差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

民間優生学の危険性

北海道内の知的障碍者施設で、結婚や同居を希望する利用者に不妊手術を受けさせていたという報道がありました。これは単なる疑惑のレベルではなく、理事長自ら事実関係を認めているので、確信的に、しかも1996年頃から長期にわたり行われてきたことのようです。

 

施設によると、知的障害のある利用者の男女が結婚や同居を希望した場合、施設側から、障害者が子育てをすることの困難さなどを家族同席のもとで説明したうえで、「子どもは欲しくない」との意向であれば、男性にはパイプカット手術、女性には避妊リングを装着するなどの不妊処置法を紹介してきたとのことです(外部記事)。

 

施設側としては、強制不妊ではなく、あくまでも当事者の同意に基づく任意の対応だと言いたいようです。しかし、この施設は知的障碍者施設であり、当事者男女は知的障碍を持っていること、さらに施設側が当事者を後見する立場にある家族も同席させたうえで、「障害者が子育てをすることの困難さ」を前提に「説明」するといったプロセスから見て、真の意味での理解と同意があったかに疑問が残ります。

 

理事長がこうした措置の趣旨として、「障害があるために養育不全になった場合、誰が子どもの面倒をみるのか、私たちにはできない」と説明し、結婚を希望する当事者に対しては「子どもを望む場合は、うちのケアから外れてもらう」といった制裁的対応を認めていることから見ても(外部記事)、これは施設側の厳格な方針に沿った半強制的対応であることが窺えます。

 

障碍者に対する不妊措置と言えば、かつては不良遺伝子を排除し、健全な国民を育成すると標榜する優生学に基づく国の政策として実施され、日本のみならず世界の諸国で風靡した国策でしたが、現在では廃止されてきています。

 

その点、日本でも障碍者への強制不妊を定めた優生保護法が1948年から1996年まで存在し、強制と同意を合わせて2万5千人近くに不妊手術が実施されてきたところ、2018年以降、旧優生保護法に基づく強制不妊を受けさせられた人たちが全国で国家賠償請求訴訟を起こしてきました。

 

そして、今年2月には、大阪高等裁判所が、旧優生保護法に基づく人権侵害は強度なものであり、国の違法な立法行為によって障害者に対する偏見・差別が正当化・固定化、助長されてきたとして、国家賠償を認める画期的な判決を下しました。

 

ちなみに、施設側が1996年頃から問題の対応を行ってきたというのは、ちょうど優生保護法が廃止され、国策としての優生学が終了した時期に当たっています。これは推測となりますが、施設としては国策としての優生学が終了した後も、施設独自に言わば「民間優生学」を実行していたものとも解釈できます。

 

このような民間優生学が広く普及してしまえば、国策としての優生学が終了しても、優生学的措置が民間で継続されることとなり、優生学は生き残ることになります。しかも、法令に基づかないだけに、この施設のように、曖昧な要件の下、施設の利用拒否という制裁を背景に、形式的な「同意」を取って半強制的な措置として実施されてしまいます。

 

もちろん、法令に基づく優生学のほうがよいということでは決してありませんが、民間優生学は法令に基づかず闇で行われるという点で、法的統制の及ばない「野生化された(野放しの)優生学」に陥る恐れがあるのです。

 

こうした民間優生学が果たして今回発覚した施設だけの特異な方針なのか、それとも全国的に普及しているのか、政府は緊急の実態調査を実施すべきでしょう。 

 

いずれにせよ、優生論者に共通する一つの言い分として、まさに当該理事長が吐露しているように、「誰が子どもの面倒をみるのか」というケア限界論があります。その点、強制断種に飽き足らないナチスが重度障碍者の大量「安楽死」という殺戮作戦(T4作戦)にまで進んだ契機が知的障碍と身体障碍の重複障碍を持つある少年の両親からの安楽死の嘆願にあったという事実は象徴的です。

 

そして、多くの医療・福祉関係者も、ケアの限界を名分に、断種どころか、そもそもケアの対象者が存在しなくなることが究極の解決策だとの考えから、T4作戦を支持し、同作戦が公式に終了した後も、民間主導で安楽死を継続しました(野生化された安楽死)。ナチスのT4作戦は優生学の極限的暴走ですが、問題の根源は障碍者断種策と同じなのです。

 

ケア限界論は、障碍者をあからさまに劣等視することを回避しつつ、一定の真実は突いている社会的な問題に転嫁することによって、障碍者差別を正当化しようとする転嫁的差別の典型例と言えます。

