全訂版まえがき
本連載は、筆者が10年前に別ブログにて連載した同名の連載を、その後の考察や情勢変化、新情報等を踏まえて全面的に改訂したものです。最も大きな改訂点としては、実践編で扱う各差別事象の並び順を変え、体系的により整理した形にしたことですが、各項目で扱う例題もアップデートされます。基本線に大きな変更のない理論編でも、その後の考察を踏まえて、加除補正がなされます。
なお、形式的な改訂点として、旧連載では普通体の論説調で記述していたものを、本全訂版では丁寧体の解説調に改めました。これは、当ブログ全体の記述方針として、原則、丁寧体の講説調に変更したことに伴う改訂です。
はじめに
本連載は「差別」という難問に、私たちが日常の具体的な場面でどのように直面し、どのようにしてそれを克服していけるか、という観点に立って、「練習」をしてみようという大人向けの企画です。
従来、差別を扱う企画というと、告発・糾弾調のものか、差別を学問的に分析するものか、そのいずれかが多数を占めてきました。
前者は専ら差別を受ける側(被差別者=差別被害者)に立って、差別を加える側(差別者=差別加害者)を非難する視点を前面に出すものですが、その非難の調子があまりに強すぎれば私たちは共感する前に閉口してしまいがちです。
一方、差別という現象を学問的に分析することは意義あることですが、それだけでは私たちが日常の場面でどのように差別に直面し、どのようにして克服していけるかの道筋は見えてきません。そこで、本連載のような「練習帳」の出番となるのですが、その際、「私たちは全員が、差別する側にも、差別される側にも回り得る」という考えに立って構成していきます。
筆者自身を含めて、私たちは差別の加害者にも被害者にもなる可能性がある。言い換えれば、差別する者が差別される、また差別される者が差別する。そういう連鎖・連環関係が成り立ってしまうのが、差別という問題の難しさであり、恐ろしさでもあります。
前者は専ら差別を受ける側(被差別者=差別被害者)に立って、差別を加える側(差別者=差別加害者)を非難する視点を前面に出すものですが、その非難の調子があまりに強すぎれば私たちは共感する前に閉口してしまいがちです。
一方、差別という現象を学問的に分析することは意義あることですが、それだけでは私たちが日常の場面でどのように差別に直面し、どのようにして克服していけるかの道筋は見えてきません。そこで、本連載のような「練習帳」の出番となるのですが、その際、「私たちは全員が、差別する側にも、差別される側にも回り得る」という考えに立って構成していきます。
筆者自身を含めて、私たちは差別の加害者にも被害者にもなる可能性がある。言い換えれば、差別する者が差別される、また差別される者が差別する。そういう連鎖・連環関係が成り立ってしまうのが、差別という問題の難しさであり、恐ろしさでもあります。
ところで、日本社会には差別をそもそも「問題」とするうえで特有の難しさがあります。それは、個別の差別問題の中でもエース級と言える人種差別が日本社会では重大な社会問題として前面には出てこないため、差別を「問題」として意識することが難しいことによります。
日本社会で人種差別が表面化しにくいのは、日本社会は民族構成上、日本人のほか朝鮮人、中国人、フィリピン人、アイヌ、沖縄人、日系ブラジル人その他多様でありながら、それらはいずれも人種的にはいわゆる「モンゴロイド」に分類される諸民族であり、非モンゴロイド系住民は現状、極めて少ないためと考えられます。
このことが、誤って「単一民族社会」という共同幻想さえ生み出してきたのですが、外国からの移民とその子孫も増加してきた現在にあっても、なお日本社会の人種的均質性は否めないため、ともすれば「日本社会に人種差別は存在しない」ということが事実上の公式見解となりがちです。
しかし、本連載でも具体例を挙げて説明するように、人種差別は、日本社会にも一見それとはわからない形を取りながら存在しています。とはいえ、目につきにくいため意識に上りづらく、ひいては差別問題全般に対して鈍感な社会意識が形成されやすくなります。果ては、「日本社会は差別のない平等社会である」というようなまことしやかな憶断にまで発展し、そうした“悪平等”を排してむしろ“差別化”を図ることが推奨されるような風潮すら生じてくるありさまなのです。
日本社会で人種差別が表面化しにくいのは、日本社会は民族構成上、日本人のほか朝鮮人、中国人、フィリピン人、アイヌ、沖縄人、日系ブラジル人その他多様でありながら、それらはいずれも人種的にはいわゆる「モンゴロイド」に分類される諸民族であり、非モンゴロイド系住民は現状、極めて少ないためと考えられます。
