反差別教育は何歳から始めるべきか―。「三つ子の魂百まで」と言われるように、3歳の段階から即行で開始するべきであるということになるのでしょうか。実際のところ、それほど単純ではなさそうです。そもそも、乳幼児は「教育」の対象となり得るかが問題です。
世の中では、「英才教育」として2、3歳頃から様々なことを教え込むことも行われていますが、そうした成長後の記憶に残らない年代に対する教育とは、その内容が芸術・芸能のように高踏的なものであっても、幼児に特定の原体験を持たせるという「教育」です。そうした点で、記憶として蓄積される年代以降に対する教育とは本質が異なります。
早幼児期の記憶に残らない原体験は、良いものでも、悪いものでも、その後の人格形成に重大な影響を及ぼすことが知られています。従って、人格形成上良い影響を与える原体験を持たせることが、この時期の「教育」の要諦となります。
そういう意味では、2、3歳児に対する「反差別教育」も成り立つことになります。もちろん、ここでの「教育」とは、反差別を言葉で教え込むということではなく、反差別の原体験を持たせるということです。では、どのような原体験を持たせるべきでしょうか。
その点、差別の土台は事物を識別する認知機能でありました。そうした識別の能力はすでに乳児期に発達し始めるわけですが、乳幼児期には識別した事物を価値序列化する能力はまだありません。そこで、価値序列化する能力が身につく前に反差別の原体験を持たせておく必要があるのです。
そうした原体験としては、同年代の他民族児や障碍児との交流が最も効果的でしょう。早幼児期の子は価値序列に従って他人を差別するということをまだ知りませんから、肌の色や外見の異なる他民族児や障碍児とも、予断偏見なく接し、遊ぶことができます。このような交流的な遊びの原体験は、決定的に重要です。
このような早幼児期における交流的遊びの原体験は通常、成長後の記憶には残りませんが、人格形成上は確実にプラスに作用し、反差別が無意識的に実行できる人間に育つことでしょう。逆に、こうした交流的遊びの原体験が欠落していると、成長後にいくら反差別を言葉で教え込まれても、体得できないのです。
ただ、現状、早幼児は義務教育の対象年齢ではなく、この年代は保育、幼児教育、家庭養育と保護者の事情に応じて様々な環境に置かれていることが問題です。保育や幼児教育を受けている子であれば、保育所や幼稚園が意識的に交流的遊びを取り入れることで対応できますが、家庭養育下にある子の場合、それが困難です。
理想としては、保育または幼児教育を義務化するか、少なくとも政策的な何らかのインセンティブのもとに勧奨することで、反差別原体験をプログラムとして実施することが可能となるでしょう。義務化や勧奨により、保育や幼児教育が拡大すれば、コストや人員確保など難題はありますが、反差別教育を実現するうえでは、克服すべき課題です。
ここで私見を述べると、早幼児期においては、保護と教育が一体となった保育を義務化することが望ましいと考えます。先に述べたように、この年代の子に対する「教育」は特定の原体験を持たせるということであって、真の意味での教育とは異なるからです。
具体的には、義務保育の中に、共通プログラムとして、上述したような交流的遊びを組み込むのです。もっとも、他民族児との交流に関しては、日本のように民族的な同質性が高い国ではそもそも実現が困難というネックはありますが、障碍児との交流ならば、十分に可能です。