差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第44回)

レッスン9:年齢差別(続き)

 

例題3:

認知症が進行して認知機能が著しく低下した高齢者に対して、幼児のように接することは適切な態度だと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない
(3)わからない


 かつては「痴呆症」などと差別的な学術・行政用語で呼ばれていた老人性疾患が「認知症」という新語に変更されても、高齢者への虐待は絶えないようです。こうした虐待は「差別」というよりも「人間の尊厳」の問題としてとらえるほうが適切と思われます。しかし、高齢者虐待という態度のうちには、身の回りのことを自力でこなす能力を喪失した要介護高齢者に対する蔑視も含まれており、その観点からはこれを高齢者差別の問題としてとらえることができるでしょう。
 

 もっとも、本例題は虐待そのものではなく、認知症の進行した高齢者に幼児のように接する態度の是非という変則的な問題です。虐待の多くは家庭内で発生するのに対し(残念ながら、時折施設内でも)、幼児に対するような接し方は老人ホーム等の介護職員の態度にしばしば見受けられます。
 こうした高齢者の幼児扱いは表見的には虐待の対極にあることから、認知症によって物事が理解できなくなり、幼児に返った(と解釈されている)高齢者に対する「優しい」接し方として案外介護専門職によっても容認されているように見えます。
 

 しかし、表面上幼児のようになっているとしても、それは認知症のせいであって、近年の知見によれば認知症が進行しても言葉にならない動機や感情はかなりの程度残存しているとも言われるので(外部記事参照)、本当に幼児返りを起こしたわけではなく、高齢者が長い人生を刻んできた成人であることに変わりありません。
 そのような成人を幼児扱いすることは、それがいかに「優しい」態度であっても、そこには能力を喪失した高齢者への見下しの視線が伏在してはいないでしょうか。これはちょうどレッスン2で見た「障碍者への同情」という態度にも通ずる利益差別の一形態ととらえることも可能です。
 
 このような結論には疑問を感ずる向きもあるかもしれません。たしかにこれは難問ですから、以上が唯一の正答というわけではありません。各自でさらに省察を深めていたいただくことを望みます。

 

例題4:

[a] アンチ・エイジングは人間の理想だと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない

 

[b] ([a]で「思う」と回答した人への質問)その理由は何ですか(自由回答)。


 昨今はアンチ・エイジング流行りのようですが、アンチ・エイジングを差別との関わりで引き合いに出すことをいぶかる向きもあるでしょう。しかし、アンチ・エイジングとは単なる「老化防止」とは異なり、文字どおりにとれば「反・老化」であって、老化に対して明確に否定的な価値観に立った美容健康の理念と実践です。
 
 もっとも、アンチ・エイジングを広義にとると、内臓の健康や精神的な若さを保つといった「内面」の反・老化を含むとも考えられますが、世上アンチ・エイジングは容姿の若さを保つという「外面」の反・老化に圧倒的な比重が置かれています。[b]の設問で尋ねたアンチ・エイジングを理想とする理由としても、「見た目の若さをいつまでも保っていたいから」といった理由が多いのではないでしょうか。
 
 前回の例題1でも若干示唆したように、高齢者はその容姿の衰えを醜悪なものとして蔑視されます。「しわくちゃ」といった形容は、その典型的な差別語です。また「よぼよぼ」といった形容も、基本的には足腰の衰えを蔑視するものではありながら、同時にそうした足腰の衰えた弱々しい容姿を蔑視する表現でもあります。
 アンチ・エイジングという語も、これを差別語と断定すれば反論があるかもしれませんが、この語は少なくともその反面において高齢者を差別するニュアンスを含んでいるので、反面差別語には当たると考えるべきでしょう。
 
 もっとも、当の高齢者自身がアンチ・エイジングを実践しているならばどうなのでしょうか。これはレッスン1でも取り上げた美容整形の問題と類似しています。そこでは自身の容姿を醜いとみなして美容整形するのは自己差別であると理解しました。同じように、自らの「しわくちゃ」「よぼよぼ」の将来的な容姿を醜いと感じ、アンチ・エイジングに励む高齢者も一種の自己差別を実践していることになります。
 
 ところで、例題では尋ねていませんが、設問[a]でアンチ・エイジングを人間の理想とは思わないとする人の理由は何でしょうか。答えはいろいろあり得ますが、人間は年相応の容姿を持っていても恥じる必要はなく、大切なのは「外面」より―内臓も含めた―内面である、ということでしょうか。
 だとすれば、これも理論編で見た命題30「内面性の美学」に帰着することになります。つまり、差別の問題とは容姿差別に始まり周回して再び容姿差別へ立ち戻ってくる性質を持つ問題なのです。