差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第48回)

レッスン10:国籍差別(続き)

 

例題3:
テレビ番組のコメンテーターが、番組の中で「近年、外国人犯罪が急増している」と発言したとして、あなたはこの発言を信じますか。

 

(1)信じる
(2)信じない
(3)わからない


 外国人と聞いたときに「非外国人」である国民が思い浮かべがちなのは、「外国人犯罪」です。次のレッスン11で取り上げるように、「犯罪者」はほとんど体感的に差別・排斥されるカテゴリーであるため、外国人を事実上犯罪者と重ね合わせることで、外国人差別が助長されていきます。
 では、国民がどこでこうした差別的な観念を植え付けられるかと言えば、学校教育ではなく、マス・メディアの報道を通じてであると考えられます。
 

 今を遡ること20余年前の2000年4月、作家としても著名だった石原慎太郎氏が東京都知事の時、自衛隊の記念式典で、「今日の東京をみますと、不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」云々と演説したことがありました。
 このような発話は厳しい批判を浴びると同時に、多くの賛同も寄せられたとのことで、一般大衆の間にある外国人差別意識の根強さを示す事例でもありました。この発話自体は一人の政治家の演説の中でなされたものでしたが、それがマス・メディア、さらにはインターネットを通じて拡散されることで浸透していきます。拡散されることで批判も受けますが、同時に賛同も広がってしまうのです。
 
 ところで、石原発話中、現代では聞き慣れない「三国人」とは終戦直後、日本の支配下から解放され独立した朝鮮や台湾の出身で、植民地解放に伴い、日本国籍を喪失したまま日本本土に残留し、実質的な移民となっていた人々を疎外的に呼んだ差別語ですが、今日では日常まず使用されない死語と化しています。
 当時の石原知事がそのような古めかしい差別語を20世紀最後の西暦2000年という節目の年にわざわざ復活させたうえ、「凶悪犯罪」と結びつけてみせたのは、日本の首都のトップによる朝鮮人や台湾人等への民族差別宣言と受け取られてもやむを得ないものであり、この点が特に強い批判の対象とされたのは当然と言えます。
 
 しかし、よく考えてみると、石原発話の本旨は「三国人」と並べて言われた「外国人」全般が「凶悪犯罪を繰り返している」として“常習凶悪犯罪者”(?)に仕立ててしまった点にあると思われます。
 これならば、例題のコメンテーターのコメント「近年、外国人犯罪が急増」という聞いたことのある言説の亜種となります。そして、石原発話に対する都民の賛同も、「三国人」の部分よりは、こちらの言説へこそ向けられていたのではないでしょうか。なぜ大衆が聞いたことがあるかと言えば、マス・メディアやインターネット上でそのようなコメントがしばしば流布されるばかりでなく、マス・メディアが外国人による犯罪事件を好んで取り上げること自体も大いに影響していると考えられます。
 
 こうした言説の特徴は、「近年」とか「急増」といった言葉で緊迫感を掻き立てるところにあります。しかも、根拠となるデータはほとんど示されません。そのため、かえって評論家、弁護士、ジャーナリストといったコメンテーターの肩書きの権威と相まって、ご託宣のようにある種の神秘的な説得力を持ってしまうのです。
 私たちがこうした言説の「神秘化」に乗せられないようにするには、データを示さない専門家の断定的コメントを無条件には信じないこと、そして自らも可能な限りで関係資料に当たってチェックする癖をつけることが最低限の注意則となります。そのうえに、データが示されていても、その出典データや出典そのものの信頼性や正確性、さらにコメンテーターのデータの読み方に誤りや歪みがないかどうかといった点までチェックできればなおよいでしょう。
 
 それでは、例題のコメント「近年、外国人犯罪が急増している」は果たして正しいのでしょうか。本連載は犯罪情勢を主題とするものではないので、検証は保留とします。ぜひ各自でお調べをいただければと思います。

 

