差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第39回)

レッスン7:知能差別

〔まとめと補足〕

 本連載旧版のレッスンでは、「能力差別」というより広範なタイトルをつけていたのですが、全面改訂に当たり、範囲を狭めて「知能差別」に改題しました。
 続く職業差別、年齢差別と、いずれも広い意味では「能力」に関わる差別に包含されますが、あらゆる「能力」の土台として「知能」があるので、知能差別が出発点となります。ここでは、それらすべてを包括した「能力差別」について、まとめと補足を試みます。

 
 能力差別という問題は、そもそもそれを「差別」と認識すること自体が困難なテーマです。例題でも触れたように、能力は人間に対する正当な評価基準であるから、有能/無能で人間を分けることは差別などではなく、正当な選別(=選抜)だという考え方もあり得るからです。
 しかし、能力差別をめぐっては、一般的に無能をあげつらう言葉として、「馬鹿」「阿呆」「低能」「のろま」「まぬけ」「ぼけなす」等々の差別語が豊富にありますし、知的障碍者に対しても「白痴」「知恵遅れ」などの差別語があり、レッスン1の容姿差別に匹敵するほど差別語の宝庫となっています。能力差別は厳然として存在しています。
 
 こうした能力差別は、日常「差別」として認識されることが少ないわりに、究極的には優生思想とも結び合って、すべての差別事象の根底を成します。最終的にすべての被差別者は、何らかの形で「無能」の烙印を押されると言ってよいでしょう。
 理論編で見た差別の体制化としてのファシズムの中でも極限を見せつけたナチスが、社会淘汰論とともに強固な能力主義・エリート主義の綱領を携えていたことは、決して偶然ではありません。
 ナチスはその25か条綱領の中で、「有能かつ勤勉なすべてのドイツ人に、より高度な教育を受けさせ、もって指導的な地位に進ませるために、国家は国民教育制度全般の根本的な拡充について、考慮を払わなければならない」(20条)と謳っていましたが、この一文の「ドイツ人」を「日本人」に置き換えてみると、そのまま日本の能力主義者のスローガンとしても使えるかもしれません。

 
 ちなみに、ナチスの上記綱領では、先に引いた部分の後に、「我々は、身分または職業のいかんを問わず、貧困者の両親を持ち、精神的に特に優れた資質を持つ児童の教育を、国庫負担により実施することを要求する」とも付加しています。
 これを読むと、一見して貧困家庭子弟にも開かれた教育機会の均等化を掲げているように思えますが、ここでも、ナチスが目指したのは「精神的に特に優れた資質を持つ児童」―それは知的にも優れていることを前提とする―の国家による選抜エリート教育なのです。
 理論編で近代的差別の三源泉として指摘した第一のもの、優生学やそこから派生した社会進化論は、角度を変えてみれば、能力差別の正当化理論であるとも言えます。そうであればこそ、優生学の祖ゴルトンも「遺伝的天才」を称揚し、人為選択(=人間品種改良)による天才の継承といった構想も打ち出していたのでした。
 
 それでは、能力差別の克服のためにはどうしたらよいでしょうか。おそらく「何事かができる」ということを言い表す「能力」という概念そのものを廃棄することはできないでしょう。しかし、「能力」という概念を人間を査定・選別する指標として用いることをやめることならできます。
 元来、「能力」は相対的です。それは能力査定法として現代社会で多用される試験を例に取るとよくわかります。ある試験で何点を基準点とするかによって、優等/劣等の基準は著しく変わってしまいます。そこで、偏差値のように全体における相対的な位置づけを示す指標が持ち込まれますが、これはもはや相対評価の極致です。
 また、ある分野では高い能力を示す人が別の分野では低い能力しか示さないということは、ありとあらゆる分野で高い能力を示す「超人」など現実には存在し得ないことからして、ごく普通のことです。
 
 こうしてみると、「能力」とは、限られた分野における相対的な技量の度合いを評価する指標にすぎないことがわかります。「何事かができる」ということはもちろん悪いことではありませんし、それは称賛や名声を獲得する手がかりともなりますが、そのことを「能力」という相対概念によって査定・選別対象とする必然性はないのです。
 知能指数のようにやむを得ず能力の科学的指標化を行う場合でも、例題1に関連して指摘したように、それは知的障碍の発見と適切な療育へ結びつけるための手段として位置づけられるべきでしょう。
 
 ただし、一つだけ現状ではどうしても「能力」による査定・選別を廃止できない理由があるとすれば、それは次のことです。すなわち、資本主義経済は人間の労働能力に対して賃金という形で金銭評価をせざるを得ないということ、要するに労働力の商品化です。これは、理論編で近代的差別の三源泉の第三のものとして指摘した近代経済学とも密接に関連してきます。
 企業が労働者の労働能力を査定するのは、能力を厳格に評価して賃金を抑制する、反対に割増評価して労働意欲を高めるといった経営戦略からのことですし、学校の成績評価ですら、それは専ら将来の労働力としての値段に関わる優劣評価の意味を帯びています。
 
 そうだとすると、差別につながるような「能力」概念の利用を廃するためには、資本主義そのものの廃止も必要なのでしょうか━。このような問いはもはや本連載の主題を超えてしまうため、ここで立ち入ることは避け、各自の究極的な宿題とします。