差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第17回)

レッスン1:容姿差別(続き)

例題5:
[a] 自分の容貌に劣等感を抱く親友から悩みを打ち明けられたとして、あなたならどう対応しますか。

 

(1)美容整形をすすめる
(2)容貌に自信を持つように励ます

 

[b] あなた自身が容貌のゆえに差別されているとしたら、そのことを恥じますか。

 

(1)恥じる
(2)恥じない

 
[c] あなた自身が容貌のゆえに差別されているとして、美容整形術を試そうと思いますか。

 

(1)思わない
(2)思う

 
 例題5(及び例題6)は、容姿をめぐる親友や自分という身の回りの人との関係性に関わる問題です。

 
 準備練習となる[a]は、親友からの相談への対処法です。回答としては(2)の「励ます」が包容行為であることは明らかですが、(1)のように美容整形をすすめることも、親友への親切心からのアドバイスなら、必ずしも差別行為ではありません。ただし、それは容姿差別を前提としての「親切」なアドバイスであるということも否定できませんから、推奨される回答ではないことも確かです。

 
 一方、[b]は理論編でも差別の深刻な要因として検討した自己差別に関わる設問で、ここでの練習の中心です。[a]の問いに対して「恥じる」と回答する人は、自分で自分を劣等視し、差別していることになります。

 
 容姿に関するこうした自己差別は普遍的に見られる現象です。そうであればこそ、美容整形をはじめとする様々な美容術が商業的に提供され、中には医学的に危険な施術に走って命を落とす人もいるありさまです。そこまでいくと、生命まで丸ごと自己を疎外してしまっているのだと言えます。
 そうした自己疎外状況から抜け出すには、理論編でも指摘したように、まず自己差別が他者による差別を下支えしているという事実への鋭い自覚が必要です。つまり、自分の容姿に対する劣等意識を持つことは容姿差別を助ける共犯行為なのです。 
 
 それでは、容姿を矯正するための美容整形等の方策は、絶対的なタブーとみなすべきなのでしょうか。そうではありません。[b]の問いに対して、自分自身の容姿を「恥じない」と回答しつつ、[c]の問いに対しては容姿を矯正するための方策を「試してみたいと思う」とするのは決して矛盾ではありません。
 こうした行動は、理論編でも見たように、差別からの自衛行為として認めることができます。特に、例題1でも取り上げた顔面に大きなこぶがあるなどのケースで、医学的な治療の必要性・有効性が認められるような場合です。
 それ以外の純粋に審美的な観点からの矯正の場合でも、果たして自分の容姿を恥じて矯正するのか、恥じないが自衛的にそうするのか自身の中でも区別が微妙な場合がありますが、理屈のうえで両者は区別することができますし、区別すべきものでもあると言えます。

例題6:
[a] 自分の肥満体型に劣等感を抱いている親友から悩みを打ち明けられたとして、あなたならどう対応しますか。

(1)ダイエットをすすめる
(2)劣等感を持たないように励ます

 

[b] あなた自身が肥満体型のゆえに差別されているとしたら、そのことを恥じますか。

 

(1)恥じる
(2)恥じない

 

[c] あなた自身が肥満体型のゆえに差別されているとして、ダイエットを試そうと思いますか。

 

(1)思わない
(2)思う


 本例題は、例題5の変形問題で、容貌を体型、特に差別されやすい肥満に置き換えただけです。体型は容貌とともに広い意味での容姿に含まれるので、体型による差別も容姿差別の一類型となります。そのため、基本的には例題5と同じことが当てはまります。

 
 ただ、例題5では美容整形に否定的ながら、ダイエットには肯定的という考えもあり得ます。ダイエットは美容だけでなく、健康増進策としてもしばしば推奨されるからです。そのように健康増進策としてダイエットをとらえるなら、差別問題とは切り離して考えることができますが、美容と健康はしばしば混在していることがあります。

 
 ちなみに、個人的な好みに左右されやすい容貌の良し悪しと異なり、体型の良し悪しは比較的客観的に評価できると思われるかもしれませんが、文化的には特に女性の肥満体型を美とみなす国もあり(参照外部サイト)、肥満が全世界で劣等視されるわけではないということも知っておく意義があるでしょう。そうした諸国では、例題6はそもそも意味を成さないわけです。

 

例題7:
あなたが病気や負傷がもとで全盲になったとします。あなたが今、向かい合っている人がどのような人かをどのような方法で判断しますか(自由回答)。


 この問題は理論編でも一度取り上げた「全盲の倫理」及び「引き寄せの倫理」の実践的な復習です。その答えは全盲者に聞いてみれば簡単でしょうが、まずはご自身で想像してみてください。全盲であれば、向かい合っている人がどんな容姿なのか知る術はないので、容姿で判断することはできません。どうしたらよいのでしょうか。
 耳が聞こえる限り、耳を使うこと、すなわち聴くことです。まずは見えない眼前の相手と話してコミュニケーションを取ることで、相手がどのような人なのかを想像してみる以外にないからです。

 
 有視覚者にとってこのような識別法は、いかにも心もとなく思えますが、やはり理論編で取り上げた「キノコ選びの鉄則」でも述べた通り、見た目で即断することのほうがより危険です。その点、ラテン語のことわざに、Fronti nulla fides. というものがあります。意味は、「外見は信用できない」ということで、まさにキノコ選びの鉄則と同じことを警告しています。