例題4:
不法入国者でも一定期間国内で平穏に暮らしてきた者には合法的な滞在権を保障する」という趣旨の改正法案が提起されたとして、あなたはこの法案を支持しますか。

 

(1)支持する
(2)支持しない


 これは不法入国者に対する免責制度に関わる例題です。すなわち、入国時に密航などの違法行為があっても、その後の行状を考慮して問題なければ改めて合法的に滞在させようという制度です。

 とはいえ、正規の手続きによらない入国はすべての国で犯罪行為とされており、免責制度のようなものがなくとも、直ちに外国人差別だと断じられません。

 元来、近代の国民国家は国民と外国人とを峻別し、基本的な権利に関して国民を外国人よりも優遇する本質を持っています。従って、国民が自国に居住できることは自明の権利ですが、外国人が滞在できるのはあくまでも国の許可に基づくにすぎず、不法入国者には滞在権が存在しません。
 例題の不法入国者免責制度はそうした伝統的な考え方の大転換という意味を持っているため、支持しないとする回答が圧倒的多数を占めてもおかしくはないでしょう。
 
 とはいえ、不法入国した外国人夫妻が摘発され、日本で生まれ育ったため在留特別許可が出された子だけを残して本国へ送還されたという実例(2009年フィリピン人夫妻の事案)を知れば、判断に迷いが生じるのではないでしょうか。
 この夫妻は不法入国後は犯歴もなく日本社会に事実上定着していただけに、免責制度があれば―制度がなくとも、法務大臣の在留特別許可の権限は裁量性が強いので、事実上免責することもできた―、家族を引き裂くことなく、救済できたケースです(ただし、免責が認められる法的条件を厳しく設定するなら救済できない場合もあります)。
 
 免責制度を支持しない人はおそらく不法入国という犯罪行為をことさらに重く見るのでしょうが、これは入国の手続き違反であり、人を殺傷するような重大犯罪とは性質の違う形式的な犯罪です。
 合法的に入国しておいて重大犯罪を犯す外国人と、不法に入国した後は平穏に暮らしてきた外国人とどちらが社会にとって脅威であるかを実質的に考量してみましょう。そのような冷静な考量は、排外主義的な衝動を抑制するうえでも有効です。

 
 そうした意味からは、「不法入国者」とか「不法滞在者」といったいかにも排外的な用語もそれ自体として差別語とは言えないものの、こうした用語を乱発することは外国人差別を助長する可能性があります。少なくとも「不法滞在者」という用語は「非正規滞在者」といった別語に言い換えが可能と思われます。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第47回)

レッスン10:国籍差別

レッスン10では、差別の四丁目一番地に当たる国籍差別(外国人・移民差別)に関する練習をします。

 

例題1:
[a]あなたの隣家に外国人一家が越してきたとして、近所付き合いをしてみたいと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない


[b]([a]で「思わない」と回答した人への質問)その理由は何ですか(自由回答)。


 本例題は、近所付き合いそのものが希薄化している時代にはあまり意義のない練習かもしれません。「私は隣家が日本人だろうと外国人だろうとおよそ近所付き合いなどするつもりはない」というならば、平等主義の“近隣絶交宣言”ですので、差別には当たりません。これも、地縁が希薄化した時代における一つの現代的な差別回避行為と言えるのかもしれません。
 

 そこまで徹底はしないけれど、外国人一家とは近所付き合いをしたいと思わないとしたら、なぜでしょうか。「外国人は言葉が通じないから」という実際的な理由なら差別とはひとまず無関係ですが、もし隣家の外国人一家が日本語を話せる人たちであったとしたら?
 「外国人は怖いから」という理由なら偏見的とはいえ、それは危険視であって、劣等視ではないから、辛うじて差別には当たりませんが、差別一歩手前の前差別行為には当たります。
 「外国人は日本の慣習を知らないから」という理由などもあり得ますが、それは事実である場合もあるにせよ―日本の慣習を熟知する外国人もいます―、付き合う中で日本の慣習を教えることもできますし、一方で、日本人側が外国人の慣習(特に宗教的慣習)を知り、尊重することも必要ですから、こうした文化的理由を持ち出す形の外国人忌避は転嫁的差別となります。
 