 

こうした転嫁的差別の正当化理由となりがちなケア限界論を克服するには、社会が障碍者のケアを支えることが不可欠ですが、日本社会では障碍者ばかりか、非障碍者にとっても育児への社会的支援が不足しているのが実情ですから、問題の施設の方針に共鳴してしまう人も少なくないのではないかが懸念されます。

 

さらに、民間優生学の問題性を逆用する形で、再び国策としての優生学を復活させたり、あるいはそもそも障碍者が誕生しないように障碍胎児の妊娠中絶を促進する政策などが提起されないかということも懸念されます。

 

とはいえ、今回25年以上も続けられてきた施設による民間優生学の実態が明るみ出たことは、事情を知るどなたかが問題視し、内部または外部告発を敢行した結果かもしれず、その点では、日本社会の小さな進歩を示す出来事としてポジティブに受け止めることもできるでしょう。

官憲による差別的権力犯罪

日本では従来から、留置場や刑務所、入管施設等の収容施設で収容者が変死する事件がしばしば発覚してきました。つい最近も、愛知県警岡崎署に留置されていた被疑者が140時間以上も戒具で拘束されたうえに暴行を受け、持病の薬も与えられず、死亡するという事件があり、警察が警察を捜査する事態となっています。

 

少し前には、名古屋の入管施設に収容されていたスリランカ人の収容者ウィシュマ・サンダマリさんが体調を崩した際、救急治療が必要な状態であったにもかかわらず、適切な医療が与えられずに死亡した事件が大きく報じられました。

 

刑務所関連でも、死者は出ていないようですが、名古屋刑務所の刑務官22人が複数の受刑者に暴行を繰り返していたことが今月、所管する法務省自身によって公表されています。(名古屋刑務所では、2001年に、刑務官が受刑者の肛門に高圧放水し、死亡させる事件が発覚し、受刑者処遇法改正の契機となっています。)

 

ちなみに、如上の諸事件がいずれも愛知県内の収容施設で起きているのは奇妙な偶然ですが、警察署の留置場を除けば(警察も究極的には国の警察庁が管理)、いずれも国が所管する施設ですので、全国どこで同種事案が発生してもおかしくありません。

 

こうした法執行の権限を持つ公務員による作為/不作為の権力犯罪は、通常は人権問題としてとらえられますが、問題の現場となった収容施設は犯罪の被疑者や受刑者、入管法違反の外国籍者を収容するものであり、いずれも最近まで当講座で扱った犯歴差別や国籍差別とも関連してくる場所です。

 

問題の当事者となる警察官や刑務官、入国警備官といった公務員は、いずれも試験選抜され、特別な訓練を受けた官憲でありながら、なぜ収容者に対する不当な仕打ちに走るのだろうか、ということを考えると、そこには収容者に対する差別意識の介在を想定せざるを得ないのです。

 

こうした施設に収容される犯罪の被疑者や受刑者、あるいは入管法違反の外国籍者らは、犯歴差別や国籍差別を受ける「余所者」たちです。かれらの身柄を管理する公務員の内にもそうした「余所者」への差別意識があり、また一般社会にも「余所者」への官憲の不当な仕打ちを容認してしまう空気があります。

 

このような事象は日本に限らず、アメリカでも、ミネソタ州ミネアポリスの白人警察官が自動車からの降車命令に抵抗したとされる(警察発表)黒人被疑者を膝で地面に長時間押さえつけ、窒息死させた事件(ジョージ・フロイドさん事件)を機に、「ブラック・ライヴズ・マター」運動が隆起したことは記憶に新しいですが、こうした事案でも、クローズアップされた人種差別に加え、犯歴差別の意識も警察官の意識内にあることが窺えます。

 

もっと視野を広げれば、犯歴者や外国籍者の収容施設は、世界中の国で官憲による差別的権力犯罪の温床であると断言できます。もちろん、世界中で行われていることだから大した問題ではないと言いたいのではなく、世界規模の広がりを持つからこそ、真剣に取り組むべき問題なのです。

 

ただ、官憲による差別的権力犯罪の現場となる場所は外部には閉ざされた密室であることが多く、ジョージ・フロイドさん事件のように、衆人環視のもとに公然行われ、一部始終が市民によって撮影までされていたというのは特異なケースです。ほとんどの場合は、闇に葬られるか、発覚しても死亡との因果関係不明などとして不問に付されてしまいます。

 

