差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

「ユニバーサル」の落とし穴

日本語のカタカナ外来語の氾濫には閉口するが、反差別の分野でもカタカタ外来語は多い。例えば、従来から「バリアフリー」という語が定着してきたと思ったら、これはもう時代遅れで、最近は「ユニバーサルデザイン」と言うらしい。
ユニバーサルデザインとは、直訳すれば「普遍的設計」。つまり、障碍の有無を問わず、みんなが普遍的に使えるような設計のことである。これに対し、「バリアフリー」は「障壁除去」、すなわち障碍者にとってのバリアーを除去して、障碍者に使いやすい設計をすることである。
バリアフリーが時代遅れとなったのは、バリアフリーとして障碍者仕様の設計をすると、かえって障碍者に使いにくいこともあるからだという説明も聞くが、どうも釈然としない。例えば、最近はようやく公衆トイレの定番となりつつある車椅子対応トイレは、バリアフリーだから時代遅れだとしたら、みんなが使えるユニバーサルデザインのトイレとは一体どんなものだろうか。
私見によれば、車椅子対応トイレのようなバリアフリーが即ユニバーサルである。なぜなら、いわゆる健常者でも、大怪我で一時的に車椅子生活となれば、車椅子対応トイレのニーズはあるからである。そもそも車椅子対応トイレは構造上通常トイレも兼ねているので、障碍の有無にかかわらず使用可能である。
最も初歩的なバリアフリーである段差解消・スロープ化にしても、それは必ずしも障碍者仕様ではなく、健常者でもスロープ化は助けになるユニバーサル設計である(特に高齢者の場合)。
このように、バリアフリーとユニバーサルは必ずしも対立する概念ではない。両者が対立する場面を想定するほうが難しい。両者に違いがあるとすれば、ユニバーサルのほうが洗練されていることか。バリアフリーはいかにも障壁除去というコスト負担のイメージが強いが、ユニバーサルはそういうイメージがない。
まさにそこに、一つの落とし穴が生じる。バリアフリー化設計や改修―特に改修の場合―のコストを節約したい企業者等が、ユニバーサルを口実にバリアフリーを懈怠する危険である。もちろん、ユニバーサルを口実にバリアーを放置するのは、真の「ユニバーサル」ではないのだが、口実はいくらでも立つものである。
もう一歩突っ込めば、近年は「反差別」という視点を回避して、いきなり「包摂」に飛びつこうとする傾向が見られる。「反差別」の醸し出すアンチな政治性が嫌われるのだろうか―当ブログもそうであるように。
たしかに、究極の到達点は個人の属性を問わず、万人がまさにユニバーサルな社会に包摂されることである。そうした理想郷が実現された暁には、バリアフリーならぬユニバーサルデザインが当たり前になるだろう。
しかし、現状はとうていそのような理想状態には達していない。公然と口にされることはなくとも、障碍者は半人前の足手まといな存在だという差別意識は沈殿している。そうである間は、まだまだバリアフリーの出番は終わらない。