このことが、誤って「単一民族社会」という共同幻想さえ生み出してきたのですが、外国からの移民とその子孫も増加してきた現在にあっても、なお日本社会の人種的均質性は否めないため、ともすれば「日本社会に人種差別は存在しない」ということが事実上の公式見解となりがちです。
しかし、本連載でも具体例を挙げて説明するように、人種差別は、日本社会にも一見それとはわからない形を取りながら存在しています。とはいえ、目につきにくいため意識に上りづらく、ひいては差別問題全般に対して鈍感な社会意識が形成されやすくなります。果ては、「日本社会は差別のない平等社会である」というようなまことしやかな憶断にまで発展し、そうした“悪平等”を排してむしろ“差別化”を図ることが推奨されるような風潮すら生じてくるありさまなのです。
そもそも、日本にはいまだに差別全般を禁止し、差別被害者の法的な救済を図る包括的な法制度が存在していないのですから、“悪平等”どころではないはずです。むしろ、差別被害者が救済されないまま放置されてしまうことが多いのです。
「日本社会には差別が存在しない」どころか、「日本社会では差別が野放しにされている」と言うほうが正確でしょう。野放し状態だから、差別を差別と意識することもできず、「差別は存在しない」と錯覚されやすいのです。
こうした錯覚の原因でもあり結果でもありますが、学校教育でも差別について明確に教えられることはないため、差別という「問題」に鈍感なまま成人し、子どもにも世代を超えて差別意識を植えつけてしまうことになりやすいことも問題です。
しかし、1995年に日本政府も遅ればせながら国際連合の人種差別撤廃条約(正式名称:あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約)に加入して四半世紀以上が経った今、そろそろ差別問題に本腰を入れるべき時ではないでしょうか。「日本人は差別愛好的である」などという差別的偏見を世界に蔓延させないためにも。
「日本社会には差別が存在しない」どころか、「日本社会では差別が野放しにされている」と言うほうが正確でしょう。野放し状態だから、差別を差別と意識することもできず、「差別は存在しない」と錯覚されやすいのです。
こうした錯覚の原因でもあり結果でもありますが、学校教育でも差別について明確に教えられることはないため、差別という「問題」に鈍感なまま成人し、子どもにも世代を超えて差別意識を植えつけてしまうことになりやすいことも問題です。
しかし、1995年に日本政府も遅ればせながら国際連合の人種差別撤廃条約(正式名称:あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約)に加入して四半世紀以上が経った今、そろそろ差別問題に本腰を入れるべき時ではないでしょうか。「日本人は差別愛好的である」などという差別的偏見を世界に蔓延させないためにも。
本連載がタイトルとする〈反差別〉とは、差別を人類にとって宿痾と言うべき社会悪と認識したうえで、それを克服する努力をたゆみなく継続しているプロセスをいいます。
その目的に寄与するため、本連載は理論編と実践編の二つのパートを用意しますが、メインは実践編にあります。そこでは11個の代表的な差別問題群ごとに、具体的な例題を通じて〈反差別〉の練習を積むことができるようになっています。例題の数は決して多くありませんが、典型的であるもの、応用的ではあるが一つの試金石となるものを厳選してあります。
これに対して、理論編は実践編に取り組むうえで前提となる差別全般に関する知識を総覧するためのパートになります。ここでは、差別とは何かという差別の定義から始まって、いくつかの重要事項を命題形式でまとめながら進めていきます。言わば、練習の前の準備運動のようなものです。
本連載は基本的に大人向けの「練習帳」ですが、同じような体裁で子供向け教材として使用できるようなテキストの開発も望まれます。そういうテキストを通じて〈反差別〉を自然に実践できる子どもたちが成人に達した暁には、本連載の意義は失効するでしょう。
そのようにして、目的達成により―社会的無関心のゆえでなく―本連載の存在意義が消滅することこそ、実践編で取り上げる11の問題群のうち少なくとも三つの領域で被差別者に該当し、同時に一つの領域では差別者となった経験もある筆者の究極的な願いなのです。