差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第38回)

レッスン7:知能差別(続き)

例題3:
あなたは「天賦の才能(知能)」に恵まれた「天才」の存在を信じますか。

 

(1)信じる
(2)信じない


 「天才」という言葉は古来、特定の分野で人を驚嘆させるような唯一無二の成果を上げる人に対してよく使われます。必ずしも、傑出した知能に恵まれた人というだけなく、芸術やスポーツなどの分野で傑出した才能に恵まれた人も含まれますが、芸術やスポーツの実践でもある種の知能は要求されますから、そうしたものも含めて、知能差別に関わる問題として扱うことができるでしょう。
 
 とはいえ、「天才」という言葉自体は当然にも称賛語であって、差別語ではありません。また、「頭が良い」といった表現とも異なり、その反面のものを劣等視するような反面差別語とも言えないでしょう。
 ただ、細かく分け入っていきますと、天才とは、例題にもあるように「賦の能」に恵まれた者を意味しますから、ここでは「才能」というものが特定の人間に先天的に与えられていると観念されていることになります。
 そうした先天的とされる「才能」を文字どおりに天(神)の被造物と観念しない限りは、親や先祖からの遺伝の産物と観念されることになりますから、「天才」という概念はその理解の仕方によっては血統・世系による差別と危険な接点を生じてくるでしょう。この点で、優生学の祖であるフランシス・ゴルトンが「遺伝的天才」という概念を提唱し、才能の遺伝性を強調していたことは偶然ではありません。
 
 それでも、各界を見渡すと、学術や芸術、スポーツといった分野では、誰がどう見ても「天才」と呼ばざるを得ない傑出した成果を上げている人が存在するように思えます。
 たしかにそうですが、そうした人たちが示している傑出した成果とは、十分な資金を投入してたいていは早幼児期から特別な訓練を施され、特定分野の技能を仕込まれたことの成果でもあります。
 言い換えれば、それは訓練の施され方が他の人よりも傑出していたことの結果なのです。そして、そうした傑出した訓練の成果に世人が驚嘆し、高く評価したときに「天才」という称賛がなされるわけです。従って、何らかの傑出した成果がほとんど社会的な評価の対象とならないような場合には、どんなに人を驚嘆させても「天才」とは呼ばれないのです。
 
 より一般化すれば、「才能」という概念一般が訓練の成果なのであって、しばしば錯覚されているように、先天的な能力ではありません。もし、「天才」たちが特別な訓練を受ける機会に恵まれなければ、埋もれた存在として終わっていたでしょう。言い換えれば、そうした「才能」のレベルが「天才」と呼ばれるまでに引き上げられるか、それとも未完のままに終わるかは、適切な訓練の機会に恵まれたかどうかにかかると言えます。
 こう考えますと、「天才」という言葉にいさかか幻滅を感じ、使用を控えたくなるかもしれませんが、それは知能を基礎とする「能力」という概念全般について問い直す初めの一歩となるでしょう。

 

例題4:
[a]あなたは、社会の指導層には「学力」の優れた人から選抜・育成されたエリートが就くべきだと考えますか。

 

(1)考える
(2)考えない

 

[b]あなたは、各分野で高い能力を示す人は裕福な暮らしができて当然だと考えますか。

 

(1)考える
(2)考えない


 [a]に示された「学力」の優れた者から選抜・育成された少数のエリートが社会を指導するという体制は、世界でかなり普及している現代社会の構成です。これは、例題3で見た「天才」というより、「秀才」による支配です。従来は、多くの人が、そうしたエリート支配を何となく受け入れてきたかもしれません。
 
 しかし、日本では、かねてエリート中のエリートと目されてきた官僚への風当たりは強まっていますし、「お医者様」と崇められてきた医師に対しても、医療過誤を厳しく問う動きも出てきています。「エリート」に対する日本人の意識にも変化が見られるように見えます。それでもなお、日本社会では「エリート」という外来語を肯定的な文脈で使用する習慣が残されています。
 