 一方、その隣家の外国人一家が黒人だからとか、アジア系だからといった理由で近所付き合いを忌避するのだとしたら、これは実は外国人差別の形式をまとった人種/民族差別であることになり、遡ってレッスン3の問題です。
 実際上、日本における人種/民族差別は直接的に表面化するよりも、こうした外国人差別の中に潜り込むような形で立ち現れてくる例がほとんどです。そのため、「日本社会に人種/民族差別は存在しない」という錯覚も生じやすいわけです。

 

例題2:
あなたがアパートの家主だとして、外国人が入居を申し込んできたら、入居を認めますか。

 

(1)認める
(2)国籍によっては認める
(3)認めない


 借家、中でも賃貸事業者のような法人組織ではなく個人の家主が提供する借家では、家主と借主の間の継続的な信頼関係が重視されるため、家主として借主の属性・素性に関心を持つのは自然なことです。
 それにしても、外国人の入居は一切認めないとなると、これはもはや「外国人は怖いから」というような危険視を超えて、外国人という属性そのものを劣等視し、排斥する差別とみなすほかありません。
 
 ただ、ここでも、例題1のような文化的理由のほか、「外国人犯罪集団のアジトに使われては困る」といった治安上の理由などが持ち出されることがあるかもしれません。こうした理由付けはいずれも一部の実例を一般化して取って付けているだけで、転嫁的差別行為の典型です。
 
 それでは(2)のように国籍によって区別するという妥協策はどうかと言いますと、これも国籍による外国人差別の問題を生じます。例えば、欧米系の国籍を持つ外国人なら認めるが、アジア・アフリカ地域の国籍を持つ外国人は認めないといった方針は、特定の国の国籍を持つ外国人を劣等視し、排斥することになります。そこには、例題1でも指摘した人種/民族差別が国籍差別に仮託する形で潜んでいるとも言えます。

 
 ちなみに、日本と国交のない国の国籍を持つ外国人は認めないといった方針になりますと、いささか微妙です。日本と国交がないということは、日本国と敵対関係にある国ということになりますから、政治が絡んできます。しかし、その入居申込者の素性が実際に疑わしいといった正当な理由がない限り、国籍のみを理由とする入居拒否は差別行為に当たると考えられます。

 結局、借家に関しては、日本国民と外国人とを区別すること自体が間違っていることになります。外国人でも長期滞在・居住を考える場合は、家を購入する資力がない限り、どこかに家を借りなければならない事情は日本国民と同様であることを考えれば、これは当然の事理でしょう。
 本来、国籍に限らず、しばしば発生しがちな入居者の属性による借家差別を防止するためには、借地借家法上、借家に当たっての差別禁止を定めた条項を置くことが望ましいと言えます。
 
 なお、例題としては取り上げませんでしたが、外国人の入店を拒否するような商店も一部にいまだ存在するかもしれません。裁判にまで至った過去の実例として、ブラジル人が宝石店への入店を拒否された事例や、アメリカ人が公衆浴場の利用を拒否された事例などがあります。
 借家とは異なり、継続的な信頼関係など必要ない店舗への短時間の立ち寄りや利用を外国人だからという理由だけで拒否するのは明白な差別です。これについては多言を要しないでしょう。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第46回)

レッスン9:年齢差別

〔まとめと補足〕

 例題を通じて見ましたように、年齢差別は高齢者に対する差別と若年者に対する差別とに分かれています。厳密に言えば、高齢者に対する差別も、老齢者に対する差別と就職上の年齢差別に見られるように相対的な高年者に対する差別に分けることができますし、若年者に対する差別も未成年者に対する差別と若年成人に対する差別に分けることができます。本来は、例題もそうした細分類に従って分けた方がよかったかもしれませんが、都合により、そこまではしませんでした。

