差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第36回)

レッスン6:性的指向差別

〔まとめと補足〕

 本レッスンでは、最後の例題4を除き、「同性愛」という用語の使用を意識的に避けてきました。実は、当連載旧版のレッスン(旧版ではレッスン7)では「同性愛者差別」と題し、「同性愛」という用語で叙述しておりました。
 その点、「同性愛」という用語自体は差別語とは言えませんが、対語となる「異性愛」と並べることにより、この用語にはある種のニュアンスが発生してきます。そのニュアンスとは、例題4でも見たような背徳的とか異常といったネガティブなものです。
 それと同時に、「同性愛」という用語により、あたかも同性に対して性的な嗜好を持つかのようなイメージも醸し出されます。このことによって、「性的嗜好」と「性的指向」が混同され、「同性愛者」は特殊・異常な嗜好を持つ者というイメージで認知されてしまうのです。こうした誤った認知を避けるためにも、「同性愛」という用語の使用は極力回避し、「同性指向」ないしは「同性指向者」という用語を基本的に採用した次第です。

 ところで、イメージということに関連して、当講座では差別の出発点は視覚的な表象に始まるということを基本においてきたわけですが、同性指向者に対する差別の最もプリミティブなものとして「気色悪い」といった類のものがあります。こうした感覚的な差別感がどこから生じるかと言えば、同性同士の性的行為のイメージにあるのではないかと思われます。
 そうしたイメージは、ほとんど誰も直接にそのような行為を目撃する機会などないにもかかわらず、想像的なイメージ作用によって、かえって直接に目撃した場合以上に、歪められた偏見の元となっていくのです。
 しかし、同性指向者同士の関係は、異性指向者同士のそれと同様、単に性的関係だけに帰着するものではありません。もっと精神的な愛情関係も含めての親密な関係性です。その点では、上述したところと矛盾するようですが、「同性愛」という用語も、そうした精神的な愛情関係を包摂した用語として適切に使用されるなら、必ずしも差別的なニュアンスの用語とはならないでしょう。

 
 そのようにとらえるならば、異性愛/同性愛という二分法的思考から離れた包摂の哲学(理論編命題28)も導かれます。人間の価値は性的指向の如何によって定まるものではありません。性的指向とは、ある人が誰を性愛の対象とするかということに関する相対的な指標にすぎず―従って、両性ともに性愛の対象とする「両性指向」も存在しますし、誰をも性愛の対象としない「無性」もあり得ます―、重要な事柄ではありません。
 従って、性的指向を個人のアイデンティティーと直結させることは、自分を卑下する自己差別を克服するうえでの「療法」として有効な場合があるとしても、差別そのものを克服するうえでは有効と言えないでしょう。同性指向を自己のアイデンティティーと規定してしまうと、異性指向者とのへだたりが際立ち、包摂が難しくなるからです(アイデンティティー問題については、理論編命題29を参照)。

 
 その点、近年は、LGBTIのように、いわゆる性的少数者を細分類して記号化する新語が人口に膾炙してきました。このような分類はまさに性的なアイデンティティー分類でもあって、性的少数者が自身をどれかの分類にあてはめて「居場所」を見つける便利な分類表のような役割も果たしています。
 しかし、それは両刃の剣でもあり、白色人種/有色人種といった人種分類と同様、分類することで優劣関係が発生し、かえって差別の分類表となってしまう恐れもあることに注意が必要でしょう。
 むしろ、レッスン5の性自認差別、本レッスンの性的指向差別を同時的に克服していくうえでは、そうした性的分類表からも解放され、「分類されない権利」を確立する必要があると考えられます。このことは、人種分類に関しても共通してあてはまる視座と言えます。