差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

立花隆の「めくら」発話をめぐって

「知の巨人」とも称される評論家の立花隆がNHKの報道番組中で「めくら」という言葉を使ったことについて、番組キャスターが「おわび」コメントをした経緯をめぐり、「言葉狩りだ」という立花擁護論が起きている。
 
番組というのは、本年度ノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章東大宇宙線研究所長の研究業績をテーマとする「クローズアップ現代」12月3日放送分で、立花氏はコメンテーターとして出演した。
 
ネットニュースに引用された問題部分は、こうなっている。「カミオカンデ以前は、ニュートリノが見えなかった。見ないというのは、ないのと同じことなんです。世界中の学者が『めくら』同然の状態だった中で、日本だけが観察できた。」 ※カミオカンデとは、岐阜県神岡鉱山地下にある素粒子ニュートリノ観測施設のことである。
 
言葉狩り」説によると、差別語かどうかは言葉が使われた文脈で判断されるべきで、この発話文脈における「めくら」は視覚障碍者そのものを指称する言葉としては用いられていないから、差別語に当たらないと想定するようである。従って、これを差別語として謝罪し、取り消すのは、「言葉狩り」だというのである。
 
たしかに、差別語かどうかは、文脈によって定まる。その前提は正しい。そうでなければ、例えば本記事で「めくら」という言葉を明示することすら、差別語使用として許されなくなり、そもそも差別について議論すること自体が不能となってしまう。
 
しかし、「めくら」という言葉を視覚障碍者を直接に指称する文脈で使用していないから、差別語に当たらないというのは早計である。たとえそうであっても、特定の人やその集団を蔑視するようなたとえ話として引き合いに出す文脈で使用しているのなら、間接的に差別語となるのである。
 
上掲の立花発話における「めくら」という語は、カミオカンデ発明以前は、素粒子ニュートリノが可視化できなかったことを視覚障碍にたとえて用いられている。ここでは、ニュートリノが目に見えなかった遅れた時代を否定的にとらえる中で、視覚障碍者が引き合いに出されているのであるから、間接的に視覚障碍者を蔑視していると言わざるを得ないのである。
 
ちなみに、これは差別問題から離れるが、「見(え)ないというのは、ないのと同じことなんです」という論断も大いに疑問である。まさにニュートリノがそうだったように、見えなくとも微細な物質としては「ある」。ここでは、存在とそれに対する知覚(視覚)の問題とが混同されている。「知の巨人」によるこのような非科学的な認識が、不用意な「めくら」発話を導く伏線となったとも解析できる。
 
ところで、NHKでは今年5月にも、別の朝番組で俳優の市原悦子が「かたわ」「毛唐」という差別語を使用したことを番組司会者が謝罪する一件があった。
 
この時の問題部分をネットニュースから引用すると、こうである。「私の『やまんば』の解釈は世の中から外れた人。たとえば『かたわ』になった人、人減らしで捨てられた人、外国から来た『毛唐』でバケモノだと言われた人」 ※「やまんば」は日本昔話に登場する老女の妖怪キャラクター。
 
これだけ取ると、身体障碍者や外国人を差別する発話とも言えるが、市原の発話には続きがあり、彼女は「やまんば」に魅力を感じるとし、「かれらは反骨精神と憎しみがあって他人への攻撃がすごい。そのかわり[代わり?]心を通じた人とはこよなく手をつないでいく。その極端さが好き」とも述べていたのである。
 
ここでは、しばしば社会のアウトサイダーとされがちな身体障碍者や外国人にたとえられた「やまんば」が魅力的な存在として肯定的に語られており、その文脈で「かたわ」とか「毛唐」といった差別的他称が引き合いに出されている。つまり間接的には、身体障碍者や外国人への発話者の共感が込められているとも言える。この点で、「めくら」を否定的文脈で引き合いに出した立花発話とは発話構造が根本的に異なっているのである。
 
結論として、立花「めくら」発言は×だが、市原「かたわ」「毛唐」発言は○ということになる。ただし、瞬時に社会に伝わる放送の影響力の大きさを考えると、非差別的文脈であれ、「かたわ」「毛唐」などの言葉は、よほどの必然性がない限り使用を控えるのが無難ではあろう。
 
最後に、「言葉狩り」という言葉であるが、放送局が放送禁止用語をマニュアル化し、倫理基準として出演者に遵守を求めるのは、強制力を伴った検閲などとは異なり、「言葉狩り」には当たらない。ましてや、その基準に反してすでに発せられてしまった言葉を番組進行者が事後的に謝罪し、取り消すことは全く「言葉狩り」ではない。