 
 いずれにしましても、年齢差別という現象は、人が早熟早死の時代や、現在でもそのような状況下にある社会では表面化してくることはありません。なぜならそのような時代ないし社会では若年期は短く、また高齢者は例外的な福寿者にすぎないからです。
 従って、年齢差別は人の寿命が延び、比較的長い若年期と極めて長い高齢期―「前期」と「後期」に分類されるほどの―を経験するようになって初めて顕在化してくる長寿社会の差別現象と言えるでしょう。
 

 このような長寿社会における年齢差別は、能力差別の応用分野という位置づけにあります。なぜなら年齢の高低は能力の高低と相関関係にあると考えられているからです。高齢者の場合は老化による能力低下、若年者の場合は未熟による能力不差別の根拠となっています。
 
 ただ、すべての差別に通低する視覚的表象による差別という本質が年齢差別にも備わっています。例題でも取り上げたアンチ・エイジングという語は、その反面において「しわくちゃ」「よぼよぼ」の老齢者の容姿を蔑視しています。また女性(場合により男性も)の就職における年齢差別には、より明白に(相対的な)高年者に対する容姿差別の要素が認められます。
 これに対して、若年者に対する差別には容姿差別の要素は希薄なように見えます。しかし、ここでも未成年者の場合は一般に身体が小さく、容貌も幼いことへの見下しの視線が一定は認められるのです。
 
 このように、年齢差別は能力差別的要素と容姿差別的要素とが交差する領域でもあると言えます。そこで、その克服には能力差別とともに容姿差別について述べたところがあてはまることになります。
 表象という観点から見ますと、高齢者と若年者が差別されることは、年齢に関しては両者の中間的な青壮年の成人が最も賛美されることの反面的な結果と言えます。結局のところ、―おそらくは世界中で―「青壮年の美形」が人間の理想型として表象されているのです。その理想型から外れていればいるほどに差別の標的となりやすいと一般的には言えます。
 
 とすれば、差別の克服にとって、こうした幻惑的な表象への束縛から人間をいかにして自由にすることができるかということが課題となります。その点で、一見すると年齢という生物学的・医学的な目に見えない要素を理由とする年齢差別においても、あの「内面性の美学」や「全盲の倫理」が改めて課題克服の鍵となることが見えてきます。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第45回)

レッスン9:年齢差別(続き)

例題5:
あなたは、何歳以上を法律上成人とみなすべきだと考えますか。

 

(1)20歳以上
(2)18歳以上
(3)その他(自由回答)


 年齢差別と言いますと、前回まで見た高齢者差別(広くは高年者差別)が中心的な問題であり、未成年者を含む若年者はあまり差別の対象とはなりません。もっとも、酒やタバコなどの嗜好品の摂取や契約などの法律行為について未成年者には種々の制約が課せられますが、これらは未成年者保護を目的とする制約であり、差別とは別問題です。

 
 とはいえ、法律上何歳を未成年者と定めるかによって、そうした未成年者保護を目的とする制約のかかる年齢層に大きな差異が生じますから、法律上の成人年齢如何は重要な問題です。それを高く設定すればするほど未成年者の範囲は広がり、制約される年齢層も広くなるため、若年者差別(保護に名を借りた転嫁的差別)の域に近づくことになります。

 
 その点、日本の法律(民法)では長い間20歳を法定の成人年齢としてきましたが、2022年4月施行の改正法により、成人年齢が18歳に引き下げられました。これは、明治時代以来100年以上も続いてきた20歳成人制度の画期的な転換です。これにより、未成年者保護に関する法令の適用も大きく変化するからです。
 このような大転換を決めた真の理由は定かではなく、諸国では18歳成人とする例が多いからなどとされていますが、先行して行われていた選挙権年齢の18歳への引き下げに合わせた改正と見られます。