闇から外に出すには、まずは当事者やその家族らが声を上げ、告発することから始めなくてはなりません。そして、そうした告発を社会の側が真剣に受け止め、犯歴差別や国籍差別を克服する努力をすることです。問題の事案を一般的な人権問題としてとらえ、関係者を立件し、あるいは懲戒処分にかけて幕引きとするのでは、本質的な解決とは言えません。

 

 

[付記]
冒頭の岡崎署の事件で変死した被疑者には統合失調症の持病もあったと報じられており、そうだとすると、精神障碍者に対する差別も絡む事案となり、まさに精神障碍者を収容する精神科病院でもしばしば発覚してきた患者の変死事件と共通する要素を持ってきますが、差別的権力犯罪を主題とする本稿ではこの問題に立ち入りません。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第53回)

レッスン11:犯歴差別

〔まとめと補足〕

 はじめに、犯歴差別がなぜ前レッスンの国籍差別と並び、「余所者への差別」の一環に組み込まれているかと言えば、犯歴者(犯罪者)は外国籍者(外国人)と並び、共同体のメンバーとはみなされない属性だからです。「塀の向こう」といった刑務所の隠語がそれを示しています。言わば、外国人が外なる余所者だとすれば、犯罪者は内なる余所者なのです。

  
 ところで、本レッスンは旧版では「犯罪者差別」というタイトルを付けていました。しかし、後述するように、犯罪者という用語自体、生涯消えない烙印のようなニュアンスを醸し出すため、犯歴を理由とする差別=「犯歴差別」というあまりこなれていない表現に置き換えた次第です。

 
 ただ、「犯歴差別」と言い換えたところで、他の「○○差別」と比べて、なかなかこれを差別として認識することは難しいかもしれません。その理由は、「犯罪者=劣等人間」という社会的意識が根強く存在するため、犯歴差別は、ともすれば「正義」とか「贖罪」といったビッグワードで正当化されやすい傾向を持つからでしょう。
 
 その点、日本古来の観念によると、罪も宗教的なケガレとみなされていたのですが、現代の犯罪者劣等視は専ら道徳的な観点からなされ、「卑劣な犯行」といった表現にも見られるように、犯罪者は道徳的に劣った人間と見られがちです。
 ただ、犯歴差別にあっても、視覚的表象との関わりがないわけではありません。例えば「目付きが悪い」とか「ヤクザっぽい顔」、日本では濫用気味に多用される「不審者」のように、犯罪者に特有の外見があることを前提とする表現が見られます。
 
 また、今日ではすでに過去のものではありますが、19世紀後半から20世紀初頭頃には、犯罪者は人類学的にも識別可能な肉体的特徴を持つと主張する犯罪人類学が風靡したこともありました。
 こうした犯罪人類学の泰斗でもあったイタリアの法医学者ロンブローゾは、矯正不能のゆえに死刑をもって淘汰するほかないとされる「生来性犯罪者」の理論を提唱しました。
 この理論は同時期に台頭していた社会進化論や優生思想とも結び合っていたことは明らかでした。こうした科学的根拠を欠く生来性犯罪者の理論もすでに否定されて久しいですが、今日でも死刑判決の中ではしばしば被告人の「矯正不能」が指摘され、死刑の正当化理由となっているように、死刑制度の中ではなお「生来性犯罪者」の理論が部分的に生き延びているとも言えます。

 
 一方、近年は犯罪映画やドラマの影響からか、「サイコパス」といった心理学・精神医学的な術語―実は疑似科学用語―を使用しての犯罪者差別も出現しています。これは精神医学で言うところの「パーソナリティ障害」が通俗化して、あたかもかつての生来性犯罪者理論のように、サイコパスという矯正不能な猟奇的犯罪者が存在するかのような前提に立つ用語です。
 しかし、これも生来性犯罪者理論と同様、科学的根拠に基づいておらず、多分にして映画やドラマ等のフィクションの世界の産物であることに注意する必要があります。

 
 一般に犯罪が社会を不安に陥れる有害な行為であることは否めず、犯歴者が一定以上危険視されることは不可避的でしょう。従って、その罪状によっては犯罪を犯した人の身柄を拘束し、一定期間社会的に隔離することは差別と断定できません。しかし、それを超えて犯罪を犯した人を劣等視し、その教育や更生の可能性をも否定して、抹殺や永久隔離、社会的排斥を推進することは差別となります。
 