 この「エリート(elite)」という語は、海外の民主的な諸国では、エリートでない一般大衆をエリートの指導に服すべき存在として劣等視する階級差別的なニュアンスを含む反面差別語とみなされるようになっているため、少数の者をエリートとして選抜・育成する「エリート教育」そのものに否定的ですが、実際のところ、多くの国で実質的なエリート教育は行われています。
 しかし、こうした学力=学歴差別的社会システムは、多数の人たちの人生の選択肢を狭める一方で、エリートとして選抜された少数の者の特権を強め、かえって特権の上にあぐらをかいた“無能”を招来しているという皮肉な現実に気づく人も増えていることが、エリート支配に対する各国での大衆の反乱的な動きに見えているように思えます。

 一方、[b]は「エリート」という観点とは別に、およそ何らかの分野で高い能力を示す者には、高額の報酬や年金等が与えられ、裕福な暮らしが保障されるという能力階級制の是非を問うものです。その点、特権的なエリート支配には否定的な人の中にも、証明された能力に応じて裕福な暮らしが保障される能力階級制ならば賛成できるという人が少なくないかもしれません。
 
 そのような能力至上の考え方は経営であれ、労働であれ、市場的競争に打ち勝つ能力のある人の優越的な価値を強調する社会淘汰論の隆盛という形で、近年のモードとなっています。
 特に、企業労働の分野では、従来賃金体系の主要な尺度であった「年功」に代わって、「能力」を基準とする能力給制や「成果」に応じた成果給制が導入されるようになってきましたし、また、近年大きな社会問題となっている非正規労働に関しても、露骨に言われることはないにせよ、「能力の足りない者は非正規労働力として低賃金に甘んじてもやむを得ない」という能力差別的な正当化理由が裏に隠されているため、なかなか本質的には解決されません。
 
 ところで、能力階級制を支持する理由として、ここでの「能力」とは先天的な知能のことではなく、(一定以上の知能を前提とはするものの)「努力」の成果として後天的に獲得された各種の能力のことであるから、努力した者に裕福な暮らしが保障されるのは合理的であって、もしそうでなければ人々は努力しなくなってしまうだろうというものがあります。しかし、別の見方もできます。
 
 たしかに、「努力」することはもちろん良いことです。ただ、見方を変えてみると、「努力」とは結果論であるとも言えます。すなわち、何かに成功すれば「努力した」と評価され、失敗すると「努力が足りなかった」と非難されるのです。「努力」の度合い自体を数値化することはできないため、「努力したが失敗した」という弁明はなかなか認めてもらえません。一方で、「努力していないのに幸運で成功した」とは、成功者本人がなかなか認めたがらないので、成功における幸運という要素は軽視されがちです。
 
 それでは、能力のいかんを問わず、皆暮らしは平等であるべきなのでしょうか━。不満を持たれる向きもあるでしょうが、特定の事柄で高い能力を示す人には必ず周囲の称賛、ひいては社会的名声が無形的な報酬として与えられます。この種の報酬は決して「平等」にはなり得ないものではありますが、有能さに対する報酬としてはそれで必要にして十分だとは言えないでしょうか。これは各自でさらに考察していただきたい宿題です。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第37回)

レッスン7 知能差別

レッスン7では、差別の三丁目一番地に当たる知能差別に関する練習をします。

 

例題1:
[a]あなたは、「知能指数」という指標を信頼しますか。

 

(1)信頼する
(2)信頼しない

 

[b]あなたは、人種により知能レベルが異なると考えますか。

 

(1)考える
(2)考えない


 レッスン7から9までは、広い意味で「能力」に基づく差別を取り上げますが、現代社会は能力主義の社会でもあり、かつては生まれついた身分によって人の一生が決定されていた身分制社会は、多くの国で程度の差や例外はあれ、過去のものとなりつつあります。
 そのため、能力による差別は、むしろ公正な社会的選別として正当化されがちです。中でも、知能という指標は能力主義において最も基礎的なものとみなされていますから、多くの人は、一度はどこかで知能検査を受けたことがあるでしょう。