 
 何歳を成人とするかは国の政策の問題とも言えますが、全く適当に決めてよいわけでもありません。成人と呼ぶにふさわしい身心の発達が標準的に備わっている年齢を成人とみなすべきでしょう。そう言ってもまだ決め手に欠けますが、私見は旧法の20歳でも新法の18歳でもなく、19歳とするのがよいと考えています。
 19というのは中途半端な数字に見えますが、日本の現行教育制度上、18歳ではまだ多くは高校生であるところ、19歳になると多くは大学生その他の学生または有職者となりますから、成人とみなすにはちょうどよい頃合いではないかと思うのです。

 

例題6:
[a]あなたは未成年者に選挙権を与えない選挙制度は正当だと考えますか。

 

(1)考える
(2)考えない


[b]([a]で「考える」と回答した人への質問)その理由は何ですか(自由回答)。


 基本的な権利の上で未成年者と成年者とを最も大きく隔てているのが選挙権の有無ですが、例題5でも触れたように、日本では公職選挙法民法より先に改正され、いったんは選挙権年齢が当時は未成年であった18歳に引き下げられたことで、本例題[a]の意義はいったん失効していました。しかし、民法の改正に伴い、18歳成人とされたため、再び未成年者の選挙権は失われる結果となり、例題の意義が復活したことになります。
 
 その点、おそらく現時点では、未成年者に選挙権を与えない制度は正当との回答が大方かと思われます。その理由として、成人年齢が18歳とされたことで、未成年者の範囲が17歳以下に引き下がったこともあり、その年齢層の未成年者は未熟であり、政治的な判断能力を欠いているからという能力問題が挙がってくるでしょう。すると、これは能力差別の領域に入ってくる問題になります。
 
 しかし、果たしてそう断言できるものでしょうか。極論すれば、政治・経済について非常によく学んでいるませた15歳のほうが、政治的に無関心で無知な51歳よりも政治的な判断能力を備えているとみなすことはできないでしょうか。
 さらに、現代では、上述した未成年者の保護に関わる種々の法律のほか、少年法のように未成年者の刑事処分に関わる法律など、未成年者の権利・義務を規定する法律が多数存在することからしても、未成年者自身の意見も反映させるべく、未成年者に選挙権を与える理由はあります。
 
 もっとも、20歳選挙権時代には、20歳に一歳足りないだけの19歳に選挙権を与えないことの不合理性が顕著でしたが、18歳成人‐選挙権となった現在では、17歳以下に選挙権を与えないことは政策として問題ないという理解もできるかもしれません。その意味で、本例題の意義は旧版当時よりは減殺されたと言えます。

 
 ちなみに、被選挙権に関しては、日本の公職選挙法はその下限年齢を25歳(参議院議員都道府県知事については30歳)としています。被選挙権は公職選挙に立候補し、当選後は議員や首長に就任する権利ですから、より高度な政治的判断能力と活動能力とが必要とされ、成年者であってもそうした能力に欠けるとみなされる24歳以下のいわゆる若年成人には被選挙権を与えないという趣旨でしょう。
 
 しかし、被選挙権についても果たして一律にそう決めつけてよいのでしょうか。ここでは、成人でも24歳以下は被選挙権を持たないことになるので、未成年者差別を超えたより広い若年者差別とみなすこともできます。場合によっては(例えば市町村議会議員の場合)未成年者にさえ被選挙権を与えてよいのではないかという疑問もあり得るところですが、この問題にここで深入りすることは避け、宿題とします。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第44回)

レッスン9:年齢差別(続き)

 

例題3:

認知症が進行して認知機能が著しく低下した高齢者に対して、幼児のように接することは適切な態度だと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない
(3)わからない


 かつては「痴呆症」などと差別的な学術・行政用語で呼ばれていた老人性疾患が「認知症」という新語に変更されても、高齢者への虐待は絶えないようです。こうした虐待は「差別」というよりも「人間の尊厳」の問題としてとらえるほうが適切と思われます。しかし、高齢者虐待という態度のうちには、身の回りのことを自力でこなす能力を喪失した要介護高齢者に対する蔑視も含まれており、その観点からはこれを高齢者差別の問題としてとらえることができるでしょう。
 