 とはいえ、犯歴差別の克服は他の差別の克服にもまして容易なことではありません。何度か示してきた「内面性の美学」にしても、犯歴者はまさにその内面が汚れているとみなされるので、「内面性の美学」によれば、かえって差別を助長しかねない面すらあります。
 また、互いの差異より共通点を発見しようという「包摂の哲学」も、大量殺人犯人のような人物と自分との間には何らの共通点も見出し難く、我が身に引き寄せて考えてみる「引き寄せの倫理」も、自分が大量殺人犯人だったら・・・などと想像できる人は少ないでしょう(想像できるという人がいてもちろん大いに結構ですが)。
 
 お手上げのようにも思えますが、内面性の美学の派生型として、内面の浄化可能性というものを想定することができます。すなわち、内面の汚れた罪人といえども、矯正され更生することによって、内面の汚れが除去されると考えるのです。この考えは、あたかも日本古来のケガレが、一方では清めや祓いによって洗い流されて浄化されると観念されていたことと似ているかもしれません。
 このような「内面の浄化理論」によれば、「包摂の哲学」との関係でも、更生した犯歴者を私どもと「同じ人間」として認め直す可能性も開かれてくるのではないでしょうか。
 
 そう考えるならば、特定の人間に犯罪性が生来的ないし恒久的に付着しているかのようなニュアンスを帯びた「犯罪者」という用語は前差別語とみなして、その使用を極力回避し、「犯行者」とか「犯歴者」などの烙印とならない用語に置き換えることも真剣に検討すべきことになるでしょう(命題14参照)。
 さらには、そもそも「犯罪」という道徳との結びつきを払拭し得ていない用語も再考し、単に刑罰法規に違反したという意味での「犯則」と言い換えるなどの用語的工夫も有益でしょう。
 
 さらに進んで、そもそも罪を犯した人を前科者という社会的に最も差別されやすい地位に立たせてしまう刑罰制度自体を廃して、矯正と更生を促進する別のより合理的な制度を創案すべきでしょうか━。これは、もはや本連載の課題を超えた問いとなりますから、宿題とします。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第52回)

レッスン11:犯歴差別(続き)

 

例題3:
新聞やテレビの犯罪報道で、犯罪の被疑者や被告人の実名が顔写真や映像とともに公開される慣行(実名報道)を廃し、匿名を原則(匿名報道)とすべきだと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない


 日本に限らず、世界的な報道慣行として広く見られる「実名報道」に対しては、従来から一部批判も向けられてきましたが、それはもっぱらプライバシーや無罪推定原則の観点からなされています。
 実名報道は、被疑者・被告人の個人情報である氏名・顔写真・映像、場合により家族関係まで暴露したうえ、犯人視することを典型的な内容とするので、市民としてのプライバシーや無罪推定を受ける権利を侵害していることはたしかです。
 そうした点を考慮して、日本の報道界ではかつての呼び捨て習慣を改め、「容疑者」「被告(人)」呼称を定着させたり、顔写真の公開を抑制するなど、一定の改善策も示してきましたが、そこまでで止まっており、実名報道そのものの廃止には断固として否定的であるようです。
 
 それほどに実名報道固執する理由を究明していくと、被疑者・被告人=犯人(犯罪者)という暗黙の前提に立ちつつ、その者を「さらす」という社会的制裁の形をとった一つの犯歴差別の慣習―逮捕・起訴されただけで犯歴とみなす早まった犯歴差別―に行き着くでしょう。
 これに対して、実名報道を固守する報道界からは、しばしば「実名報道は権力に対する監視手段である」といった正当化理由が持ち出されることがあります。
 しかし、「権力監視」を言うならば、権力行使の客体となる被疑者・被告人をではなく、権力行使の主体となる警察官や検察官、裁判官ら官憲側の実名(少なくとも各々の主任官の実名)を公表しなければ意味がない―こちらは、むしろ「匿名報道」が確立されている―ので、こうした理由を持ち出して「さらし」を正当化するのは、一種の転嫁的差別です。
 
 もっとも、一般社会で実名報道がどの程度支持されているのかよくわからないのですが、「ツラを見てやりたい」といった慣用句に象徴されるような「さらし」への欲求は相当に潜在しているのではないでしょうか。
 そのことは、少年法上匿名報道が要求されているため、実名報道の例外となっている少年の被疑者の実名や顔写真までがしばしばインターネット上に流出するという事態に表れています。
 