 
 その際、科学的な次元で人間の知能レベルを判定する指標として、「知能指数」(IQ)という概念が普及しています。IQは知的障碍の診断基準としても使用されるため、レッスン2で扱った障碍者差別にも関わってくる概念です。実際、「頭が悪い」という意味を込めて「○○はIQが低い」といった表現をすることもあり、IQ自体は心理学・医学の術語でありながら、差別的文脈で用いられることがあり得る言葉です。
 
 IQは正式の心理学的・医学的な検査によって測定される指標ですから、一応客観性のある数値とみなすことは許されるでしょうが、それをどこまで信頼するかは大きな問題です。
 知的障碍についても絶対的な定義は存在せず、IQだけで形式的に知的障碍者かそうでないかをふるい分けることもできません。IQはそれが著しく低い場合は知的障碍を疑う必要はありますが、その場合も、IQは知的障碍を早期に発見し、適切な療育を施してその人の可能性を最大限に導き出すことができるようにサポートしていくための一つの目安として活用されるべきであって、決して「知能の高い者」と「知能の低い者」とを選別し、後者を劣遇するための道具として利用されるべきではありません。

 ちなみに、[b]に示されるように、知能は人種と関わりがあるという考えも、古くからあります。特に黒人は知能が低いという考えは、白人優越主義者の多くが信奉していると見られ、まさに優越主義の根拠ともなっているのです。
 しかし、知能が人種の別に依存することを証明する科学的な定説として広く承認された研究結果は存在せず、そのような人種別知能という考えは、まさに人種差別そのものである劣等視の産物なのです。
 そもそも、主として肌色―それ自体も曖昧かつ不正確な基準ですが―に着眼した人種という概念自体が曖昧で、精密なゲノム解析の時代にはそぐわない疑似科学概念と呼んでもよいものですから、人種と知能を結びつけた研究の科学的前提そのものが疑われます。

 

例題2:
あなたは、学業成績や学歴は生まれつきの頭脳の良し悪しに関係していると考えますか。

 

(1)考える
(2)考えない


 知能検査で測定される知能とは別に、学業成績やその到達点としての学歴を通して評価される概念として「学力」があります。
 こちらは〝勉強〟という知的努力によって獲得される能力というイメージが強いですが、一方で、学業成績の良い人や学歴の高い人に対する「頭が良い」という反面差別的な評価や、逆に「自分は頭が悪いから進学をあきらめる」といった自己差別的な言い方にも見られるように、いわゆる「学力」に関しても、先天的な「頭脳」の良し悪しが関わっているという認識は社会一般に存在しています。
 

 ここでの「頭脳」という観念は、知的な側面における天賦の能力を表していますから、それが遺伝的な産物としてとらえられる限りでは、血統・世系による差別につながる概念であるとも言えます。
 しかし、実際のところ、「学力」は一定の知能を前提とした知的訓練の成果を示すものであって、通常は入学試験や資格試験等々の各種試験における得点として数値化された指標にすぎません。
 

 能力主義を標榜する現代社会にはそうした「学力」を測定する各種の試験制度が林立しているわけですが、その点、日本社会では諸外国にもまして試験の意義が過大評価されがちで、試験結果が人間の頭脳のレベルを判定する決定的な尺度であるかのように信奉されているため、人生前半の早い時期―さしあたりは義務教育を修了する15歳頃―に、専ら試験の点数によってふるい分ける能力差別システムが強固に定着してきました。そして、その結果として、学歴が人生のパスポートとなる「学歴社会」が形成されてきたわけです。
 
 ところが、そのような社会では学歴が形式的な能力証明と化してしまうため、かえって実質的な能力よりは試験の合格証書という書面が幅を利かせ、かえって反能力主義に転化してしまうという皮肉な現実があります。言わば、学歴がある種の「身分」となり、前近代社会における生まれによる身分と類似の機能を果たしているのだとも言えます。そうした観点からも、「学力」の扱い方に関する見直しが必要でしょう。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第36回)