 もっとも、本例題は虐待そのものではなく、認知症の進行した高齢者に幼児のように接する態度の是非という変則的な問題です。虐待の多くは家庭内で発生するのに対し(残念ながら、時折施設内でも)、幼児に対するような接し方は老人ホーム等の介護職員の態度にしばしば見受けられます。
 こうした高齢者の幼児扱いは表見的には虐待の対極にあることから、認知症によって物事が理解できなくなり、幼児に返った(と解釈されている)高齢者に対する「優しい」接し方として案外介護専門職によっても容認されているように見えます。
 

 しかし、表面上幼児のようになっているとしても、それは認知症のせいであって、近年の知見によれば認知症が進行しても言葉にならない動機や感情はかなりの程度残存しているとも言われるので(外部記事参照)、本当に幼児返りを起こしたわけではなく、高齢者が長い人生を刻んできた成人であることに変わりありません。
 そのような成人を幼児扱いすることは、それがいかに「優しい」態度であっても、そこには能力を喪失した高齢者への見下しの視線が伏在してはいないでしょうか。これはちょうどレッスン2で見た「障碍者への同情」という態度にも通ずる利益差別の一形態ととらえることも可能です。
 
 このような結論には疑問を感ずる向きもあるかもしれません。たしかにこれは難問ですから、以上が唯一の正答というわけではありません。各自でさらに省察を深めていたいただくことを望みます。

 

例題4:

[a] アンチ・エイジングは人間の理想だと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない

 

[b] ([a]で「思う」と回答した人への質問)その理由は何ですか(自由回答)。


 昨今はアンチ・エイジング流行りのようですが、アンチ・エイジングを差別との関わりで引き合いに出すことをいぶかる向きもあるでしょう。しかし、アンチ・エイジングとは単なる「老化防止」とは異なり、文字どおりにとれば「反・老化」であって、老化に対して明確に否定的な価値観に立った美容健康の理念と実践です。
 
 もっとも、アンチ・エイジングを広義にとると、内臓の健康や精神的な若さを保つといった「内面」の反・老化を含むとも考えられますが、世上アンチ・エイジングは容姿の若さを保つという「外面」の反・老化に圧倒的な比重が置かれています。[b]の設問で尋ねたアンチ・エイジングを理想とする理由としても、「見た目の若さをいつまでも保っていたいから」といった理由が多いのではないでしょうか。
 
 前回の例題1でも若干示唆したように、高齢者はその容姿の衰えを醜悪なものとして蔑視されます。「しわくちゃ」といった形容は、その典型的な差別語です。また「よぼよぼ」といった形容も、基本的には足腰の衰えを蔑視するものではありながら、同時にそうした足腰の衰えた弱々しい容姿を蔑視する表現でもあります。
 アンチ・エイジングという語も、これを差別語と断定すれば反論があるかもしれませんが、この語は少なくともその反面において高齢者を差別するニュアンスを含んでいるので、反面差別語には当たると考えるべきでしょう。
 
 もっとも、当の高齢者自身がアンチ・エイジングを実践しているならばどうなのでしょうか。これはレッスン1でも取り上げた美容整形の問題と類似しています。そこでは自身の容姿を醜いとみなして美容整形するのは自己差別であると理解しました。同じように、自らの「しわくちゃ」「よぼよぼ」の将来的な容姿を醜いと感じ、アンチ・エイジングに励む高齢者も一種の自己差別を実践していることになります。
 
 ところで、例題では尋ねていませんが、設問[a]でアンチ・エイジングを人間の理想とは思わないとする人の理由は何でしょうか。答えはいろいろあり得ますが、人間は年相応の容姿を持っていても恥じる必要はなく、大切なのは「外面」より―内臓も含めた―内面である、ということでしょうか。
 だとすれば、これも理論編で見た命題30「内面性の美学」に帰着することになります。つまり、差別の問題とは容姿差別に始まり周回して再び容姿差別へ立ち戻ってくる性質を持つ問題なのです。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第43回)

