差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第18回)

レッスン1:容姿差別

〔まとめと補足〕

 理論編でも述べたとおり、容姿差別はあらゆる差別の出発点に位置するがゆえに、実践編でも最初のレッスンのテーマとなりました。近年は、容姿差別(lookism、discrimination by appearance)への問題意識が少しずつ高まっているとはいえ、差別問題を扱う専門書でもあまり重視されない傾向にあるので、容姿差別が差別問題の一丁目一番地であることを改めて強調しておきたいと思います。実際、後々見ていくように、一見すると容姿と無関係と思われる事例でも、解析していくと容姿差別の要素が認められる場合が多々あるのです。
 
 なぜ容姿差別があらゆる差別の出発点かといえば、人間は視覚的情報に依存する度合いが高い「見る」動物であり、他の人間を認識・評価するにあたっても、まずは「見た目」から入ってしまう傾向を免れないからでありました。
 ただし、人間の容姿に関する美/醜の価値基準に世界共通の絶対的な尺度があるわけではなく、各民族・部族の伝統的な美意識が文化的な尺度として機能しているにすぎません。従って、同じ人間の容姿が別の民族・部族の尺度では全く正反対の評価を受けるということもあり得るわけです。そのうえに、同一の文化圏に属していても、個人ごとの好みによって、美/醜の価値基準は分かれていきます。
 
 しかし、今日では人間の容姿に関わる美/醜の価値基準を芸能プロダクションと呼ばれる資本が掌握する傾向が著しく高まっています。こうした芸能資本が男女の芸能人の商品カタログを提供し、美/醜の相場がこれによって規格品的に決められていく傾向にあるからです。人の容姿を評するのに、「○○似」というように実在する芸能人との比較が持ち出されたりするのもそのためです。
 この相場表にあっては、もはや文化的な美意識よりも、人間=商品として芸能市場へ出荷できるかどうかが決定的なポイントとなりますから、画一的であり、かつ男女不問で、男性の容姿も査定対象となります。
 
 その点で、伝統的な美意識による評価では、主として女性の美/醜が問題とされてきた―そこには、女性を男性の目を保養する対象物とみなす慣習的な性差別が潜んでいたのでしょう―のに対し、男性の容姿も問われることはある意味での「男女平等」なのですが、それはとりもなおさず、人間の容姿差別(選別)が無差別的に行われる土壌を作り出すことにほかならないという点では恐るべき事態でもあります。
 
 容姿差別の厄介さは、多くの場合、表面化しないということにあります。従来から企業・団体等における女性職員の採用に際して容姿が「裏基準」となっていないかということが疑われてきましたが、まさしく「裏基準」となっている場合、証拠が残らないので、法的な追及も困難です。
 まして、学校や職場で日常的に生起する容姿差別の多くは陰口や態度等による嫌がらせのような暗示的な形態(陰口・嫌がらせの電子版として、インターネット上への中傷的書き込みを含む)を取ることから、被差別者当人も気がつかないことさえあります。
 
 また、容姿差別は、理論編でも見た反転的差別の形を取りやすいことも、この差別を深刻なものとします。すなわち、自分自身の容姿に劣等意識を抱く者ほど、自分より劣等的な容姿の者を「発見」すると、自身の劣等意識の反転作用として差別行為に出ることがあります。こうした容姿差別は根の深い根源的な差別であるがゆえに、その克服のためには、法的救済もさりながら、学校教育を通じて幼少期から全社会成員に教化していくことが重要であると考えます。それは同時に、いじめ防止の良い対策ともなるはずです。