 こうした「さらし」は犯歴差別の一環とも言えますが、実名報道(あるいは報道を介さない「流出」)の対象は、法的な処分が確定する前の被疑者・被告人や少年に向けられることが圧倒的に多いです。
 そうであれば、やはり無罪推定原則が妥当するのであって―たとえ「自白した」という当局発表があっても同様―、「未決の被疑者・被告人、少年はまだ犯人と決まったわけではない」という鉄則を明確に意識することが、「さらし」欲求の抑制、ひいては匿名報道の確立にもつながる道となります。
 
 原則的な「匿名報道」―高位公職者や社会的地位を持つ公人、著名人などは例外―は、必ずしも犯歴差別そのものの解消を意味しないとしても、一つの差別回避策として、犯歴差別解消への重要な一里塚になるでしょう。

 

例題4:
あなたは死刑制度に賛成しますか。

 

(1)賛成する
(2)賛成しない


 死刑制度を差別問題に絡めることをいぶかる向きもありましょう。普通、死刑制度への賛否は「正義」の理解の仕方の問題としてとらえられているからです。そういう大きな問題として取り扱うと、死刑の存廃は水かけ論争に終わりがちですが、視座を変えてみると、少し違ってきます。
 
 そもそも、死刑とは犯罪者の存在価値を否定し、「生きるに値しない」と断罪する刑罰です。しばしば死刑判決文でも、被告人を「鬼畜」などと非難し、人間としての属性をさえ否定したうえで死を宣告するのは、そのことの端的な表れにほかなりません。その意味で、死刑とは、犯罪者を劣等視し、単に社会的に排斥するにとどまらず、地上から抹殺する究極の差別制度だとも言えます。
 このようにとらえるならば、死刑を「正義」とみなして正当化するのは、これまでに見てきた他の事例と同様、一見もっともらしい理由を持ち出す転嫁的差別の一例と言えます。究極の差別であるがゆえに、転嫁的理由づけとしても「正義」のようなビッグワードによりかかることになります。
 
 死刑制度が究極の差別であるということは、この制度が差別問題全般に対するリトマス試験紙となり得ることを意味しています。死刑制度への賛否にも濃淡がありましょうが、犯罪者の生きる資格を否定するこの制度を強く肯定する人ほど、本連載で取り上げた他の事例でも、差別的な回答をする確率の高い人だと見てほぼ間違いありません(逆もまた真なり)。
 その点で、人間を「生きるに値するかどうか」という基準で選別し、少数民族障碍者、同性愛者等々「生きるに値しない」と断じられた人々の絶滅政策にまで暴走したナチスが、同時に死刑制度を称揚して死刑の適用を大幅に拡大・強化し、大量死刑政策を展開したことは決して偶然ではありません。
 
 一方、〈反差別〉の実践に正面から真摯に取り組む政府を持つ諸国では、死刑制度は自ずと廃止へ向かうでしょう。〈反差別〉の実践は死刑制度の廃止にとって有利な環境を準備するであろうからです。そして、死刑制度の廃止は、犯罪を犯した人にも例外なく更生のチャンスを保障する包容政策を導き、犯歴差別全般の解消をも後押しするでしょう。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第51回)

レッスン11:犯歴差別

レッスン11では、差別の四丁目二番地に当たる犯歴差別(犯罪者差別)に関する練習をします。

 

例題1:
[a]あなたの家の近所に、国が管理運営する重罪犯専用の刑務所の建設が予定されているとして、建設反対の署名運動を始めた近所の知人から署名を求められたら、あなたは署名しますか。

 

(1)署名する
(2)署名しない


[b][a]の事例を変えて、建設が予定されているのが刑務所を出所したばかりの重罪犯の更生を図る民間の施設であったらどうですか。

 

(1)署名する
(2)署名しない


 犯歴差別という現象は、犯歴情報が一般公開されることが原則としてないため、犯歴を持つ個人を直接に排斥するよりも、本例題のように、刑務所のような施設をいわゆる「迷惑施設」に見立てて、その建設反対を訴えるというような形で発現してきやすいものです。
 おそらく、[a]と[b]いずれの場合でも、反対署名をするという人が少なくないと推測されます。その理由としては、漠然とした「不安」のほか、「子どもへの悪影響」などが挙がってくるでしょう。
 
 しかし、[a]の場合は国が管理運営する正式の重罪犯専用刑務所ということで、受刑者は身柄を厳重に拘束された状態にあります。しかも、日本の刑務所では脱獄事件もほとんど起きないため、受刑者が近隣住民と直接に接触するようなことはまず考えられません。従って、「不安」等の理由は当たらないでしょう。
 