レッスン9:年齢差別

レッスン9では、差別の三丁目三番地に当たる年齢差別に関する練習をします。

 

例題1:

[a] 雇用に際して年齢に上限を設けたり、年齢の若い者を優先採用したりすることは合理的だと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない

 

[b] 雇用における定年制はあったほうがよいと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない


 設問[a]は雇用の領域における典型的な年齢差別の事例です。現にこのような差別を受けて職が見つからず、生活難に陥るという事態も少なくないかもしれません。それにしても、なぜ雇用上の年齢差別が根絶されないのでしょうか。その要因は、設問[b]の定年制とつながっているようです。
 
 おそらく設問[a]で年齢差別的な雇用慣行に否定的な回答をした人の多くも、設問[b]では従来雇用慣行として確立されてきた定年制には肯定的な回答をするのではないかと推測されます。しかし、それは果たして一貫した論理と言えるのでしょうか。
 実際のところ、定年制自体、年齢のみを理由に一律に労働者に退職を強いる差別的な制度ですが、ここでは高齢者=職業的無能力者という能力差別的な決めつけもなされているわけです。
 そして、こうした年齢‐能力差別的な定年制を土台として、[a]のようないわゆる現役世代に対する年齢差別慣行も成り立っているわけですから、定年制を合理的と考えるならば、定年に近い年齢であればあるほど採用されにくいという現実は受け入れざるを得ないことになります。
 
 定年制を合理的と考える理由として、定年制がなければ高齢者がいつまでも居座ることによって、新卒者の就職が困難になるという問題が挙げられるかもしれません。
 たしかに一理ありますが、逆に新卒一斉採用‐定年制という画一的な雇用慣行―これは日本社会では際立って強固に定着しています―のために、新卒で就職を逃すと、年齢が上がるほど設問[a]のような年齢差別を受け、就職が困難になるという連鎖が生じてきます。
 それを考えますと、加齢が業務遂行を困難にする一部の職種を除いて、定年制を廃止し、もって年齢差別的雇用慣行全般を廃したほうが、人生設計に柔軟性が生まれ、すべての人にとって有利になるでしょう。
 
 その点、近時は年金財政の逼迫を背景として、年金受給開始年齢引き上げの代償としての定年制廃止論(または定年延長論)も起きています。しかし、これは当面の財政経済事情に対応するための「対策」レベルの話であって、「誰もが年齢にかかわりなく就労できるようにする」という雇用における年齢差別解消策とは全く異質の論です。
 これでは形の上で定年制が廃止されたとしても、高齢者の雇用は多くの場合、低賃金の不安定労働にとどまり、無年金を補うだけの効果は得られないでしょう。
 
 ところで、定年制を廃止してもなお残存するかもしれないタイプの年齢差別があります。その一つは、「中高年者は若年者に比べ、体力的にも知的にも劣る」というストレートな能力差別的認識に基づく差別です。
 このような認識は一見すると常識的に思えてきますが、必ずしもそうではありません。たしかに体力的には若年者が勝りますから、体力勝負の肉体労働における若年者優先採用は差別とは言えませんが、知的労働に関してはそうとは限らないのです。

 その点、以前の記事で、成人向け反差別教育に関連して述べたことですが、人の知性(知能)には、新しい環境に適応するために、新しい情報を獲得し、それを処理し、操作するのに必要な処理の速度、直感力、法則を発見する能力としての「流動性知性」と、個人が長年にわたる経験、教育や学習などから獲得していく言語能力、理解力、洞察力などを含む「結晶性知性」とがあります。
 
