差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第3回)

一 差別とは何か(続き)
 
 前回見た「差別=劣等視」という命題から、第四に、差別とは「視線」に関わるということが導き出せます。
 差別とはまず、対象たる人間を「見る」こと、そのうえでその「見た目」から優劣評価をし、劣等者に軽蔑の視線を送ることです。従って、差別とは人間関係上のトラブルから生じた単なる仲間外れとも違うし、共同体的な制裁としての村八分のようなものとも異なります。
 
命題3:
差別は、劣等者とみなされた者の視覚的表象(イメージ)を言葉で表したものである。
 
 差別は視線に関わるということをもう少し突き詰めていきますと、差別は言葉と密接不可分であることがわかります。いわゆる「差別語」と呼ばれる単語のリストが世界中の言語に存在していることがその何よりの証拠です。 
 そして、その差別語の多くは劣等者の「見た目」に対する否定的評価を言葉で表現したものです。例えば、太った人に対する「デブ」とか「ブタ」といった表現や、肌の色の黒い人種に対する「黒ん坊」といった表現はその典型例です。

 ただ、差別はこうした侮蔑的な形容表現だけで語られるものではなく、もっと言説的に練り上げられて、一つの思想にまで昇華されていくことも少なくありません。その場合には、劣等者に対置されるべき者の優等性をことさらに強調する優越主義的な言説形態を取るのが一般です。
 その代表例が白人優越主義思想です。これはコーカソイドまたはユーロポイド(白人種)をニグロイド(黒人種)やモンゴロイド黄色人種)よりも優等的な人種であるとみなす典型的な人種差別思想です。
 このように思想にまで昇華された差別言説にあっても、それは決して単純な抽象的観念論ではなく、やはり「視線」から出発しています。例えば、白人優越主義思想において、黒人は肌の色の黒さばかりでなく、分厚い唇、扁平な鼻、縮れ毛といった典型的な黒人の身体的特徴が劣等視され、奴隷貿易時代には黒人は“動物”としての扱いを受けたのでした。
 また同様に、黄色人種に対しては出っ歯とか短足といった身体的特徴をとらえて、中国人や日本人が猿として表象されることが少なくありません。
 一見してもっともらしく聞こえる思想化された差別言説も、その正体は「デブ」とか「ブタ」とかいった類の稚拙な差別語と本質上大差ないものなのです。

命題4:
差別と酷似するが区別されるべきものに、不浄視、危険視、異常視の三つがある。
 
 ここで、特定の個人または集団を遠ざけることになるため、差別と酷似し、よく混同されやすいものを三つ取り上げてみます。
 
 一つ目は、特定の個人または集団を不浄とみなして遠ざける不浄視です。日本社会で古来、民間信仰の中によく見られたケガレはその例です。
 この不浄視にあっては通常、対象を穢れているとみなして遠ざけることから、差別と極めてよく似ています。実際、不浄視は差別と同視されることも多いです。
 しかし、不浄視とはあくまでも宗教的な観点からする忌避であって、劣等視とは異なります。従って、時間の経過や何らかの儀礼(例えば祓い)によって浄化が認められ、忌避が解除されることも多いのです。
 ところが、場合によっては、職業の内容などから、不浄性が特定人間集団に永久的に付着していると認識されるために、その集団が不浄視を超えて劣等視されるに至ることがあります。日本におけるいわゆる部落差別の歴史的な根元である「えた(穢多)」・「非人」に対する差別などは、それらの呼称とともに、そうした不浄視が差別に転化された一例です。
 このように、不浄視はそれ自体として差別なのではなく、それが劣等視に転化していったときにはじめて「差別」となるのです。
 
 二つ目は、危険視です。例えば、欧米や日本などでイスラーム教徒をテロリズムと結びつけて危険視するということがあります。これも一見して差別と似ていますが、この場合もイスラーム教徒を必ずしも劣等視しているわけではなく、テロリスト予備軍ないしテロリストそのものと決めつけているのです。
 ただ、このような決めつけは一つの偏見と言うべきもので、イスラーム教徒一般を犯罪者扱いにして劣等視することと紙一重ではあり、実際の事例では差別とみなして差し支えない場合も多いでしょう。
 
 三つ目は、異常視です。例えば、同性に対する性的指向を示す同性指向者を異常視するような場合がそれです。
 異常なものは通常遠ざけられますから、これも差別と区別しにくいですが、異常なものが劣等視されるとは限りません。異常なものはかえって遠ざけられつつも好奇心の対象とされたり、場合によってはある種のフェティッシュな崇拝の対象とされることすらあるからです。
 ただ、同性指向者の場合、「ホモ」とか「オカマ」などの蔑称によって異性指向者よりも劣等的な者とみなされることも少なくなく、そうなると、これは差別と言わざるを得なくなってきます。
 
 以上の三つを差別と区別するのは、誰かを排斥するようなこと全般を何もかも“差別”として言い立てますと、言わば差別のインフレーションのような状態が生じ、本当に問題化すべき差別を見逃しかねない恐れがあるからなのです。