差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第41回)

レッスン8:職業差別(続き)

 

例題4:

[a] あなたの家の近くに被差別地区Aがあるとします。あなたは自分の子をA地区の子と一緒に遊ばせますか。

 

(1)遊ばせる
(2)遊ばせない

 

[b] あなたが結婚を前提に交際中の相手から、ある日、被差別地区の出身であることを告白されたとします。あなたはどうしますか。

 

(1)別れる
(2)交際を続ける


 近代以前にあっては、職業と世襲的身分との結びつきが強かったため、職業差別=身分差別でありました。それが今日まで継承されているのがインドの「カースト制度」です。一方、もはや身分差別の実態を喪失しながら旧被差別身分の子孫が現在も集住しているとみなされる特定地区の住民が差別されるのが日本のいわゆる「部落差別」であり、本例題はこの問題に関わっています。
 
 こうした歴史的な身分差別に根源を持つ職業差別が例題1のような現代の「3K問題」とやや異なるのは、前者は本例題のように被差別者との社会的接触を避ける「不可触」という形態を取りやすいことです。インドの最下層カーストに属する人々がかつて「不可触民」と呼ばれたのは、その象徴です。
 
 中でも、[a]のように子供同士の不可触は、大人同士の場合とは異なり、親の“教育的配慮”という大義名分をもって正当化される転嫁的差別の典型例となりやすいのです。
 例えば、自分の子をA地区の子と遊ばせないという場合、その理由として「A地区には不良が多いから」といったことが挙げられるかもしれません。「A地区に不良が多い」ということが中傷でなく真実だとすると、一理ありそうに見えますが、A地区の子どもたちのすべてが不良ではない以上、この理由づけは一部の事例を一般化して差別を正当化する転嫁的差別となります。
 
 当然ながら他の地区と同様、A地区にも問題のない子どもたちが存在しており、あなたの子が遊びたがっているのは、そういう子かもしれません。我が子を不良と接触させたくないということであれば、それは何地区であろうと関係ないはずです。結局、どのように正当化しようとも、我が子をA地区の子とは一切遊ばせないという対応は、差別と言うほかないでしょう。


 一方、[b]はこれまでのレッスンでもしばしば出てきました結婚をめぐる差別問題です。ただ、今までの例はいずれも相手の容姿や人種/民族、病気などの個人的属性が被差別理由とされる場合でありましたが、ここでは出身地区という地縁に関わる事柄が被差別理由とされる点で複雑なところがあります。
 
 まず、あなたが相手の出身地区と全く無縁の土地の出身であれば(例えば、相手は関西出身であなたは北海道出身であるなど)、出身地区だけを理由に別れるというようなことはまずないでしょう。
 しかし、あなたの出身地が相手の出身地区と地理的に近いというような場合は問題が生じるおそれもあります。それでも、直ちに別れるという人は少ないかもしれませんが、あなたに別れるつもりがなくても、親をはじめとする周囲の反対に遭うということがあり得るからです。
 
 相手の個人的属性が問題であるならば、自分の結婚意志を押し通すこともできるでしょうが、地縁が絡んでくるとそれが難しいことがあり得ます。最終的に、周囲の圧力により別れざるを得ないこともあり得ますが、この絶縁はあなたの本意ではないから、差別には当たりません。この場合、差別したのはあなたに圧力をかけた周囲の人たちということになります。
 
 ただ、現行民法上、結婚はあくまでも当事者の自由な意思によってのみ成立し、親の同意は必要ありません。このことは憲法24条でも確認されている大原則ですから、周囲の圧力にかかわりなく、自分の意志を貫くことは包容行為と言えるでしょう。
 実は、戦後、憲法原則にまで高められた自由婚の原則は、本例題に典型的に見られるような結婚をめぐる差別を解消することをも目指しているのですが、慣習上、結婚に親や親類が干渉することが今日でもまだしばしば見られることから、結婚をめぐる様々な差別問題もなお残存しているわけです。

 

例題5:

[a] 被差別地区の生活環境改善や差別解消のために公費を投じて行われてきたいわゆる同和対策事業は税金の無駄使いだと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない
(3)わからない

 

[b] いわゆる再開発によって、被差別地区そのものを解体するという政策は適切だと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない

(3)わからない


 本例題は、より政治政策的な問題に関わってきます。昨今、「税金の無駄使い」排除論は盛んですが、それが真に税金の不当な浪費的支出を是正することを目指す議論と実践ならば、もちろん正当です。
 ただ、「税金の無駄使い」というフレーズが転嫁的差別の言説として用いられることもあり得ます。特に、それが本例題のような差別解消のための公的な施策に向けられているときには要注意です。
 
 “同和利権”といった用語も、同和対策事業に関する否定的な文脈の中でしばしば聞かれることがあります。たしかに、同和事業絡みの汚職事件もあったりするようですが、従来、日本社会の利権腐敗は広い範囲に及んでおり、同和関連だけではないにもかかわらず、ことさらに“同和利権のみを問題視するのは、社会正義に仮託した転嫁的差別の疑いもあります。
 
 とはいえ、実際、同和対策がそうした利権的問題を生じさせる背景には、同和対策事業の方法や内容をめぐる問題点も伏在しているように思われます。
 そもそもこの同和対策事業は根本的に部落差別そのものを克服することよりは、被差別地区に対する様々な利益供与を通じて、対象地区の生活環境の改善を図ることに力点があり、本質的に行政主導性の強い施策です(そのため、1980年代からは「地域改善対策」に名称変更されました)。
 
 その点、近世の都市でも清掃や夜警その他一定の公共的仕事を委託していた最下層民の共同体に祝儀のような形で一種の生活援助を与えていたことが知られていますが、同和対策という施策にはこのような前近代的施策の現代版としての側面も認められるのではないでしょうか。なるほどそうした施策によって生活改善などの実際的効果が上がった面はあるにせよ、それはむしろ差別の構造を温存するものであり、根本的な差別の解消にはなお遠いのではないかと考えられるのです。
 
 あえて大胆に提起するなら、同和対策とは懐柔の意味すら帯びた一種の利益差別政策ではなかったでしょうか━。
 国レベルの同和対策事業は2002年をもって終了した現在、同和対策事業の功罪について現代史的な視点からの検証を行う必要があるでしょう。このことは事業を「無駄」という視点から「仕分け」するのとは意味が違います。「無駄」という功利主義的な視点から「仕分け」(=選別)するのは、対象が生身の人間であれば、生きるに「値する者」と「値しない者」(=無駄な人間!)の選別という発想ともだぶってきかねないところがあります。そうした意味で「無駄排除」といったスローガンが不用意な形で普及することには懸念もあるわけです。
 
 一方、[b]の事例はもはや同和対策というレベルのものではなく、そもそも被差別地区そのものを再開発によって解体し、なくしてしまおうという策です。「被差別地区」なるものが残されているから差別が残存してしまう━。そういう発想に立って差別の根元を絶ってしまおうという趣旨です。
 
 この発想には、障碍者差別に関連してレッスン2で見た出生前診断と似たところがあります。出生前診断を奨励する立場は、診断結果に基づいて障碍のある胎児を中絶すれば、そもそも胎児性障碍者がこの世に生まれないことになり、差別もなくなり、教育・福祉に公費を使う必要性もなくなるという発想によっています。それだけに、事実上先天性障碍者の存在価値を否定するに等しい差別思想ではないかという批判も強いのでした。
 
 被差別地区解体論も、同様にそもそも被差別地区が存在しなければ差別は消滅し、「対策」も必要なくなるという発想をとる点では出生前診断と似ているのですが、異なる点もあります。
 障碍はそれを「個性」とみなす当事者がいるほど個人的なアイデンティティともなり得る属性であるのに対し、非差別的地区は近代以前に最下層階級に落とされた人たちが生きていくために形成を余儀なくされた共同体を沿革とするものとされ、これを障碍のような個人的属性と同視することはできません。
 
 本来あるべきでなかった被差別階級のゲットーのような地区は存在しないほうがよいのではないでしょうか━。
 もちろん、被差別地区解体といっても、そこに代々住み続けてきた人たちを強制転居させるようなやり方ではなく、旧住民の継続的な居住権を保障しつつ、宅地開発によって新規住民も受け入れ、地名変更を伴う様々な街作りを推進するのです。そして、被差別地区出身の新しい世代の人たちが全国に散らばり、一般市民化されていけば、部落差別は歴史書の中にだけ収められることになるでしょう。
 
 以上、冒頭でも指摘したとおり、本例題は本連載の中でも政治性の強い問題で、当事者からの異論もあり得るところと思われますので、今後実りある社会的な論議が必要でしょう。