差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第38回)

レッスン7:知能差別(続き)

例題3:
あなたは「天賦の才能(知能)」に恵まれた「天才」の存在を信じますか。

 

(1)信じる
(2)信じない


 「天才」という言葉は古来、特定の分野で人を驚嘆させるような唯一無二の成果を上げる人に対してよく使われます。必ずしも、傑出した知能に恵まれた人というだけなく、芸術やスポーツなどの分野で傑出した才能に恵まれた人も含まれますが、芸術やスポーツの実践でもある種の知能は要求されますから、そうしたものも含めて、知能差別に関わる問題として扱うことができるでしょう。
 
 とはいえ、「天才」という言葉自体は当然にも称賛語であって、差別語ではありません。また、「頭が良い」といった表現とも異なり、その反面のものを劣等視するような反面差別語とも言えないでしょう。
 ただ、細かく分け入っていきますと、天才とは、例題にもあるように「賦の能」に恵まれた者を意味しますから、ここでは「才能」というものが特定の人間に先天的に与えられていると観念されていることになります。
 そうした先天的とされる「才能」を文字どおりに天(神)の被造物と観念しない限りは、親や先祖からの遺伝の産物と観念されることになりますから、「天才」という概念はその理解の仕方によっては血統・世系による差別と危険な接点を生じてくるでしょう。この点で、優生学の祖であるフランシス・ゴルトンが「遺伝的天才」という概念を提唱し、才能の遺伝性を強調していたことは偶然ではありません。
 
 それでも、各界を見渡すと、学術や芸術、スポーツといった分野では、誰がどう見ても「天才」と呼ばざるを得ない傑出した成果を上げている人が存在するように思えます。
 たしかにそうですが、そうした人たちが示している傑出した成果とは、十分な資金を投入してたいていは早幼児期から特別な訓練を施され、特定分野の技能を仕込まれたことの成果でもあります。
 言い換えれば、それは訓練の施され方が他の人よりも傑出していたことの結果なのです。そして、そうした傑出した訓練の成果に世人が驚嘆し、高く評価したときに「天才」という称賛がなされるわけです。従って、何らかの傑出した成果がほとんど社会的な評価の対象とならないような場合には、どんなに人を驚嘆させても「天才」とは呼ばれないのです。
 
 より一般化すれば、「才能」という概念一般が訓練の成果なのであって、しばしば錯覚されているように、先天的な能力ではありません。もし、「天才」たちが特別な訓練を受ける機会に恵まれなければ、埋もれた存在として終わっていたでしょう。言い換えれば、そうした「才能」のレベルが「天才」と呼ばれるまでに引き上げられるか、それとも未完のままに終わるかは、適切な訓練の機会に恵まれたかどうかにかかると言えます。
 こう考えますと、「天才」という言葉にいさかか幻滅を感じ、使用を控えたくなるかもしれませんが、それは知能を基礎とする「能力」という概念全般について問い直す初めの一歩となるでしょう。

 

例題4:
[a]あなたは、社会の指導層には「学力」の優れた人から選抜・育成されたエリートが就くべきだと考えますか。

 

(1)考える
(2)考えない

 

[b]あなたは、各分野で高い能力を示す人は裕福な暮らしができて当然だと考えますか。

 

(1)考える
(2)考えない


 [a]に示された「学力」の優れた者から選抜・育成された少数のエリートが社会を指導するという体制は、世界でかなり普及している現代社会の構成です。これは、例題3で見た「天才」というより、「秀才」による支配です。従来は、多くの人が、そうしたエリート支配を何となく受け入れてきたかもしれません。
 
 しかし、日本では、かねてエリート中のエリートと目されてきた官僚への風当たりは強まっていますし、「お医者様」と崇められてきた医師に対しても、医療過誤を厳しく問う動きも出てきています。「エリート」に対する日本人の意識にも変化が見られるように見えます。それでもなお、日本社会では「エリート」という外来語を肯定的な文脈で使用する習慣が残されています。
 
 この「エリート(elite)」という語は、海外の民主的な諸国では、エリートでない一般大衆をエリートの指導に服すべき存在として劣等視する階級差別的なニュアンスを含む反面差別語とみなされるようになっているため、少数の者をエリートとして選抜・育成する「エリート教育」そのものに否定的ですが、実際のところ、多くの国で実質的なエリート教育は行われています。
 しかし、こうした学力=学歴差別的社会システムは、多数の人たちの人生の選択肢を狭める一方で、エリートとして選抜された少数の者の特権を強め、かえって特権の上にあぐらをかいた“無能”を招来しているという皮肉な現実に気づく人も増えていることが、エリート支配に対する各国での大衆の反乱的な動きに見えているように思えます。

 一方、[b]は「エリート」という観点とは別に、およそ何らかの分野で高い能力を示す者には、高額の報酬や年金等が与えられ、裕福な暮らしが保障されるという能力階級制の是非を問うものです。その点、特権的なエリート支配には否定的な人の中にも、証明された能力に応じて裕福な暮らしが保障される能力階級制ならば賛成できるという人が少なくないかもしれません。
 
 そのような能力至上の考え方は経営であれ、労働であれ、市場的競争に打ち勝つ能力のある人の優越的な価値を強調する社会淘汰論の隆盛という形で、近年のモードとなっています。
 特に、企業労働の分野では、従来賃金体系の主要な尺度であった「年功」に代わって、「能力」を基準とする能力給制や「成果」に応じた成果給制が導入されるようになってきましたし、また、近年大きな社会問題となっている非正規労働に関しても、露骨に言われることはないにせよ、「能力の足りない者は非正規労働力として低賃金に甘んじてもやむを得ない」という能力差別的な正当化理由が裏に隠されているため、なかなか本質的には解決されません。
 
 ところで、能力階級制を支持する理由として、ここでの「能力」とは先天的な知能のことではなく、(一定以上の知能を前提とはするものの)「努力」の成果として後天的に獲得された各種の能力のことであるから、努力した者に裕福な暮らしが保障されるのは合理的であって、もしそうでなければ人々は努力しなくなってしまうだろうというものがあります。しかし、別の見方もできます。
 
 たしかに、「努力」することはもちろん良いことです。ただ、見方を変えてみると、「努力」とは結果論であるとも言えます。すなわち、何かに成功すれば「努力した」と評価され、失敗すると「努力が足りなかった」と非難されるのです。「努力」の度合い自体を数値化することはできないため、「努力したが失敗した」という弁明はなかなか認めてもらえません。一方で、「努力していないのに幸運で成功した」とは、成功者本人がなかなか認めたがらないので、成功における幸運という要素は軽視されがちです。
 
 それでは、能力のいかんを問わず、皆暮らしは平等であるべきなのでしょうか━。不満を持たれる向きもあるでしょうが、特定の事柄で高い能力を示す人には必ず周囲の称賛、ひいては社会的名声が無形的な報酬として与えられます。この種の報酬は決して「平等」にはなり得ないものではありますが、有能さに対する報酬としてはそれで必要にして十分だとは言えないでしょうか。これは各自でさらに考察していただきたい宿題です。