レッスン6:性的指向差別

〔まとめと補足〕

 本レッスンでは、最後の例題4を除き、「同性愛」という用語の使用を意識的に避けてきました。実は、当連載旧版のレッスン(旧版ではレッスン7)では「同性愛者差別」と題し、「同性愛」という用語で叙述しておりました。
 その点、「同性愛」という用語自体は差別語とは言えませんが、対語となる「異性愛」と並べることにより、この用語にはある種のニュアンスが発生してきます。そのニュアンスとは、例題4でも見たような背徳的とか異常といったネガティブなものです。
 それと同時に、「同性愛」という用語により、あたかも同性に対して性的な嗜好を持つかのようなイメージも醸し出されます。このことによって、「性的嗜好」と「性的指向」が混同され、「同性愛者」は特殊・異常な嗜好を持つ者というイメージで認知されてしまうのです。こうした誤った認知を避けるためにも、「同性愛」という用語の使用は極力回避し、「同性指向」ないしは「同性指向者」という用語を基本的に採用した次第です。

 ところで、イメージということに関連して、当講座では差別の出発点は視覚的な表象に始まるということを基本においてきたわけですが、同性指向者に対する差別の最もプリミティブなものとして「気色悪い」といった類のものがあります。こうした感覚的な差別感がどこから生じるかと言えば、同性同士の性的行為のイメージにあるのではないかと思われます。
 そうしたイメージは、ほとんど誰も直接にそのような行為を目撃する機会などないにもかかわらず、想像的なイメージ作用によって、かえって直接に目撃した場合以上に、歪められた偏見の元となっていくのです。
 しかし、同性指向者同士の関係は、異性指向者同士のそれと同様、単に性的関係だけに帰着するものではありません。もっと精神的な愛情関係も含めての親密な関係性です。その点では、上述したところと矛盾するようですが、「同性愛」という用語も、そうした精神的な愛情関係を包摂した用語として適切に使用されるなら、必ずしも差別的なニュアンスの用語とはならないでしょう。

 
 そのようにとらえるならば、異性愛/同性愛という二分法的思考から離れた包摂の哲学(理論編命題28)も導かれます。人間の価値は性的指向の如何によって定まるものではありません。性的指向とは、ある人が誰を性愛の対象とするかということに関する相対的な指標にすぎず―従って、両性ともに性愛の対象とする「両性指向」も存在しますし、誰をも性愛の対象としない「無性」もあり得ます―、重要な事柄ではありません。
 従って、性的指向を個人のアイデンティティーと直結させることは、自分を卑下する自己差別を克服するうえでの「療法」として有効な場合があるとしても、差別そのものを克服するうえでは有効と言えないでしょう。同性指向を自己のアイデンティティーと規定してしまうと、異性指向者とのへだたりが際立ち、包摂が難しくなるからです(アイデンティティー問題については、理論編命題29を参照)。

 
 その点、近年は、LGBTIのように、いわゆる性的少数者を細分類して記号化する新語が人口に膾炙してきました。このような分類はまさに性的なアイデンティティー分類でもあって、性的少数者が自身をどれかの分類にあてはめて「居場所」を見つける便利な分類表のような役割も果たしています。
 しかし、それは両刃の剣でもあり、白色人種/有色人種といった人種分類と同様、分類することで優劣関係が発生し、かえって差別の分類表となってしまう恐れもあることに注意が必要でしょう。
 むしろ、レッスン5の性自認差別、本レッスンの性的指向差別を同時的に克服していくうえでは、そうした性的分類表からも解放され、「分類されない権利」を確立する必要があると考えられます。このことは、人種分類に関しても共通してあてはまる視座と言えます。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第35回)

レッスン6:性的指向差別(続き)