 これに対して、[b]の事例は刑務所を出所したばかりの人の更生を図る民間の施設ということで、入所者は身柄を拘束されておらず、何らかの制約はあるとしても、出入りは自由と考えられるので、「不安」等の理由も理解できなくありません。特に、例題では出所したばかりの重罪犯の更生を図る施設というだけに、再犯の危険性を懸念する意見が噴出するでしょう。
 
 しかし、再犯の危険性をゼロにすることはできないので、再犯の危険性がゼロでない限り重罪犯は刑務所に閉じ込めておくべしということになると、これは厄介者は施設へという隔離政策の一例となります。しかし、隔離政策はどのような場合でも真の問題解決とはなりません。
 社会内で生活しながら再犯の危険を除去するためには、刑務所を出所したばかりの人がどこかに紛れ込んで姿を消してしまうよりも、一定の場所で指導を受けながら暮らすほうが効果的で、かえって社会の安全を高めるとさえ言えます。
 
 なお、[a][b]いずれの場合でも、何はともあれ近所に犯歴者を集めた施設がやって来るということ自体を感情的に不快とする意見もあるかもしれませんが、それこそ典型的な犯歴者蔑視の差別となります。

 

例題2:
[a]未成年者に対する性犯罪の前科のある住民の住所・氏名を近隣の住民に開示して注意を呼びかけるという内容の法案ないし条例案が提出されたとして、あなたはこの提案を支持しますか。

 

(1)支持する
(2)支持しない


 [b][a]の事例を変えて、未成年者に対する性犯罪の前科のある者にGPS(全地球測位システム)による監視装置を装着し、警察が対象者の動静を常時監視するという内容の法案ないし条例案であったらどうですか。

 

(1)支持する
(2)支持しない


 犯歴を持つ個人を標的とする排斥的な事態が生じるとすれば、本例題のように国や地方自治体の具体的な施策を通じてということになるでしょう。
 一般的に住所・氏名のような居住情報は重要な個人情報になるはずですが、[a]では性犯罪の前科のある住民については、居住情報を近隣に開示することによって、その前科者を近隣住民が警戒し、避けるように仕向けるという制度です。
 
 一見乱暴な策のように見えますが、どこに性犯罪の犯歴者が居住しているか一目瞭然となり、該当人物を避けることができるので、「安心・安全」を高めると考えて、支持する人も少なくないのではないでしょうか。
 この法案ないし条例案はまさにそうした視点からのものであって、性犯罪の犯歴者を差別=劣等視するのではなく、危険視するものにすぎないという理解もあり得ましょう。
 
 しかし、このような制度は性犯罪の犯歴者を半ばさらし者にして、地域で孤立させるに等しいものであり、場合によっては近隣住民による転居要求などの具体的な排斥行動を誘発する恐れもあります。その意味では、犯歴者排斥の制度化と言ってもよいものです。
 その点に着目すれば、こうした制度には犯歴者に対する単なる危険視を超えた差別=劣等視が多分に内包されていると評価せざるを得ないように思われます。
 
 そこで、性犯罪の犯歴者の居住情報の開示範囲を地域の学校関係者や未成年者の保護者などに限定するといった限定開示策なら差別的とは言えないのではないかという考え方もあり得ます。
 しかし、この場合も、開示された情報が学校関係者や保護者らを通じて近隣に伝播していく可能性は否定し切れず、結果として近隣に広く開示するのと変わらないでしょう。
 
 こうした「さらし」の結果としての犯歴者の社会的孤立化は、かえって更生の妨げとなり、(近隣以外の場所での)再犯の危険性を高めるということからしても、[a]のような制度は逆効果的な失策であると言えます。
 
 これに対して、[b]のようなGPS監視であれば、犯歴者の居住情報を開示することなく、警察が対象者の動静を常時監視できるので、プライバシーの侵害も限定的で、かつ対象者の動静を広範囲に把握できるメリットも認められます。 
 たしかに、この方法であれば[a]のような「さらし」によって生じる犯歴者の社会的孤立を避けられる可能性はあります。しかし、GPS装着の事実が近隣に露見しないという確かな保証はありません。
 また、そもそも生身の人間に常時監視装置を装着するという一種の動物的な扱い自体が、犯歴者を劣等視する差別と言わざるを得ないのではないかという問題もあります。
 
 効果がありそうだからと飛びつく前に、他により差別的でない再犯防止策を研究してみるべきではないでしょうか。どのような策があり得るかということは、犯歴者更生の問題に関わり、本連載の主題を外れるので、各自の宿題とします。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第50回)

