差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第13回)

八 差別克服の実践練習(続き)

  差別克服の実践練習の本番は、後に本練習帳の各論で差別の個別的な分野ごとに練習問題を通じて展開されますが、ここでは、それに先立って、より準備運動的な差別克服のトレーニング方法について見ていきます。
 差別の準備運動的トレーニングは、全般的な差別克服に通ずるある種の心理学的な自己訓練法になります。ここでは、四つのトレーニング法を比較的易しいものから順に取り上げて説明します。

 

命題36:
キノコ狩りでキノコを選ぶ際、その有毒/無毒を区別するに当たり、色・形など表面だけで即断するのは危険であるのと同様、他者を認識する際も、その外見だけで即断するのは危険である。

 
 最初のトレーニングは、題して「キノコ選びの鉄則」です。

 
 キノコには無毒のものと有毒のものとがあることは知られていますが、キノコの毒性を判断するうえで、キノコの外見を基準にしたら、どうなるでしょうか。例えば、美しい色柄のキノコだからさぞ美味であろうとか、地味な色柄のキノコだから無毒だろう等々です(その逆もまた然り)。
 
 キノコの毒性はその外観だけでは判断できません。案外、毒キノコは地味な姿をしているかもしれませんし、逆に派手な毒キノコがあるかもしれない。専門家によると、キノコ選びには様々な迷信があるそうですが、結局のところ、見分け方に法則などなく、一つ一つ図鑑に当たって覚えるしかないそうです。

 
 まして人間の危険性は外見には全く現れません。「こわもて」と評される容貌は存在しますが、当然ながら「こわもて=危険人物」ではないし、逆に「やさおとこ=優しい男」でもありませんし、「美男美女=善人」でもありません。御用心!
 一見優しそうな、あるいは美男美女の危険人物に財産や貞操、果ては生命まで奪われたくなければ、人間の人格判断においても、キノコ選びと同様に、外見に頼ってはならないことが鉄則となるのです。

 
 もっとも、これは反差別のトレーニングというより、悪意を持った人間から各自の身を守るための秘訣、ある種の生活の知恵のようなものではありますが、これを実践することで、結果的に容姿差別や人種差別、障碍者差別など、人を外見で差別する習慣を脱することができるようになります。 

 

命題37:
全盲者は他者と向き合うに当たって視覚には一切頼れないため、相手とコミュニケーションを取ることで相手方の意図や感情を察するという方法によって生活している。それと同様に、有視覚者も全盲者になったつもりで、相手の容姿外見にとらわれず、公平に接するように心がける。

 

 二番目のトレーニングは、「全盲の倫理」です。

 

 全盲者にとって、視覚に頼らない判断方法は、倫理という以上にまさしく生活の知恵そのものとなります。例えば、目の前に向かい合っている人の場合でも、その容姿を視覚的にとらえることができないので、容姿の美醜を判断することもできません。相手がどんな人物かは、会話してみて容姿不問で判断するほかないわけです。
 
 従って、全盲者は容姿差別をしようにもできません。全盲者にとって、視覚的な美醜は想像と観念の世界でしかないのです。そのため、かれらは反差別をことさらに意識せずとも、自ずと容姿差別の加害者とはならないのです(被害者となることは、あり得る)。

 
 これに対して、有視覚者にとっては、「キノコ選びの鉄則」から一歩進んで、あえて自身の視覚的認識を制約し、視覚から意識的に離れるという自覚的な実践ですので、「倫理」の域に入ってきます。
 この場合、有視覚者は全盲の自分を想像してみるという観念操作が必要になりますが、目隠しをしたり、夜間に明かりをすべて消した状態で未知の人と対面してみることによって、疑似的に全盲を体験することもできますから、この倫理のトレーニングは必ずも難しくはないでしょう。

命題38:
視覚の有無を問わず、他者と向き合うに当たって、自身のあらゆる固定観念や偏見をいったんすべて棚上げして、白紙の状態で他者と接することを心がける。

 
 三番目のトレーニングは、「白紙の倫理」です。

 
 「全盲の倫理」も、視覚を意識的に白紙状態にしたうえで相手と向き合おうとする限りでは、「白紙の倫理」の一部なのですが、「白紙の倫理」はそれを拡大し、例えば同性指向者(同性愛者)や犯行者(犯罪者)など、道徳的な固定観念や偏見から差別感情を持ちやすい他者に対しても、そうした固定観念や偏見をいったん棚上げして、白紙の状態で臨もうというものです。

 
 その点、「全盲の倫理」は、目隠しなどによって疑似体験も可能でしたが、「白紙の倫理」はそのような物理的な疑似体験ができず、頭の中で操作する部分が多いため、難易度が高くなります。しかし、実践の方法がないわけではありません。
 
 その秘訣は、長年体得してきた固定観念をいきなり捨てられなくても、意識的に物事の優劣評価をやめてみることです。例えば、犯行者であっても、罪人を人格的に劣った人間と評価する意識をいったん停止してみるのです。そうすると、その人物の別の側面が見えてくるでしょう。言わば「心の目隠し」をしてみるのです。

命題39:
差別を他人事として自分自身から遠ざけて考えるのではなく、自分自身を差別される他人に置き換え、自分自身が差別される立場であったらどうか、と我が身に引き寄せて自問してみることを心がける。

 
 四番目のトレーニングは、「引き寄せの倫理」です。これは、四つのトレーニングの中でも究極的なものとなります。
 
 これが何故に究極的かと言うと、前の三つはいずれも差別を他人事と想定したうえで、その差別される他人を偏見なく公平にとらえ直す練習だったのに対し、「引き寄せの倫理」は差別を我が身に引き寄せ、苦痛を感じることを想像の中で追体験するというプロセスとなるからです。

 それだけに、この実践訓には困難が伴います。それは想像力を必要とするからです。想像力は人間が持つ重要な力能の一つではありますが、誰にも均等に備わっているようではなさそうですし、またどんな場面・状況でも発揮できるものでもないようです。
 
 簡単な例を挙げますと、両眼視力が正常なあなたが全盲者となった自分を想像してみることができるでしょうか。実はこのような想像プロセスは、かの「全盲の倫理」の中にすでに埋め込まれているものですから、これは困難ではないかもしれません。
 
 では、日本人であるあなたが朝鮮人やアフリカ人(黒人)であったりする自分を想像してみることができるでしょうか。さらには、異性指向者であるあなたが同性指向者である自分を、また犯歴のないあなたが、窃盗犯や殺人犯である自分を想像してみることは?
 ここに挙げた例は、もはや俳優として演じるような状況に置かれない限り実践できないと思われるかもしません。しかし、すぐれた俳優は与えられた役に「なり切る」と言われます。素人がその域に達するのは難しいでしょうが、演技も人間技の一つなのですから不可能ではないはずです。

 
 さて、以上の四つの準備運動的トレーニングは、常に習慣的に取り入れていくことで、差別克服が可能となりますが、漠然としたトレーニングだけではまだ不足です。そこで、続く各論においては、10個の個別的な差別の領域ごとに具体的な例題を通じて練習をしていきます。