例題4:
(同性愛を容認することができないと考える人への質問)あなたが同性愛を容認できないと考える一番の理由は何ですか(自由回答)。

 
 前回まで、一般的に使われる「同性愛」という用語を意識的に避け、「同性指向(者)」という用語を使用してきましたが(その理由は「まとめと補足」で後述します)、最後の例題では、あえてこの用語によって根源的な問題を考察します。同性愛を容認することができる人も、なぜしばしば同性愛者が嫌悪・差別されるかを考えるうえで参考になる例題だと思われます。

 本例題は全面的な自由回答ということで答えはいろいろ考えられますが、大別すれば、次の三つの系統に分類できると思われます。
 
 一つは「同性愛は不道徳だから」というモラル論。これは同性愛者を道徳的欠格者とみなすもので、この理由による同性愛嫌悪が最も激しい同性愛者差別を生んできました。
 特に、キリスト教イスラーム教圏では同性間の性行為は伝統的に罪悪であり、イスラーム圏では最大で死刑を科す国さえも見られます。また、今日の世俗世界ではもはや同性愛を罪悪とはみなさなくなった欧米キリスト教圏でも、しばしば反同性愛者による同性愛者に対する憎悪犯罪としての暴行傷害、殺人事件さえも発生しています。
 日本社会では同性愛を明確に不道徳とみなす観念は希薄と言われるところですが、教育界では学校で同性愛を教えることをタブーとする風潮が強いという事実から、教育者などの間ではなお同性愛=不道徳論が根強いことが窺えます。
 この同性愛=不道徳論の最大の誤りは、同性愛を自らの意思で選択する性的趣向と解釈していることにあります。そのために、同性愛を不道徳とか犯罪とまで認識してしまうわけですが、同性愛は意図的に選び取られるものでなく、生得的な性愛傾向としての性的指向であるということを確認する必要があります。
 (おそらくは)あなたを含む多くの人たちの異性愛が自ら意図して選択したものでないのと同様、同性愛者にとっての同性愛も意図して選択したものではありません。であればこそ、同性愛者は自らの性的指向に苦悩することも少なくないわけです。
 
 こうした同性愛=不道徳論とも共振しつつ、「同性愛は異常だから」という理由での同性愛嫌悪もポピュラーなものです。「同性愛は気色悪い」といった表現をとる場合も、この異常視の系譜の反同性愛言説と言えます。
 理論編でも見たように、こうした異常視はそれだけでは差別に当たらないのでしたが、同性愛=異常視は同性愛を病的な異常性欲とみなすわけですから、これは容易に劣等視を招くでしょう。
 たしかに、かつては同性愛を精神疾患または異常心理とみなし、精神医学的・臨床心理学的な「治療」の適応対象としていた時代もありましたが、今日の精神医学及び臨床心理学において、同性愛は疾患でも異常心理でもないと理解することが定説化しています。それでも、同性愛は普遍的な性的指向とは言えませんが、普遍的でないこと=異常ではなく、単に少数派であるというにすぎません。

 なお、広くはこの異常論の系譜に属する別筋の回答として、「同性愛は無生殖だから」というより生物学的な視点からの回答があるかもしれませんが、これは生物学的な無知に由来する誤謬です。
 実際、女性同性愛者は妊娠能力を持っていますから、精子バンク等から精子の提供を受けるなどして実子を出産することも可能です。男性同性愛者の場合、男性同士で生殖することはたしかにできませんが―ただし、男性の妊娠が可能となれば別(レッスン4例題5)―異性愛者の夫婦でも子供を作らない方針で常時避妊したり、また不妊症のため生殖ができない夫婦も存在する事実を考えれば、同性愛=無生殖論は謬論と即解できます。
 
 一方、近時は衛生主義的な観点に立って、「同性愛は不衛生だから」という理由での同性愛嫌悪が新たに登場してきています。同性愛=不衛生論は、一つにはとりわけ男性同性愛者の間で感染率が高いとされてきた感染症エイズ後天性免疫不全症候群)のイメージが醸し出すものと思われます。
 要するに、衛生思想からする近代的な不浄視の一種ですが、これは病者差別に近い面があると言えます。その限りでは、レッスン2での練習が応用できます。
 しかし、エイズについて言えば、それは同性愛者に限らず、異性愛者にも見られる感染症である以上、性的指向にかかわらない人類共通の感染症問題としてとらえるべきで、それをことさらに同性愛と結びつけようとするのはやはり差別的偏見と言うべきでしょう。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第34回)