 両者の関係性として、いずれの知性も成長過程で伸長するのですが、「結晶性知性」は成人以降も上昇して60代でピークを迎え、高齢になっても安定している一方、「流動性知性」は10代後半から20代前半にピークを迎えた後は低下の一途を辿るとされています。そうだとすれば、「結晶性知性」を要する職種に関しては、むしろ中高年者のほうが適任とさえ言えるわけです。

 
 定年制と無関係に残存するもう一つの差別事象は、とりわけ女性の雇用に際しての年齢差別です。この場合は、若い女性に囲まれて仕事をしたい男性管理職層の隠された欲望が根底にあり、その本質はレッスン4で取り上げた性別差別です。
 
 ただし、職場によっては男性の採用に際しても、中高年者より見栄えの良い若い男性を優先採用する慣行を持つところもあり得ますが、そうした場合も含めてとらえれば、定年制と関連しない年齢差別は、レッスン1で見た容姿差別の問題につながることになります。
 後に別の角度から再検討しますが、高齢(高年)者は能力ばかりでなく、容姿の衰えという観点からも差別される存在と言えるのです。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第42回)

レッスン8:職業差別

[まとめと補足]

 職業が世襲的身分と不可分一体であった前近代において職業差別は身分差別、ひいては階級差別と同義でありました。しかし、産業社会における複雑な分業制の下、職業が理論上―あくまでも―“自由に”選択可能なものとなってくると、職業は個人の人格と結びつけられるようになります。
 ことに何ら職業を持たない「無職」の人間がそれだけで人間失格者のような差別的扱いを受けるのは、自給自足制が完全に崩れ、高度な分業制が確立された社会においては、「人間=職業人」という等式が支配的になるからです。
 
 このように、現代の職業差別は後に取り上げる犯罪者差別と同様に、人格価値の優劣に関わる差別であるため、外面的な視覚的表象とは無縁のようにも見えますが、決してそうではありません。
 
 職業差別では被差別者との社会的接触を忌避する「不可蝕」の形態をとりやすいと指摘しましたが、この「不可蝕」とは被差別者を「汚らわしい人間」とみなす視線に由来しています。なぜ特定の職業に就いている者を「汚らわしい」とみなすかと言えば、その職業はたいていゴミや汚物、血などを扱う「汚れ仕事」だからです。
 このことは、日本の前近代における職業=身分差別にあっても、そうした「汚れ仕事」を都市から委ねられていた最下層身分者をケガレとみなしていたことにすでに表われています。このケガレはまだ宗教的観念の域を出ていませんでしたが、これが近代的な衛生観念に置き換わるや、今度は「不衛生な職業」に就いている者への蔑視に変容したのです。
 もっとも、無職者に対する差別の場合にはそうした視覚的表象はあまり介在していないように見えますが、野宿生活者に対する差別となると、野宿生活者の「汚い」外見に対する嫌悪や憎悪すらも込められた視線に由来していることは明らかでしょう。
 
 こうした職業差別事象の中でも、歴史的な沿革を持つカースト制や部落差別に関しては、まがりなりにも社会問題として自覚され、克服の取り組みも政策的なレベルでなされてきたところですが、「3K」問題や野宿生活者問題などの現代的職業差別事象についてはいまだしであり、ともすれば「3K」仕事を外国人労働者に押し付けようとしたり、「浄化作戦」のように差別的な政策的対応がなされることもあります。
 
 職業差別はそれを抱える各国の社会経済構造とも密接に関連するため、その根本的な克服は単なる〈反差別〉の視座を超えた問題ですが、さしあたっては、職業と人格とを直結させる思考法を改めることが肝要です。
 
 つまり、「汚れ仕事」に就いていようと、また職についていなかったり、野宿生活であったりしようと、人格的に尊敬に値する人は存在する(逆もまた真なり)という認識です。考えてみればごく当たり前のこの真実を再確認すればよいだけです。
 これは、外見の美/醜だけで人間の人格価値を見定めず、内面の美を重視するあの「内面性の美学」(命題30)の活用場面の一つであることにも気づかれるでしょう。