差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

出生前診断をめぐって(上)

先月、茨城県の教育施策を話し合う会議の席上で、一人の県教育委員が障碍児らの通う特別支援学校を視察した経験をもとに、「妊娠初期にもっと(障碍の有無が)わかるようにできないか。(教職員も)すごい人数が従事しており、大変な予算だろうと思う」、「世話する家族が大変なので、障碍のある子どもの出産を防げるものなら防いだ方がいい」などと発言したとして、波紋を呼んだ。

地方の一教育委員とはいえ、このような発言が公職者の口から出るのは衝撃である。なぜなら、財政と家族の負担軽減を大義名分として障碍者の根絶を正当化するのは、かのナチスによる障碍者絶滅政策と同じ発想に出ているからである。背筋が凍った。

ナチス・ドイツでも、このような発想に立って絶滅政策の先頭に立ったのは、教育・福祉・医療関係など、一般には「人道主義者」と目されるはずの専門家・識者たちであったことも、想起しなければならない。ただし、件の発言者の本職は画廊経営者で、真の意味での教育者ではないが、県の教育施策に影響を持つ教育委員に任命されている以上、教育関係者である。
 
このような恐るべき発言に対して、県知事は「事実を知って産むかどうかを判断する機会を得られるのは悪いことではない」とし、「問題ない」との姿勢を示したという。しかし、知事のこの認識は教育委員の発言の本質を的確にとらえたものと言えるだろうか。

たしかに、妊娠中に胎児性障碍の有無を鑑別する出生前診断はすでに産科医療における定番として普及してきており、ある病院の統計によれば、診断でダウン症などの染色体異常が確定した妊婦のうち、100パーセント近くが中絶を選択したというデータもある。

出生前診断は、精度が上がるほど胎児性障碍の発見率を高め、中絶の可能性をも広げることから、障碍者や障碍児を持つ親の間では、それ自体が差別的だとして否定的な見解も少なくない。ナチス障碍者絶滅がすでに出生した障碍者を絶滅する策だったのに対し、出生前診断に基づく中絶はそもそも障碍者が出生しないように胎児段階で根絶する策だとも言えるからである。
 
とはいえ、医学の進歩は体内の状態の精査も可能にしてきており、妊娠中の胎児の状態を精査する出生前診断もそうした医療技術の進歩の証しではある。そして、人は自身の体の状態について知る権利を有することも、近代的な人権の成果である。出生前の胎児は母体と一体であるので、妊婦は自身の胎児の状態について知る権利がある。

そのうえで、女性が中絶の自己決定権を有するかどうかについては、価値観の相違がある。宗教的な生命絶対論から妊娠中絶全般を禁忌とする思想もあるが、日本では堕胎罪が刑法に残されていながら、社会の意識においては中絶に容認的で、法律も一定の条件下に中絶を合法とする政策を採っている。

しかし、障碍の可能性のみを理由とする中絶は認められておらず、現行母体保護法は中絶の理由を「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」と「暴行若しくは脅迫によって又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの」とに限定している。つまりは、母体の健康被害または性犯罪による望まない妊娠の場合だけである。

実際のところは、上記のうち「経済的理由」が拡大解釈されて、事実上中絶は広く認められていると見られ、障碍胎児の中絶もこうした広い解釈のうえに実施されているのだろう。とはいえ、教育委員の発言も、知事の発言も、中絶を限定的に認める現行法の立場からは逸脱している。
 
しかも、教育委員は障碍胎児の中絶を政策的に奨励するような発言をしており、まさに障碍者を社会の足手まといとして地上から絶滅させることを政策として追求したナチスと同根の価値観に基づくものである。

ところが、これを擁護した知事の発言は女性の出産に関わる自己決定権を尊重する立場からのものであり、擁護論としてのポイントがずれているのである。あるいは、問題の火消しのため、意図的に論点をずらして擁護した政治的術策なのか。その真意は必ずしも明確でないが、いずれにせよ、教育委員の発話は、県の教育の最高責任者たる知事として決して擁護してはならない言説であった。

そのうえで、出生前診断は差別的で倫理的にも許されないものなのかどうかについては、件の差別言説とは完全に切り離して、別途考察する必要がある。結論から言えば、私見出生前診断を是認するが、その理由は改めて論じることにする。