レッスン6:性的指向差別(続き)

例題3:
[a] あなたは「同性間の結婚を認めるべきだ」との提案を支持しますか。

 

(1)支持する
(2)支持しない

 

[b] 「同性婚は認めないが、同性カップルにも既婚者に準じた法的地位(例えば相続や財産共有)を保障する制度を創設すべきだ」との提案についてはどうですか。

 

(1)支持する
(2)支持しない
(3)わからない

 

[c] ([a][b]ともに「支持しない」とする人への質問)その理由は何ですか(自由回答)。

 
 同性指向者のカミングアウトが困難である現状、同性指向者が同じ立場の伴侶を見つけること自体容易でないはずですが、首尾よく見つかったとしても、現在の日本の民法上、婚姻は異性間のみに限定されているため、二人が結婚することはできません。
 
 このように同性婚を法的に認めない政策が直ちに差別に当たるかと言えば、必ずしもそうとは言い切れません。というのも、本来、婚姻とは単に伴侶同士の共同生計を法的に保障することにとどまらず、子どもを産み育てるという次世代の再生産を促進する社会的な制度としての性格も帯びているために、生殖作用のあり得ない同性間の結婚は想定外のこととされてきたからです。このことは同性指向者を劣等視しているというよりも、婚姻という制度の本旨に由来する除外とも言えます。
 

 とはいえ、[a]の提案のように、婚姻を同性間にも開放することは、一つの画期的な包容政策として近年の先進的な家族政策となってきました。実際、同性婚を認める国(国内の州を含む)も西欧を中心に増加しており、こうした問題ではおしなべて保守的なアジアでも台湾では法制化されています。
 
 ただ、婚姻制度の中に同性指向者を併合的に取り込むことが真の包容と言えるのか、という問題もあります。婚姻においては夫と妻という役割関係を払拭し切れないところ、同性指向者間に夫と妻という役割規定は通常存在しませんから、その関係を婚姻に当てはめることはできないのではないかという考え方もあり得るからです。むしろ同性指向者は古典的な婚姻制度を打破していく社会的な原動力たるべきではないか━。
 
 そう考えるとしますと、[b]の提案のように、通常の婚姻とは別立てで、同性指向者向けに婚姻に準じた制度を用意するほうが妥当のようにも見えます。言わば同性指向者専用の特別婚姻制度(以下、同性間パートナーシップ)です。
 実は、このような制度のほうが同性婚よりも先行して世界的に普及していたのですが、それはおそらく同性間パートナーシップならば、同性婚に否定的な人たちでも辛うじて賛同可能なため、早期実現の見通しが立ちやすいからということもあったのでしょう。
 
 しかし、このように異性指向者⇒婚姻、同性指向者⇒同性間パートナーシップという振り分けをすることは、まるで人種隔離政策のように、同性指向者を婚姻とは別枠の制度内に“隔離”するに等しく、あの「分離すれども平等」の詭弁と同じだという批判もあり得るところです。
 
 このように見てきますと、本例題の[a]と[b]いずれも「支持しない」とする見解も、それだけで差別的と断じることはできないでしょう。
 いずれも「支持しない」とする見解が差別性を帯びるのは、[a]と[b]いずれの提案もそれを認めれば背徳的な同性愛を容認することになるからという明白に反同性指向的な理由づけによる場合ということになります。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第33回)

レッスン6:性的指向差別

レッスン6では、差別の二丁目三番地に当たる性的指向差別に関する練習をします。

 

例題1:

[a] あなたがある日、自分の子から(子がいない場合は、いると仮定して)同性指向であることを打ち明けられたとしたら、どうしますか。

 

(1)勘当する
(2)悲観する
(3)受容する

 

