就任して一月もたたないうちに差別的な入禁政策を断行して混乱と抗議を招いているトランプ大統領であるが、批判の中によく見られるフレーズ「アメリカ的でない」には、やや疑問を覚える。歴史的に見ればむしろ、こうした差別的入禁政策は「アメリカ的」とも言えるからである。
実際、アメリカ合衆国独立直後の1790年に制定された帰化法では、帰化可能な者、すなわちアメリカ国民たり得る条件を「自由白人(フリー・ホワイト)」に限定していた。アメリカはたしかに「移民の国」ではあるが―トランプもドイツ移民3世―、沿革的には「白人移民の国」として成立したのである。
そのため、19世紀になっても中国人や日本人のようなアジア人を帰化不能者とみなして帰化を制限する政策が現れ、これが20世紀半ばまで続いた。トランプが選挙戦中に参照例として挙げて物議を醸した第二次大戦中の日系人強制収容政策もそうした排他主義の戦時政策である。
戦後は公民権運動の成果も及んで移民帰化制限が緩和され、世界中から移民が集まるようになったとはいえ、根底には非白人―ヒスパニックの多くはスペイン系白人を祖先とするが、先住民と混血しているせいで正統的な白人とはみなされない―排斥の水脈が流れているのだ。
そうした隠されていた水脈を再び表に掘り出そうとしているのが、トランプ大統領と彼の仲間たちである。その際、「テロ対策」「国家安保」を正当化論理として持ち出すのは現代的であるが、実際のところ、入禁政策が役に立たないことは専門家たちが指摘しているし、おそらくは政権も承知のうえである。
政権発足最初期に「暫定措置」として強権的な入禁政策を打ち出したのは、ある種の非立憲的な非常事態宣言であり、内外の政敵への宣戦布告とも言える挑戦的・象徴的な意味合いが強い。だから、その内容は杜撰なものであって少しもかまわないのである。
これに対して少なからぬ国民が街頭に出て抗議の声を上げるのも、アメリカ的である。抗議と言っても、かつての公民権運動のような激しい対決的なものではなく、いささか楽しいお祭り的なやり方ではあるが、それも現代的な弛緩であろう。
だが、政権はこうした微温的な抗議活動をも政策執行の障害要因として敵視している。もし業を煮やした政権が物理的な力を行使して弾圧に出るなら、これぞまさに非アメリカ的であり、アメリカがファシズムに向けて決定的な一歩を踏み出すことになるだろう。
ちなみに、日本政府がトランプ政権の入禁政策を批判しないことは自然である。日本はトランプが知れば絶賛しかねない移民・難民制限政策を開国後も一貫して敷いてきた排他主義の代表国として、トランプ流排他主義には内心共感を覚えるところすらあるはずだからである。
日本メディアはトランプ政権の入禁政策に対してはおおむね批判的なニュアンスで報じているように見えるが、足元の自国批判は封印して、外国の事となると批判する視点そらし的なやり方は相変わらずの習性のようである。もはや治癒不能な日本メディアの病理なのだろう。