レッスン10:国籍差別

〔まとめと補足〕

 本レッスンは旧版では「外国人差別」という表題を掲げていましたが、実は「外国人」という用語は現在では死語となっている“異人”ほどではないにせよ、「余所者」というニュアンスがにじみ出た用語ですので、表題に掲げることは避け、その実質に即して、「国籍差別」と言い換えました。
 それに合わせ、「外国人」という用語も「外国籍者」と言い換えたほうがよいと思われますが、いささか行政用語のようであるため、本文では「外国人」という人口に膾炙した用語を使用し、妥協しています。

 
 もっとも、どう表記しようと、外国人あるいは外国籍者に対する差別の根源は「余所者」排斥にあります。「余所者」とは、およそ人間の共同体にとっては潜在的な敵であり、警戒しなければならない相手です。
 そして、この「余所者」排斥もまた、その外見・風采が異形であるという視覚的な表象に深く関わっているのですが、「余所者」を排斥するのは、およそすべての共同体的組織に共通する本質的な危険視であって、差別=劣等視とは微妙に異なります。
 
 こうした「余所者」排斥は、国民国家という「近代的」な政治共同体のレベルでも、国民と外国人の峻別という形で継承されています。
 国籍と国境という概念を確立した国民国家は、そうした概念を持たなかった時代には「まれびと」のような形で一定の歓待を受けることさえあった「余所者」を「外国人」としてかえって厳しく統制するようになったとさえ言えるでしょう。国民国家にとって、外国人は厳重に管理されるべき「余所者」、日本の古い差別語で言えば“異人”なのです。
 
 ただ、この場合も、外国人を必ずしも劣等視しているのではありませんから、国民国家が外国人よりも国民を優遇しようとする政策のすべてが直ちに差別に当たるというわけではありません。
 その点、国際連合人種差別撤廃条約も「締約国が公民と公民でない者との間に設ける区別、排除、制限又は優遇については、適用しない」と定め(1条2項)、人種差別と「公民でない者」、すなわち外国人に対する区別、排除等とを弁別しています。
 
 とはいえ、外国人を非公民化する政策は、そこから外国人一般を犯罪者と同視したりするような差別的観念を醸成する温床となることは否めません。
 特に日本社会では異人種・異民族が外国籍であることが圧倒的に多いため、人種/民族差別が外国人差別という形式の下に発現しやすいのです。そのため、外国人差別と人種/民族差別との境界線はあいまいであり、先の条約上の弁別も困難です。
 
 例えば、例題3に絡めて指摘した石原東京都知事(当時)の発話「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している」は、人種/民族差別か、外国人差別か、どちらなのでしょうか。
 当時、国連は「公職にある高官による人種差別的な発言」として懸念を表明しました。国連では、石原発話を実質的にとらえ、外国人犯罪問題に仮託した人種(民族)差別と認識したようです。
 しかし、石原氏側はあくまでも外国人犯罪という「治安問題」を提起したにすぎないとの認識を示し、それが「差別問題」に発展したのは、一部メディアが演説の主旨を歪曲したためだと非難しました。
 
 こうした応酬を見ると、日本社会では犯罪をはじめとする外国人問題が人種/民族差別を隠蔽するための転嫁的差別のロジックとしても機能していることがわかります。そうだとすると、外国人差別の克服は、日本社会ではなかなか意識されにくい人種/民族差別の克服にとっても有効性を持つと考えられます。
 
 ところが、この外国人差別の克服ということが必ずしも容易でなく、その究極的な方法はそもそも国民‐外国人の峻別を本質とする国民国家という法的枠組みを解体することしかありません。それはまさに革命であり、単なる〈反差別〉を超え出た政治理論上の大論点になりますから、ここで本連載の直接的な課題とすることはできません。
 しかし、国民国家の枠内でも、外国人包容政策を推進していくことは、国民国家を解体しないまでも、外国人差別克服の一里塚としての意味は持つでしょう

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第49回)

レッスン10:国籍差別(続き)

 

例題5:
外国人の永住許可や国籍取得の要件を緩和する改正法案が提起されたとして、あなたは支持しますか。

 

(1)支持する
(2)支持しない


 [a]の法案は、合法的に入国して日本に一定期間定住している外国人が永住許可や国籍をより簡単に取得して、日本社会の一員となることを容易にしようとする法案です。これは外国人を社会へ迎え入れ、事実上海外からの移民コミュニティーの存在を認めることにつながる包容政策の代表的なものと言えますが、実際に法案として提起されれば、かなりの論争を招くことは確実です。