[b] あなたがある日、同性の親友から同性指向であることを打ち明けられ、恋人としての交際を求められたとしたら、どうしますか。

 

(1)絶交する
(2)理解はするが、交際は断る
(3)交際を受け入れる


 どのような人に性愛の感情が向かうかという性的指向「嗜好」ではない)をめぐっては種々の難しい議論もありますが、実際のところ、家族や親友など身近なところで例題のような状況が生じ、突然に問題に直面しますと、初めは当惑やショックを感じることになるでしょう。
 

 [a]の事例で、自分の子が同性指向を打ち明けたというだけで勘当に飛躍する人は現在では少ないかもしれませんが、我が子が“性的異常者”であったと知り、ショックを受け、悲観するという人は少なくないかもしれません。
 たしかに、同性指向は普遍的な性的指向ではないという点では少数派ですが、決して精神疾患でも異常心理でもなく、日本の法律上は犯罪でもありませんから―海外にはいまだに同性愛を犯罪として処罰する国もありますが―、親として悲観しなければならない理由は特にありません。外見から直ちに同性指向とわかるようなこともないので、“世間体”を気にする必要もありません。
 
 むしろ、同性指向は通常思春期以降にそれを自覚するようになった本人自身が誰にも打ち明けられず、独りで苦悩した末に、理論編でも見た自分で自分で劣等視する自己差別へ赴きやすいことから、あえて親に打ち明ける決断をしたあなたの子は、親であるあなたの理解を得て、自己差別を克服しようとしているのかもしれないのです。
 従って、あなたとしては親に打ち明ける決断をした子の気持ちを受け止め、まず何はともあれ、受容することから入っていくことが期待されています。
 
 これに対して、[b]の事例はやや複雑です。これも単に親友から同性指向の事実を打ち明けられたというだけであれば、理解することは難しくないかもしれませんが、恋人としての交際まで求められたとなると、話は違ってきます。
 もちろん、たまたまあなた自身も同性指向であれば、以後は恋人として交際することもできるでしょう。しかし、確率的に言って、あなたは異性指向である可能性が高く、当惑は想像に難くありません。
 もし、あなたが今まで親友と思ってきた相手が実は同性指向だったとわかり、友情が軽蔑に変わって絶交するというならば、それは同性指向を劣等視する差別です。
 ただ、親友が唐突に同性指向を告白し、恋人としての交際まで求めてきたことを非常識だと感じ、憤慨して絶好するとなると、劣等視とは違い、いちがいに差別と言い切れないでしょう。
 
 とはいえ、あなたの親友もあえて秘密を打ち明け、恋人としての交際まで求めてきたからには、よほどあなたに信頼と好意を寄せていたはずで、悪意があるとは思えません。従って、親友の態度をいちがいに非常識と断じることもできないように思われます。
 かといって、異性指向であるあなたが親友と改めて恋人として交際することにも無理がありますから、[b]の事例のような状況で最も妥当な包容行為は、(2)の「理解はするが、交際は断る」です。この場合、異性指向であるあなたには恋人としての交際については断る権利があるので、断ったからといって差別には当たらないわけです。

 

例題2:
あなたは職場や学校などで、同性指向の人が自らその事実を公表すること(カミングアウト)を不快に感じますか。

 

(1)感じる
(2)感じない

 
 同性指向の人たちにとって、人生の一大関門と言えるのが、このカミングアウトです。同性指向差別が依然根強い中では、カミングアウトが現在の立場・地位や名声の喪失につながるリスクも高く、重大な決断を要するからです。
 かといって、差別・迫害を恐れる同性指向の人が終生その事実を秘匿し続け、自分らしく生きることができない状態に置かれること(いわゆるクロゼット状態)は、それ自体が一つの被差別状況にほかなりません。
 
