなると考えます。言い換えれば、ウォレスのように、現実に立場の転換体験でもしない限り、老年期での「改心」の可能性は高くありません。

従って、差別克服は人格的可塑性に開かれている早い年齢から開始しなければならないことになります。それは、発達心理学認知心理学などを総合した科学的な技法に裏付けられた教育的働きかけという形をとることになるでしょう。「差別学習」に対抗する「反差別教育」の実践です。