差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

民間優生学の危険性

北海道内の知的障碍者施設で、結婚や同居を希望する利用者に不妊手術を受けさせていたという報道がありました。これは単なる疑惑のレベルではなく、理事長自ら事実関係を認めているので、確信的に、しかも1996年頃から長期にわたり行われてきたことのようです。

 

施設によると、知的障害のある利用者の男女が結婚や同居を希望した場合、施設側から、障害者が子育てをすることの困難さなどを家族同席のもとで説明したうえで、「子どもは欲しくない」との意向であれば、男性にはパイプカット手術、女性には避妊リングを装着するなどの不妊処置法を紹介してきたとのことです(外部記事)。

 

施設側としては、強制不妊ではなく、あくまでも当事者の同意に基づく任意の対応だと言いたいようです。しかし、この施設は知的障碍者施設であり、当事者男女は知的障碍を持っていること、さらに施設側が当事者を後見する立場にある家族も同席させたうえで、「障害者が子育てをすることの困難さ」を前提に「説明」するといったプロセスから見て、真の意味での理解と同意があったかに疑問が残ります。

 

理事長がこうした措置の趣旨として、「障害があるために養育不全になった場合、誰が子どもの面倒をみるのか、私たちにはできない」と説明し、結婚を希望する当事者に対しては「子どもを望む場合は、うちのケアから外れてもらう」といった制裁的対応を認めていることから見ても(外部記事)、これは施設側の厳格な方針に沿った半強制的対応であることが窺えます。

 

障碍者に対する不妊措置と言えば、かつては不良遺伝子を排除し、健全な国民を育成すると標榜する優生学に基づく国の政策として実施され、日本のみならず世界の諸国で風靡した国策でしたが、現在では廃止されてきています。

 

その点、日本でも障碍者への強制不妊を定めた優生保護法が1948年から1996年まで存在し、強制と同意を合わせて2万5千人近くに不妊手術が実施されてきたところ、2018年以降、旧優生保護法に基づく強制不妊を受けさせられた人たちが全国で国家賠償請求訴訟を起こしてきました。

 

そして、今年2月には、大阪高等裁判所が、旧優生保護法に基づく人権侵害は強度なものであり、国の違法な立法行為によって障害者に対する偏見・差別が正当化・固定化、助長されてきたとして、国家賠償を認める画期的な判決を下しました。

 

ちなみに、施設側が1996年頃から問題の対応を行ってきたというのは、ちょうど優生保護法が廃止され、国策としての優生学が終了した時期に当たっています。これは推測となりますが、施設としては国策としての優生学が終了した後も、施設独自に言わば「民間優生学」を実行していたものとも解釈できます。

 

このような民間優生学が広く普及してしまえば、国策としての優生学が終了しても、優生学的措置が民間で継続されることとなり、優生学は生き残ることになります。しかも、法令に基づかないだけに、この施設のように、曖昧な要件の下、施設の利用拒否という制裁を背景に、形式的な「同意」を取って半強制的な措置として実施されてしまいます。

 

もちろん、法令に基づく優生学のほうがよいということでは決してありませんが、民間優生学は法令に基づかず闇で行われるという点で、法的統制の及ばない「野生化された(野放しの)優生学」に陥る恐れがあるのです。

 

こうした民間優生学が果たして今回発覚した施設だけの特異な方針なのか、それとも全国的に普及しているのか、政府は緊急の実態調査を実施すべきでしょう。 

 

いずれにせよ、優生論者に共通する一つの言い分として、まさに当該理事長が吐露しているように、「誰が子どもの面倒をみるのか」というケア限界論があります。その点、強制断種に飽き足らないナチスが重度障碍者の大量「安楽死」という殺戮作戦(T4作戦)にまで進んだ契機が知的障碍と身体障碍の重複障碍を持つある少年の両親からの安楽死の嘆願にあったという事実は象徴的です。

 

そして、多くの医療・福祉関係者も、ケアの限界を名分に、断種どころか、そもそもケアの対象者が存在しなくなることが究極の解決策だとの考えから、T4作戦を支持し、同作戦が公式に終了した後も、民間主導で安楽死を継続しました(野生化された安楽死)。ナチスのT4作戦は優生学の極限的暴走ですが、問題の根源は障碍者断種策と同じなのです。

 

ケア限界論は、障碍者をあからさまに劣等視することを回避しつつ、一定の真実は突いている社会的な問題に転嫁することによって、障碍者差別を正当化しようとする転嫁的差別の典型例と言えます。

 

こうした転嫁的差別の正当化理由となりがちなケア限界論を克服するには、社会が障碍者のケアを支えることが不可欠ですが、日本社会では障碍者ばかりか、非障碍者にとっても育児への社会的支援が不足しているのが実情ですから、問題の施設の方針に共鳴してしまう人も少なくないのではないかが懸念されます。

 

さらに、民間優生学の問題性を逆用する形で、再び国策としての優生学を復活させたり、あるいはそもそも障碍者が誕生しないように障碍胎児の妊娠中絶を促進する政策などが提起されないかということも懸念されます。

 

とはいえ、今回25年以上も続けられてきた施設による民間優生学の実態が明るみ出たことは、事情を知るどなたかが問題視し、内部または外部告発を敢行した結果かもしれず、その点では、日本社会の小さな進歩を示す出来事としてポジティブに受け止めることもできるでしょう。