 そこで、職場や学校で自由にカミングアウトできるようになることは一つの理想状況ではありますが、ハードルは高いでしょう。そうしたカミングアウト自体を不快に感じるという人々もまだ少なくないと思われるからです。
 特に、仕事の性質上同性が多い職場や、男子校・女子校のようにジェンダー分離が制度化されている環境では「規律」の観点が持ち出されて、カミングアウトに否定的な見解が支配的であるかもしれません。
 しかし、カミングアウトによって直ちに職場や学校の「規律」が乱れるということは考えられず、「カミングアウト禁止令」のような内規または学則があるとすれば(明文化されない不文律も含む)、それは「規律維持」に名を借りた転嫁的差別と言ってよいでしょう。
 
 一方で、人は自らの性的指向を公表しなければならない義務を負うわけではありませんから、同性指向の人にカミングアウトを強制することは重大なプライバシー侵害となり、同性指向を意図的にあぶり出すような狙いが込められている場合は、そうした強制自体が差別に当たります。性的指向差別が根強い現状では、差別からの自衛策として、あえて公表しない“自衛的クロゼット”を選択せざるを得ない場合もあります。
 要するに、カミングアウトするかどうかは各人の生き方に関わる問題であり、何ぴともその自己決定に干渉することは許されないという原則は堅持する必要があります。

サル痘と同性指向差別

先般、WHOが世界に拡散中のサル痘について、「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言しました。コロナが収束しない中での新たなパンデミックですが、コロナと異なり、サル痘は男性の同性指向者の間で感染が広がっているとして、男性同性指向者に注意が呼びかけられています。

 

この呼びかけはデータに基づくもので、誤りではないのでしょうが、サル痘ウイルスは本来天然痘の同系ウイルスであり(そのため、天然痘ワクチンが有効)、性的指向にかかわりなく感染可能性があるにもかかわらず、男性同性指向者がその中心と位置づけられることで、男性同性指向者に対する差別・偏見を助長する新たな事象となっています。

 

ここで思い出されるのは、1980年代から90年代にかけてのエイズ問題です。エイズ・ウイルスも性的指向を問わず誰もが感染し得るにもかかわらず、ことさらに男性同性指向者の感染がクローズアップされる形で、差別を助長する契機となりました。

 

今日、一般に衛生問題は差別を助長する契機となります。不衛生が常態だった前近代とは異なり、衛生環境が全般に向上した現代において、不衛生は蔑視される要因となりやすいからです。感染防止というそれ自体としては正当な大義名分もあるため、転嫁的差別が起きやすいのです。

 

その点、感染防止の呼びかけ方として、誰でも感染し得るものなら、ことさらに男性同性指向者にだけ注意を呼びかけることはかえって不適切とも言えます。データ上、男性同性指向者間の感染例が多いことは事実だとしてもです。その点、WHOをはじめとする公衆衛生当局も配慮が足りないと思われます。

 

一方で、男性同性指向者の側の行動様式にも見直しは必要でしょう。エイズもそうでしたが、不特定多数人との性行為が感染ルートとなりやすいことが知られており、今般のサル痘でも同様の感染ルートが想定されています。

 

近年、欧米を中心に同性同士の婚姻制度が容認されるようになってきたことは、特定のパートナーとの安全な性関係を維持するうえで有益であるはずですが、現実には、現在でも紹介アプリなどを通じた不特定多数人との性的遊興やそれを目的とした海外旅行さえも存在しているようです。

 

現在でも治療薬は存在しない(強力な進行抑制薬のみ)エイズも含め、感染症にかかりやすい行動様式を採らないことは、自身の健康維持のみならず、差別を助長する事象を自ら招かないことにもつながります。逆に自ら差別状況を招くような行動様式は採るべきでないとも言えるでしょう。

 

現在、コロナのパンデミックが鎮静化してきたとの認識で、過去二年間の行動制限の反動から、コロナ前にも増して性的遊興を活発化させている男性同性指向者が増えていることがサル痘の流行拡大を招いている可能性もあります。しかし、サル痘をエイズの二の舞にすることは避けたいものです。

 

以上、目下連載中の『〈反差別〉練習帳』でちょうど同性指向差別を扱うレッスンに入る直前に当たるため、連載に挿入する形で、臨時の記事を掲載した次第です。