 
 外国人の永住や帰化の要件は国によって大きく異なりますが、日本はいずれも厳しく、永住や帰化が難しい国とされています。ここで複雑極まる外国人関係法令の詳しい解説はできませんが、ごく簡単に最も原則的な要件を挙げると、次のようです。

 

〇永住許可の要件

10年以上在留していること(日本人の配偶者がいれば3年以上、日本への貢献が認められれば5年以上)
独立した生計を営むに足る資産または技能を有すること
その者の永住が日本国の利益に合致すること
身元保証人がいること(永住ビザの取得要件)


〇国籍取得の要件

引き続き5年以上日本に住所を有すること
18歳以上で、本国法(帰化前の母国の法令)によって行為能力を有すること
素行が善良であること
自己又は生計を一にする配偶者、その他の親族の資産又は技能によって生計を営むことができること
国籍を有さず、又は日本の国籍取得によって元の国籍を失うべきこと
日本国憲法施行の日以後において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを企て、若しくは主張し、又はこれを企て、若しくは主張する政党その他の団体を結成し、若しくはこれに加入したことがないこと。

 
 ご覧のとおり、いずれもハードルが高く、かつ「国益合致」(永住)や「素行善良」(国籍)など、行政による裁量性の強い曖昧な要件も付加されており、日本が移民の存在に拒絶的であることは明白です。そこで、こうした要件を緩めて、もっと永住許可や国籍が容易に取得できるようにするというのが改正法案の趣旨です。

 
 どのように、またどの程度緩和するかは政策的な問題になりますが、例えば上掲の曖昧な要件を外すことは最小限度の緩和になるでしょう。より踏み込んだ緩和としては、10年以上(永住)、5年以上(国籍)という居住期間の原則的な要件を短縮することです。さらに、出身国との二重国籍を容認することは、より踏み込んだ緩和となります。

 

例題6:
[a]「永住外国人には国政選挙における選挙権(投票権)を保障する」という趣旨の法案が提起されたとして、あなたは支持しますか。

 

(1)支持する
(2)支持しない

 

[b]「一定期間国内に居住している外国人に対しては、その居住地の地方自治体の選挙権(投票権)を保障する」という趣旨の法案については、どうですか。

 

(1)支持する
(2)支持しない 


 本例題が問題とする外国人への参政権の保障は理屈として困難な点がより多いです。主権は国民にあるという国民主権の公理からすれば、国民が国政選挙の選挙権を有することは民主国家の基本とされますが、外国人が国政選挙の選挙権を持たないことは自明とされてきたのです。
 そのため、国政レベルの参政権は国籍保持者に限定されるという考えがなお世界的にも根強い一方、地方参政権については一定の居住要件を満たす外国人にも保障する国がかなり出てきています。 
 
 ただ、税金に関しては、国も自治体も国民と外国人を区別せずに徴収しているわけで、「取るものは取るが、与えるものは与えない」というのは虫が良すぎるとも言えます。
 税金は国民か外国人かを問わず“平等に”徴収するというならば、税金の使い道を正すための選挙権(投票権)についても外国人、とりわけ社会の一員として定着している永住外国人には平等に保障するのが本筋ではないでしょうか。代表なくして課税なし。これは議会制度の歴史的な原点でもあったはずだからです。
 
 とはいえ、[a]のような国政レベルでは外交・安全保障も一応選挙の争点となり得る―実際にはほとんどなりませんが―ことからすると、たとえ永住者であっても、国政レベルの選挙権を外国人に保障することには否定的な国がなお圧倒的です(少数の例外として、ニュージーランドやチリなど)。これは、国民国家体制の超え難い限界と言えるでしょう。

 
 他方、[b]のように外交・安全保障がそもそも争点とならない地方レベルについては、少なくとも選挙権を一定期間居住する外国人に保障することに決定的な障害は認め難いと言えます。
 なお、被選挙権に関しては別途考慮の余地がありますが、少なくとも市町村議会の議員の被選挙権に関しては、一定期間居住する外国人にも拡大することに重大な障害はないと思われます。
 
 ただ、ここでも国籍で区別して、国交のない国の国籍保有者は除くという妥協策はあり得ますが、このように国籍の違いで参政権の有無を分けると、外国人参政権の内部に国籍による差別が持ち込まれます。それでは包容政策のはずの外国人参政権がかえって特定の外国人に対する排斥を助長する逆効果を持つことになり、真の包容政策とは言えません。